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江國香織さんの本が好きなこと

実はもう20年以上、江國香織さんに私淑している。
最近も、noteを更新するうえでエッセイとはなんぞや?と考える機会がたびたび訪れ、江國さんの本を読み返しては、居住まいを正しまくっている。

江國香織作品を好きそうな文章だってことは、分かるひとには分かるんじゃないだろうか。
それもそうだろう。だって、むちゃくちゃ真似してきたから。
真似というといかにも聞こえが悪いが、真似か模倣以外に言いようがないので仕方がない。
わたしが文章を書くモチベーションの一角には、高校生の頃に抱いた「江國香織さんのような文章が書けるようになりたい」という願望が、いまだにある。

はじめて読んだのは「すみれの花の砂糖漬け」で、その次が「神様のボート」だった。
「神様のボート」は、当時あのラストシーンを読むにつけ、葉子さんのいまわの際の幻だったのでは…葉子さんは無事なんだろうか…と不安になったものだが、その不穏さも含めて好きだった。
のちの「バラエティ!」かなにかに載ったインタビューで、あのシーンが幻覚でなく現実だったと知り、数年越しに胸を撫でおろした。
それから「ウエハースの椅子」を読み、恋する者の穏やかな狂気というものを知って、鳥肌を立てた(今でも5本の指に入るほど好き)。

前述したとおり、江國さんの文章を模倣し続けた半生である。
学生時代、手っ取り早く文章を上達させるには上手な文章を写本すべしと教わった(誰が教えてくれたのかは忘れてしまったが、そのひとからは「ジュニア小説を上手く書きたいなら既存の漫画を小説として文字起こしすべし」とも教わった)(ジュニア小説という言葉が生きていた時代の話だ)。
教えに従い、それはそれは熱心に写本した。
当時はパソコンどころかワープロも持っていない高校生だったので、大学ノートを横倒しにしたものにシャープペンで縦書きに写本した。

全然関係ないが、当時から音楽が大好きだった(時代は国内レコードセールスの絶頂90年代後半だ)ので、好きな曲の歌詞も写し書きした。
ルーズリーフに、左寄せではなく真ん中が揃うようにして、シャープペンで写経した無数の歌詞。
当時流行っていた日本のミュージシャンの歌詞だけでなく、洋楽の歌詞もたくさん書き写しをした。
カーペンターズ、ビートルズ、サイモン・アンド・ガーファンクル、エリック・クラプトン。
英語の成績は学生時代一貫して平均程度だったが、英文を読むのだけは得意だった。きっと写経のおかげだと思う。
それにしても、当時から歌詞を写すことを「写経」と言っていたが、一体どこでそんな語彙を得たのだろう?
今、これを書きながらなんとなく「歌詞 写経」で検索をかけたら、70,000件くらいの検索結果が出た。
みんな写経って言うんだなあ。一体なぜ…誰が言い出したんだ…?

写本の話に戻るが、江國さんの作品で本まるごと写本したのは、
「神様のボート」
「流しのしたの骨」
の2冊だった。
そのほかに、短編集の中の数編も写本させてもらった。
自分が考えたわけではない文章を自分の手で書く(書き写す)というのは、不思議な作業だ。
脳に染みついた文章の組み立て方と理屈を無視した文章が、自分の手から生まれてくる。
言葉というのは思考に直結しているから、自分のやり方と違う言葉が出てくるとすごく混乱する。
その混乱が面白いし、「こうであるべし」という自分のクセをかき乱して解きほぐし「そうでなくてもいいか」と気づかせてくれるのだ。

江國さんはアメリカに留学されていたという経歴もあってか、とても理屈っぽい文章を書かれる。
時制と所有格が明確で、英語みたいな、理屈っぽい文章。
漢字の開き方と擬音が特徴的で、ひらがなの使い方がリズミカルで、そこがたまらなくいい。
音楽っぽいのだと思う。
そして食べ物の表現。
食べ物に関連したエッセイはもちろん、小説に出てくる食べ物がどれも写実的かつ独特で、とてもとても好きだ。
食べることに情熱を抱いてるひとなんだろうということが、本人の弁を読むまでもなく分かってしまう。
「やわらかなレタス」収録の一編「バターミルクの謎」の冒頭には、

子供のころに読んだ外国の物語のなかには、知らないたべものがいろいろでてきた。ヨークシャー・プディングとかつぐみパイとか、リコリス・キャンディとかクランペットとか。わからなくても――というより、わからないからこそ勝手に妄想をふくらませて――、味や匂いや色や形状、そのたべものの持つ気配を十分に味わうことができたし、それらはとても「いいもの」、自分のまわりにある実際のたべものとは位相が違う、「輝かしくおいしいに違いないもの」だった。

江國香織「やわらかなレタス」より

とある。
わたしにとっては、江國香織作品に描かれた食べ物は、まさにその「輝かしくおいしいに違いないもの」だ。
たとえば「流しのしたの骨」で、こと子が深町直人に買ってきてとねだる、黄色い板状のお菓子とか、「間宮兄弟」で明信と徹信が依子と直美をもてなすために用意した数々の料理とか。

優れた作品や作者を模倣するというのは、創作の訓練の基本だ。
一体いつまで練習すればいいのかといえば、書く限り永遠に、だろう。
そう考えると背筋が伸びる。

私淑しておきながら、この3年ほど江國さんの新刊をチェックしていなかったのでこの機会に新しい作品も読みたいし、手放してしまった古い作品も集めなおしたい。

これまでの人生で読んできた決して少なくない(が、それほど多くもない)本の中で、何度もくり返し読みたいと思えるものに出会えたのは、これ以上ない幸せだ。
日々口にする食べ物がわたしの身体を作るように、日々目にする言葉こそが、わたしの思考や感情の素になるのだから。


では、また。

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