WEB特集「今年度かぎり”見敵必撮”偵察航空隊に密着」(1)概要
航空自衛隊・偵察航空隊。これまでお伝えしたとおり、日本で唯一、航空偵察を専門にする部隊だ。1961年12月松島基地に新編され、RF-86Fという機体を運用、1962年8月に埼玉県の入間基地に移ったあと1975年10月から今回の取材地となった茨城県の百里基地に拠点を構えている。
偵察航空隊には隊司令、副司令、隊本部、そして実際の偵察に関わる偵察整備隊、第501飛行隊、偵察情報処理隊で構成されている。整備隊が調えた機体を第501飛行隊が使ってフィルム撮影、さらにここで現像した上で分析までこなす。まさに拠点である。
偵察航空隊が使っている2種類の偵察機はRF-4EとRF-4EJ、多いときには20機程度を運用し、現在では10機程度の運用とのことだった。しかし、2019年度で用途廃止、つまり引退する。さらに偵察航空隊もこれに合わせ、どこか別の部隊に引き継がれることもなく、およそ60年の歴史に幕を下ろすことになっている。
偵察航空隊の入り口を入ると正面に階段がある、上を見るとそこに、大きな偵察機の写真を従えるように、木に彫られた「見敵必撮」の文字が掲げられている。
偵察航空隊の標語である。「見つけた敵は必ず撮せ」まさに偵察・索敵を端的に表した言葉で、時には「見的必撮」としていたときもあったという。そして、撮影はデジタルが深化していく現在でもアナログのフィルムを使っている。偵察や索敵という言葉は、私達の生活には馴染みがないし、縁遠いものだ。だが、このところ相次ぐ災害への対応で被災地を早期の段階で撮影して災害支援の一翼を担っていることがわかった。テレビメディアなどで伝えられる人命救助の映像では各地の基地から出動した救難隊などのヘリコプターによる活動が主なもので、全体像を俯瞰した、しかも広範囲をとらえた物はあまり見かけない。そのひとつが今回テレビカメラの前で初めて公開された。(後述する)
ほとんど語られることのない偵察航空隊の災害支援、それに向けた日々の活動はどのようなものなのか。偵察機の用途廃止の理由やそれに伴う部隊廃止へのカウントダウンの中での任務、そして現在のフィルム撮影が災害支援にどのように生かされているのか、偵察航空隊を密着取材した。ちなみに第501飛行隊、文字ではあまり関係が無いが、正式には「ごひゃくいち」飛行隊だそうだが、部隊では「ご・まる・いち」飛行隊と呼び合っていることから、隊広報とのやりとりで「ご・まる・いち」とした。
なぜ偵察機は運用廃止なのか
上の写真はエアフェスタ浜松でのRF-4E、もちろん百里基地からの参加だった。松島基地でも見かけたが、大きな音、大爆音を響かせながら、「がーっと急上昇して、だーっと急旋回する。」というのが私なりの表現だ。フィルム撮影での偵察を任務とすることを表すフィルムの特別塗装を施した機体は、参加した他の飛行機に引けを取らない機動を見せる。元はといえばベトナム戦争当時のアメリカ軍の主力戦闘機とあって登場からほぼ半世紀を迎える古い機体だ。思わず「老朽化」という言葉が思い浮かぶ。さらにフィルム撮影での任務とあって「デジタル化の波」という言葉も容易に紐付いてきた。しかし、これは取材ですぐに「安易な発想」であると思い知らされる。
元々の機体登場は”半世紀前”
確かに「登場」は古い。この機体(上の写真)F-4ファントムは上記の通り登場から長いこともあって、幅広い年齢層の航空ファンが存在する「珍しい」機体だ。航空ファンでなくとも、ニュース映像や映画などで「どこかで見たことのある機体」と認識できる人も多いだろう。偵察航空隊が現有する機体は前述の通り、ここから派生した2種類となる。
RF-4E
F-4ファントムから武装を取り払い、そこに様々なカメラを内蔵させて撮影する。特徴はちょうどこめかみあたりに見える窓。これは撮影用の窓で、もう一方のタイプにはない。横からではわからないが、機体の裏側を下から見ると、下を撮るためのカメラ用の窓がいくつか口を開けたように見える。
また、カメラをすべて内蔵するために外装燃料タンクを3本積載が可能で比較的長距離の任務に当たることが出来る。つまり、被災地が百里基地から遠く離れていても「向かえる」と言うことになる。カメラはすべてセンサーと呼ばれている。カメラの向きとしては、前、下、横を撮影し、下についてはパノラマ撮影をする特殊なカメラが搭載できる。横については長距離偵察カメラを運用できるほか、このほかにも赤外線カメラも積み込める。様々なカメラで情報収集する一方、今回の取材では長距離カメラが隊員の安全と密接な関係があったこともわかった。
内蔵型センサー
赤外線探査装置は真中の部分が回転して様々な周波数を拾って記録するそうだ。たとえば「飛行機をずらり並べている」様な場所を撮影すると「どの飛行機が本当に飛んできたかわかる」そうだ。また、何もない駐車場に熱源が写ると「そこに車があった」と時間をさかのぼって分析する事も出来るし、形によっては、そこに「来たのか、そこから出て行ったのか」なども読み取れるそうだ。こう説明すると縁遠いセンサーが並んでいる印象だが、赤外線では火山の噴火などを情報収集、また俯瞰するような撮影では、衛星が苦手とする雲の下の情報を、雲の下を素早く飛行して、パノラマ写真を連続撮影して全体像を把握する。カメラのレンズには焦点距離がつきものだから、高度や目標との距離を計測・維持しながらの撮影となるが、それを災害発生後の早期の段階で、全体像がつかめる航空写真を撮影できるところがRF系の「得意技」で、ジェット機ならではの高速撮影が出来る。そして同じく運用されているもう一つの機体、
RF-4EJ
こちらはF-4ファントム戦闘機をそのまま流用する形になっているため、4Eには無いがファントム戦闘機にはある「機関砲」が機首部分にある。ちょうどサメの顔の下あごの部分とその先にある黒い部分がそれだ。
また、カメラは内蔵型ではなく、戦闘機にそのまま取り付けられる形の「POD(ポッド)」と呼ばれるセンサーを内蔵した機材を取り付ける。外装式だ。
POD
隊員の方と大きさを比べてもらうとかなり大きい物だと言うことがわかると思う。この白いポッドの3分の2程度がレンズとのことだった。撮影方向などは内蔵式とほぼ同じで、TACPODは下、前方斜、側方斜、パノラマ、赤外線が一つにまとめられ、これとは別のLORO PODと呼ばれる長距離カメラを搭載したものもある。これは外装式なので「RF系引退後も他の機体で使えるのでは?」の問いに整備隊からは「専用の機材で電気系統の取り回しなどの問題があって利用できない」とのこと。今後、他の戦闘機でもPOD式の撮影機材も考えられるが、無人機などにはすでに内蔵されているものもあって、着脱式のような大型のものは運用上なじまないのかもしれない。ちなみにPOD交換には2時間程度かかるとされている。4EJではこれを取り付けるために外装燃料タンクは2本までに限定されるため、4Eほどの長時間は飛べない。
ということで左の青い洋上迷彩がRF-4E、右の綠の迷彩がRF-4EJ。
”廃止”と”古い”に関連はあるか
RF-4Eが百里基地にアメリカから飛来したの昭和49年12月、実際に運用開始したのは昭和50年。RF-4EJにつても平成4年6月以降百里基地で受け入れが始まり平成5年に運用が始まった。これまでおよそ40年運用されてきたことになる。確かに古いが、機動飛行を見る限り、古いワケではなく、古い「意味」が違うのかもしれない。なぜこの機体が用途廃止になったのか、そしてそのまま部隊廃止につながるのか。整備隊、第501飛行隊そして情報処理隊に話を聞いた。(続く)
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