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450 日本のコンピュータの歴史が、面白い。

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パソコンで起こったことは、今のAI産業の歴史でも参考になる。


 現在、私たちが何気なく利用している電子機器。
電子機器が飛躍的に成長してきたのも、1948年に誕生した トランジスタのお陰だといえます。

それまでは膨大な数の真空管を使い、1つの機械を作っていました。代表的なものに 1946年に完成した ENIAC があります。
それから約50年。さらに部品の小型化は進み、1つのチップに何千万個分ものトランジスタが集積できるまでに技術が発達してきています。



 1976年になると、NEC が送り出したコンピュータ、TK-80 が発売されています。 TK-80は、マイコンブームのはしりとも言える存在で、現在のパーソナルコンピュータの基礎を作ったとも言えるでしょう。
しかし、TK-80は当初「コンピュータ」としては非常に能力が低く、当時のNECのコンピュータ専門の技術担当者が作ったものではなかったのです。
その後、日立のベーシックマスターや、SHARPのMZ-80Kの発売などがあるものの、 恐らく 日本初 の本格的パーソナルコンピュータは、NECのPC-8001と言えるでしょう。



 本Webページでは、パーソナルコンピュータの歴史を中心に、現在に至るまでを独自にまとめています。
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コンピュータの革命


もくじ



はじめに

 パーソナルコンピュータ、通称パソコンと呼ばれているコンピュータが、当時大型コンピュータを担当していた部門ではなく、当時はコンピュータとは無縁のICLSIを扱う部門で生まれた事をご存じですか?
パーソナルコンピュータの前身であるマイクロコンピュータは、1976年にNECで発足した「マイクロコンピュータ販売部」がきっかけではないだろうかと考えています。 個人用のコンピュータが生まれる前は図体の大きい大型コンピュータを利用していたわけですが、それをとても小さい半導体チップの中に押し込んだマイクロコンピュータは当時、斬新すぎて受け入れてもらえなかった様です。
当時マイクロコンピュータ部部長を任された 渡辺和也さん は、マイクロコンピュータをどのように利用するか苦悩していたと語っています。



電卓戦争の始まり

 マイクロコンピュータの発想が考えられる少し前、1971年には、日本国内でカシオ計算機SHARPを中心に電卓の低価格化戦争が起こっていました。
この電卓戦争に加わったメーカーの一つに、ビジコンがあります。 日本国内ではシェアが低く、あまり知られていない存在でしたが、アメリカ向け輸出はトップクラス。 1966年には当時40万円台が相場となっていた電子卓上計算機に、30万円を切り、しかも性能が従来機よりも上回った製品をデビューさせ、大きな衝撃となりました。
さらに、1971年にはポケット電卓の先駆けとも言える「てのひらこんぴゅうたあ」を発表。ビジコンは常に技術をリードしてきたのです。

 しかし、1973年の石油ショックによってビジコンは窮地に追いやられます。対米輸出をメインに経営を行っていた同社は、石油ショックに伴う円安で大幅な為替差損を背負い、作れば作るほど赤字になる事態に直面してしまったのです。
1974年、ついにビジコンは倒産に追い込まれます。後にビジコンは、マイクロコンピュータのルーツとして歴史に名をとどめることになりました。

 では何故、ビジコンは他社より低価格化/高性能化が出来たのでしょうか。



演算プロセッサの革命

 低価格化をするには、製造コストを下げなければなりません。 そこで電卓メーカがとった行動は、一度に必要な生産個数を予想し、それから半導体メーカーにLSI設計 を依頼、設計したLSIの原版を予想した個数だけ作ってしまう方法をとりました。 こうすることで、最初に少しだけLSIをつくっておき、必要に応じて製造するよりも安く済むのです。
それに対し、ビジコンの採った方法は全く異なる物でした。ビジコンは、それまで「特定の機能を内蔵する」LSIから、「それ単体では動作しない」半完成品とも言えるLSIを利用することを考えました。

「特定の機能を内蔵する」LSIは、回路をコンパクトまとめることができます。しかし、裏を返せば他の機能をする部分へ流用が出来ません。これが何種類も異なる機能を電卓に持たせようとすると、その分だけ異なった機能をするLSIを用意しなければなり、そのためだけに 回路を設計しなければなりません。
それに対しビジコンは、「それ単体では動作しない」LSIにソフトウェアを追加し、初めて機能する方式をとりました。 この方法は、半完成品とも言えるLSIに何か付け加えたい機能をソフトウェアで実装すれば、それ用のLSIに早変わり。「それ単体では動作しない」LSIを大量に作っておき、あとはソフトウェアで何とかする方式を取っておけば、コストが大幅に下がったのです。

 ビジコンは、このLSIの開発を当時はまだ規模がとても小さかったIntelに依頼しました。



 Intelは1968年に設立され、当時ビジコンの担当者とIntel側の担当者と共に設計に着手しました。
ビジコンはソフトウェアの追加により、異なった機能を持つ電卓用に特化したLSI、つまり電卓に限定したLSIで構わないと考えていました。 しかし、Intel側はこの考えをさらに応用し、「電卓にしかならないLSI」ではなく、「電卓にもなるLSI」を開発しようと考えたのです。
こうして1971年に生まれた世界初のマイクロプロセッサ、Intel 4004は大きな可能性を秘めていました。



 この頃、アメリカでは 「ホームブルー・コンピューター・クラブ」と言う、マイクロコンピュータをどのように使うか、熱心に考えていたクラブがありました。
ホームブルーというのは、日本語訳すると手作り、「手作りコンピュータクラブ」と訳すことなようです。このクラブは後にコンピュータ界の代表的メーカAppleを育て上げた スティーブン・ジョブズ や、 AppleIIを開発したスティーブン・ウォズニアックなど、多くの有名人が生まれていきました。

 マイクロコンピュータ販売部の渡辺さんは、このクラブとの出会いで、一つのマイクロコンピュータの方向性を見いだしたようです。



TK-80の発売

 マイクロコンピュータは当時手探り状態でした。NECでもマイクロコンピュータを利用した商品で、唯一売れたのがキャッシュレジスターだったそうです。 当時のキャッシュレジスターは機械式で、金額を打つにも大きな力が必要だったため、それに伴う腱鞘炎は職業病とも言われていました。それに対し、マイクロコンピュータは電子式でキーに触れるだけで済みます。しかし、キャッシュレジスターだけでは 販売量が足りなく、それ以外にも開発する必要がありました。

 そこで、マイクロコンピュータを知ってもらおう考えたのがTK-80と言う「教材」でした。 TKとは「トレーニングキット」の略。80はIntel 8080セカンドソースとしてNECが開発した uPD8080A から由来します。
トレーニングキットという名称からも分かるように、マイクロコンピュータとはどのようなものか、実際に組み立てて分かってもらう事を目的にしたコンピュータです。

価格は88,500円。10万以下に押さえられたのは、かなりの破格だったと言えるでしょう。

1976年8月3日に TK-80 は発売。翌月には秋葉原にサービスルームである Bit-INN が開設されます。



 TK-80はそれ以来、当初予想もしてなかった凄まじい勢いで売れ始めます。しかし、TK-80には電源が付属しておらず、使うには個人で用意しなければなりませんでした。 凄まじい勢いで売れたのは、多くの人がオールインワンですべてが付属している家電製品のような感覚で購入していったため、これに関しては致命的だったようです。 実際、いざ使おうとして「電源は個人で用意してください」と言った状態では、多くの人は失望してしまうでしょう。

さらに、電源の問題以外に、追い打ちをかける様な問題が残っていました。まずは記憶容量、そして処理言語。記憶容量は 512byteと、実にフロッピーディスクの 約2500分の1です。これでは、正直何をやらせて良いのか分からない有様でした。
処理言語に関しては、機械語で入力していくという、C言語などと比べると非常に低レベルなものでした。 また、表示する装置が赤いLEDのみだったため、自分がプログラムした文字が何をしているのか分からなかったのです。

機械語は 0 と 1 で扱いますが、それでは分かり難いので16進数でプログラミングしていきます。これは初期の大型コンピュータも変わりませんでした。 大型コンピュータは、時代が進むにつれて人間が理解しやすい記号に置き換えたアセンブリ言語、さらに進化してFortranCOBOLなどが開発されました。 プログラミング言語では、それらを総称して高級言語と呼ばれています。
しかし、TK-80にはそのような高級言語はありません。いえ、高級言語を入れるようなスペースが無かったのです。

 「教材」として開発された TK-80 は、コンピュータの仕組みを理解してもらうためもものでした。しかし、一般には個人用のコンピュータとして認知されていたための大きな誤解。 マイコンブームの起爆剤として大ヒットした TK-80は、1977年に発売された世界で初の本格的パーソナルコンピュータAppleの AppleII に比べると、天と地の差でした。 AppleII はそれと比べると、あらかじめBASIC言語が入っており、家庭用テレビにカラー表示できるなど、個人用コンピュータとしては十分な能力を持っていました。 この年は、他社からも本格的パーソナルコンピュータが発売されるなどして、「コンピュータ元年」と言われた年でした。



 TK-80は発売後に、TK-80ユーザーの間で色々な改良が行われていました。「TK-80で高級言語を扱う」事を目標に、何が必要になるかを考えていたのです。これらは、1976年に創刊された「I/O」や同年に創刊された「ASCII」などで言及されています。

マイクロコンピュータ販売部の渡辺さんは、ここに注目しました。このとき、「本体メーカー本体を作っておき、それを便利にするために他のメーカーが機械を出していく」サードパーティーの構造があったといえます。



 TK-80のユーザーによる改良が進み、それまでは別途用意しなければならない(それも自作で)電源が、NECとは関わりを持たないメーカーから「TK-80用」と銘打って発売されたのを始めとし、各周辺機器 (メモリ、インターフェイス回路など)が次々と発売されていきました。
ハード面以外にも、プログラミングのためのソフトウェアを導入する傾向も見られました。プログラミング言語にはBASICを用いたのですが、TK-80には512バイトしかRAM容量が無いため、翻訳プログラムを入れるスペースがありません。 そこで、翻訳プログラムを小型にし、RAM 2KB で動かすことの出来るパロアルト版の TinyBASIC をASCIIで掲載。この翻訳プログラムは誰もが使うことが許されており、現在のオープンソースの様な感じのプログラムです。 動作に必要なメモリ容量は2KBと、512バイトの4倍の容量ではありましたが、その面は増設RAMで補う形で動かすことが可能でした。
この様に、ユーザーたちによる、それ単体では何に使って良いのか分からない製品を、実用になるように改良していきました。ここで TK-80 の進むべき道が開けてきたと言えます。

後に NEC は1977年に TK-80BS を発売。BSとはBasic Stationの略。TK-80BSはBASICを動かす為の部品をまとめた製品で、この様な製品でBASICを利用できる様になったのは、大きな進歩といえるでしょう。

しかし、ユーザーからは「キット品を自分で組み立てるのではなく、出来上がったコンピュータを使いたい」と言った声がありました。それを実現したのが COMPO BS。完成品のTK-80とTK-80BSを一まとめにし、電源と外部記憶装置にカセットデッキを採用し、それらを ケースに収めた形状のコンピュータでした。



個人用コンピュータの可能性

 COMPO BSが発売され、個人用コンピュータの基礎が出来ました。しかし、NECでは新しい、次世代のコンピュータを開発しようと考えていました。初の本格的パーソナルコンピュータといえる、PC-8000シリーズです。 COMPO BSはTK-80の延長上にあるコンピュータ。TK-80は元々「教材」として開発されたものですし、それを拡張してゆくよりは、新たにコンピュータを設計する方が良いと判断したためです。

PC-8001もまた、BASICを搭載することになりますが、BASICのメーカーは何処にするのか決定していませんでした。 BASICのメーカーは、現在ではもっともメジャーなMicrosoftの BASIC と、NEC の社内で開発された BASIC を搭載するか、といった所まで話が進んでいました。

Microsoftはビル・ゲイツらが起こした会社で、当時アメリカでのBASICのシェアが非常に大きく、勢力も十分な物でした。現在では、Microsoft Windowsなどにより、ご存じの方も殆どでしょう。
NEC社内で開発されたBASICは、Microsoftのそれと比べて高速な事が証明されていましたが、NECはMicrosoft製のBASICを採用しました。PC-8001の発売を成功させるためには、Microsoftの知名度を取るべきと言った意見があったためです。

PC-8001は、Microsoft BASIC が採用され、メインメモリ16KB、CPUに ザイログZ80互換 の uPD780C/14MHz 、そして目玉の8色カラー表示と、パーソナルコンピュータとしては申し分ない性能でした。
価格は、17万円前後と予定し、最終的には 168,000円 に決まりました。20万円を切っているという、驚異的な価格は、以前にICなどの集積回路分野を担当していたからなしえたことと言えます。なぜなら、ICなどの集積回路は6年ごとに1桁値段が安くなると言う定説がある 様で、それを狙って安く値段を設定できたのです。
TK-80との最大の違いは、TK-80の教材用の制作キットとしてではなく、パーソナルコンピュータとして最初から他の周辺機器に対応していることだったのです。

 1979年に「マイクロコンピュータ ショウ'79」が開催され、そこにPC-8001も姿を見せました。PC-8001の制作プロジェクトが始まった頃は、TK-80の様な売れ方はしないだろうと考えていましたが、予想に反してショウでは大反響。 その後、マイコン雑誌でもPC-8001の特集が組まれ、高い評価が与えられます。PC-8001は発売前から予約が殺到し、生産が全く追いつかないと言う事態にまで発展し、1979年 8月の発売以来、数ヶ月入手できない日々が続いたようです。



 マイクロコンピュータの仕組みを理解してもらうための教材として販売された TK-80。しかし、TK-80は担当者の思惑を大きく越えて発展しました。そして、BASICを使えるようにした TK-80BS 、BASICを動かすための機材をワンパッケージにした COMPO BS で、 TK-80 の 一つの個人用コンピュータ、すなわちパソコンのあり方が発見できたように思えます。TK-80シリーズは合計で7万台という販売台数を成し遂げました。
そして、パーソナルコンピュータとして作られた PC-8001。PC-8001は二年間で12万台も出荷をしました。個人用コンピュータの可能性が見えてきた時代です。 次の章では、ビジネス用コンピュータとして爆発的に普及した、PC-9800シリーズの発売から、現在までをまとめています。


コンピュータの発展と現在


もくじ



世界的企業 IBM

 PC-8001の発売は、大成功を納めました。では、日本ではなく、世界のコンピュータではどうなっていたのでしょうか。
世界のコンピュータの代表的メーカー、IBMは国際的巨大企業として世界的に有名な企業です。 IBMのルーツは1896年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼります。
その後、タイムレコーダと自動計り機のメーカーをまとめた CTR を設立。第二次世界大戦後の1924年には、現在のIBM(International Business Group) に社名変更されました。
紙に穴をあける装置と、それを仕分ける装置、仕分けたデータを処理する装置をまとめた、「パンチ・カード・システム」をレンタル制で供給する商品によって、IBMは勢力を伸ばしていきました。

 IBMはその後もパンチカードシステムのノウハウを生かして、電子計算機の分野で大きな発展を遂げました。代表的な物に、UNIVAC、7000Series、事務用の1400Series、System360などが上げられます。
IBMもまた、パーソナルコンピュータの開発に着手しました。1980年の出来事です。 当時はAppleの AppleII が大きなシェアを獲得していました。 AppleII は、内部のアーキテクチャを公に公開しており、外部メーカによる周辺機器の発売など、 サードパーティーが入りやすい環境が整えられていたためです。

後の 1981年8月、IBMは16bitパソコン IBM PC の発表に至っています。 CPUに Intel 8088、メモリは16KB(最大で256KB) 、ROMに納められたMicrosoft BASIC、ビジネスを意識した本格的なキーボード、5つある拡張スロットと、本格的な物に仕上がっていました。 外部記憶装置に当時一般的だったカセットテープレコーダも繋げられることもできましたが、グラフィックスに関しては、AppleIIの方が上でした。
しかし、オペレーティングシステムにMicrosoftBASICと、CP/Mとの互換性を持った PC-DOS を柱とし、CP/M-86も提供するなど、ユーザーが選択出来ると言った特徴もありました。
そして、もっとも注目する点は、IBM PCの徹底したオープンアーキテクチャでした。 回路図、技術情報から、BIOSの仕様に至るまで、全面的に公開していったのです。



PC-8801の発売

IBM PCが発売された頃、NECも 1981年 に2つのパーソナルコンピュータを発表しています。
一つは、コンピュータ入門機の PC-6001、もう一つはビジネス用途と言える PC-8801 です。

PC-6001は、初めてコンピュータにさわると言った一向けに開発されたもので、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームや学習物などのアプリケーションを使えるといったものでした。

PC-6001もまた、Microsoft BASICを採用していましたが、PC-8001のそれとは互換性が無く、PC-8001のソフトはそのまま使えませんでした。

 一方、ビジネス用途で使うことを意識して作られた PC-8801 は、解像度を PC-8001 のレベルから大幅に高め、複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネス用途にも耐えられるようになりました。
しかし、実際の漢字ROMを標準搭載する所まではいきませんでした。これは、他社メーカーである富士通の FM-8 と同じです。
PC-8801は、パワーアップしたハードウェアを生かすため、Microsoft N88-BASICを採用。加えて、従来のPC-8001に搭載されていた N-BASIC を利用できる構造になっていました。

発表された2機種は、どちらとも8bitパソコンではありましたが、PC-8801においては16bitパソコンである IBM PC に処理速度の面で勝っていたのです。
PC-8801は、16bit パソコンの一歩手前まで来ていたと言えるでしょう。



PC-9801の発売とシェアの拡大

 1982年10月、PC-9801発表。
PC-9801は、初の16ビットパソコンとして姿を現します。CPUにIntel 8086/5MHz、メモリ128KBというスペックに加え、 グラフィック処理スチップであるGDCや、PC-8801と互換のN88-BASIC(86)を内蔵していました。
N88-BASIC(86)は、一時期著作権の関係で問題になりましたが、著作権名やライセンス料を支払うことによって和解、そして発表に至りました。

PC-9801は、IBM PCと同じ16bitのCPUを採用していました。しかし、IBM PCは Intel 8088 と言う内部は16bitで処理し、外部との通信は8bitで処理するCPUを採用。しかし、PC-9801はIntel 8086と言う内部/外部処理共に16bitのCPUを採用しました。

BASIC上の互換性においては、前記の通り PC-8801 互換で、加えてPC-8001のF-BASICに関しても、カセットテープによって供給されました。

PC-9801の滑り出しは好調ではありましたが、ソフトウェアの本数が少なく、8bitパソコンを使ってきたユーザーが、より早いパソコンを求めてPC-9801に飛びつくと言った事はありましたが、肝心のビジネス層にはなかなか受け入れてくれませんでした。 しかし、しばらくするとPC-9801用と銘打った製品もソフトハウスから発売され、ようやく8bitパソコンに届くぐらいのソフトウェアの本数となりました。この間は、NECとソフトハウスの大変な努力によってなしえたことだと言えます。

大きな問題もありました。PC-9801には漢字ROMはオプション扱いで、漢字を印刷できるプリンタも用意されていませんでした。これでは、漢字を扱うアプリケーションが開発できなく、悩みの種となっていました。
そこで、早速漢字プリンタ PC-PR201 を発売。価格は 298,000円と、当時としては破格の値段だったようです。。
漢字の問題以外に、PC-9801にはディスクドライブが標準搭載されていなかったため、ソフトメーカはどの媒体で供給して良いのか分からない状態でした。

アメリカでは 1982年 に IBM PC の新機種、XTの発表をしています。XTは10MBのハードディスクを内蔵し、IBM PCのシェアはますます大きくなっていきました。
Microsoftは大量の情報を階層化により効率的に管理できるMS-DOS2.0の開発などを行っていました。 PC-9801には、このようなソフトウェアが必要だったと言えます。既に MS-DOS 1.25はPC-9801用に用意していたものの、このような機能は搭載していませんでした。



 PC-9801のソフトウェアは、増えたと言っても依然とBASICで書かれており、そして売れるソフトはゲームでした。この頃、アメリカのIBM PCではOSにBASICではなく、CP/Mを採用し表計算やワードプロセッサ、データベースと多彩なビジネスソフトウェアが生まれ、 16bitパソコンになると、MS-DOSによって新たな時代が築かれようとしていました。

日本でも、この様な新しい技術をいち早く採用し市場に売りだしたメーカーはありました。三菱電機の Multi16 や、東芝のパソピアなどがそれです。 前者はCP/Mマシン、後者はMS-DOSマシンとして、送り出された物でしたが、成功しませんでした。 これは、日本のパソコンの重心はBASICだったためです。PC-9801が売れたのは、PC-8801に16bitCPUや、高速に描画が出来るGDC、そして互換BASICが搭載された、いわゆる「早いPC-8801」と言ったイメージが強かったためです。 BASICを使い続けたのも、理由があります。MS-DOSなどのOSを使うのであれば、それだけでメモリが食われてしまいますし、何よりユーザーが操作方法を覚えなければならなかったためです。 その点、BASICは電源を入れれば自動的にROMからBASICが読まれ、ディスクドライブから起動して、ドライブを使えるようにしたDISK BASICに関しても、ディスクから自動的にプログラムが読まれる仕組みになっていたため、BASICは中心的存在として普及したのです。



 BASICは逐次翻訳という性格上、どうしても高速になりません。そこで、NECはソフトウェアを早く動作させることの出来る CP/Mなどの OS に注目しました。
FDDを使うことを想定したマシンでは、電源投入時にIPLと言う、ディスクの先頭の部分を読み込む手順が、ROMに組み込まれています。これは、電源を入れたりリセットスイッチを押すたびに、マシンが自動的に行ってくれます。
つまり、この部分を応用すれば、ディスクを入れただけでOS上で使うアプリケーションを自動的に起動してしまう方法が採れるわけです。これが実現すれば、ディスクを入れただけで自動的にワープロなりビジネスソフトウェアがOS上で動いてくれます。 その上、ユーザーはその部分を知らずにワープロなどのソフトウェアが利用でき、この方法は自然とOSを導入できる、最適な方法だったのです。



NECは、OSのターゲットとしてMS-DOSを選択。Microsoftからライセンスを会得し、PC-9801用に移植を行いました。ソフトメーカに対し起動する際のバンドル料、つまりサブライセンス料は「いっさい対価を求めない」と言った物でした。 ソフトウェア普及のためには、この方法が最適だったのです。
さらに、BASICの命令をMS-DOSで動く機械語に変換するコンパイラも開発。MS-DOS普及のためには、こうした準備も必要なのです。



その後、1983年にはPC-100やPC-9801Fの発売があります。PC-100は、文字を「絵」で表す方式を取り、PC-9801で取った文字を「数字」で表す方法とは対照的な仕様で、当時としては画期的な発想ではありましたが、文字だけを扱う場合は、圧倒的にPC-9801の方が早く あまり普及しませんでした。文字までを絵で表す方法は、CPUの能力を超えてしまっていたのです。 文字を絵で表す方法は、Appleの Lisa でも行われましたが、非常に高価だったために普及せずに終わりました。

IBMの日本支社である、日本IBMもまた、漢字が表示できるパソコンを開発しました。完成した機種は IBM PC/JX と名付けられ、1984年に発表。JXは CPU に Intel 8088を採用していましたが、IBM PC/XTをベースに日本語化したもので、これが失敗の元だったといえます。 Intel 8088は外部とのやりとりは 8bit で行うため、16bit化の波に飲まれてしまったのです。

後に日本IBMは、IBM PC/ATをソフトウェアのみでグラフィックスを使って日本語化する、PC-100と似たようなシステムを採用したOS、DOS/Vによってようやく日本語対応マシンを築き上げることが出来ました。1990年の出来事です。 PC/ATはPC/XTの最上位機種として発売されたマシンで、CPUにIntel 80286を採用、グラフィックスやインターフェイスを大幅に強化し、後に標準アーキテクチャとして生き続けることとなります。

日本IBMのPC/JXの失敗は、大きなダメージとなり、シェアを獲得することなく消えていきました。

同年にはAppleのMacintoshが発売されています。MacintoshのGUIは洗練されたイメージがあり、価格帯も $2,495 と決して高くはありませんでした。しかし、メモリ容量128KBと少なく、フロッピードライブの容量も400KBと少なすぎたのが原因で目標をはるかに下回る販売台数 の低迷に苦しめられます。
ハードウェアの問題以外にも、ソフトウェアが少なすぎたという事も上げられます。
グラフィックスをメインに使うコンピュータの割にはRAM容量が少なすぎると言った最大の欠点は、PC-100にも言えます。PC-100のRAMは384KBとこれも少なく、共通する欠陥といえるでしょう。



1985年に Justsystemは 元々PC/JX用だったソフトウェアを、PC-9801に移植した jX-WORD太郎という名前で発売。同年8月には、PC-9801用のワードプロセッサとして 一太郎 を発売。 一太郎の発売は大成功し、MS-DOS普及に大きく貢献しました。
1987年にはEPSONからPC-9801互換機が発売。NECはすぐさま互換BIOSなどに著作権侵害があるとして、訴えています。この措置がとられて以来、他社からのPC-9801互換機は発売されていません。

この時点で、PC-9801は日本で圧倒的なシェアを占めていました。1980年代からおよそ10年間の間の話です。日本IBMからPC/ATに日本語を表示できるOS、DOS/Vが発表されるまでは、この状態が続きました。

1995年までに、PC-9801シリーズは累計で1000万台の出荷を記録しました。



Microsoft Windows の発売と現在

1995年になると、Microsoft Windows95が発表されます。Windows95はWindows3.1の後継OSで、パソコンの普及に多大な貢献をすることになります。
Windowsは、MS-DOS上にGUIを提供することを目的として開発されたもので、Windowsの源型ともいえる Windows1.0 は1983年に発売されています。しかし、Windows1.0はMacintoshのGUIなどと比べると桁外れに劣っていました。
当時 8086 などのCPUでは、Windowsを動かす為には力不足だったためです。
1987年には、ウインドウを重ね合わせることが出来る Windows2.0 を発表。しかし、Macintoshの見かけと使い勝手をコピーしていると訴えられ、Windowsの足を引っ張りました。
その後、1990年になってWindows3.0を発表。日本では 1993年の Windows3.1 によって、広く普及しました。

Windows95は、Windows3.1の使い勝手をさらに高めたOSで、機種間の差を取り払うために作られたOSでした。 機種間の差を取り払うことは以前のバージョンでも行われていましたが、きちんとした規格を定めていなかったために、あまり機種間の差は取り除かれませんでした。
Windowsは画面の情報をすべてグラフィックに任せるため、PC-9801の利点であるテキスト処理が生かされなくなります。そのため、PC-9801はDOS/Vの発表と共に徐々にシェアを落としていきます。
DOS/VはPC/ATで日本語処理をソフトウェアで行うソフトで、PC-9801と比較するとテキスト処理は劣っていましたが、Windowsの様なすべてグラフィックで処理を行うソフトに関しては、PC-9801のテキスト処理の利点は殆どなくなっていたのです。



1997年10月、NECはついに PC-9801 のアーキテクチャを捨て、PC/ATのアーキテクチャを取り入れたPC98-NXを発表、現在に至っています。これは、PC-9801を採用し続ける意味が問われたためです。この時点で、PC-9801のシェアは非常に落ちていました。
現在では、Windows95の発売もあり、ユーザーはハードウェアとの密接な関係を知らなくても操作できるまでに便利になってきています。これからは、さらにユーザーとコンピュータとの関係をさらに密接な物にしていくのが過大なのではないでしょうか。



キーボードの歴史



もくじ



はじめに

 コンピュータというものは、登場以来凄まじいスピードで進化してきました。これは、近年のパソコンの進化の度合いを見れば一目瞭然といえるでしょう。
 しかし、コンピュータの進化の中で、比較的移り変わりのゆっくりとしたデバイスがあります。私たちが普段何気なく使っている装置――。そう、コンピュータに何か命令を与えたり、文字を入力する装置である「キーボード」です。 キーボードの進化は、コンピュータの周辺機器としてみたら、進化が穏やかな部類に入ります。しかし、キーボードの進化は年々品質が下がっていると言う声もあります。それは「コストダウン」が重視されてきたためです。
この章では、キーボードの生い立ちと、その歴史を語っていこうと思います。



キーボードの生い立ち

 コンピュータに文字を入力する装置としてキーボードが利用されていますが、初期のコンピュータは違いました。初期のコンピュータは、大量のスイッチで命令をすると言った低レベルな物でした。 スイッチは 「ON か OFF」 を表現出来る、つまり2進数入力することになります。 そう、初期のコンピュータは「人間がコンピュータに足並みを合わせていた」のです。

 CPUの処理能力がある程度のレベルになってくると、入出力装置として「テレタイプ」と言う、遠方に電波で文書を伝える機械が使われるようになりました。 テレタイプは2進数で送受信するという、コンピュータとよく似ている性格だったために コンピュータ用に少し改造するだけで、簡単に流用できたのです。また、テレタイプ装置は英文タイプライターと同系のキーボードを持っており、これが最初のコンピュータとキーボードの出会いと言えます。
 その後、紙に代わってブラウン管で表示をするコンピュータ端末装置がテレタイプに取って代わりました。代表的な物に、DECのVT-100端末があります。



 先程も述べましたが、キーボードの先祖と言えるのが「タイプライター」です。タイプライターとは機械的な動作をする「文字打ち機」で、英字が書かれたボタン(キー)を押すと、紙にその英字が印字される仕組みになっています。 現在のキーボードの配列は、実はタイプライターから来ているのです。

 タイプライターは、Qwerty配列(クワティ配列)と言う方式が取られています。Qwerty配列とは、キーボード上段左から Q, W, E, R, T, Y と並んでいることに由来します。
何故 Qwerty 配列になったのかというと、英文を平でタイプしたとき、連続して出てくる文字の統計をとって、アーム(印字を行うために紙にたたきつける棒)が交差しないように決められたものなのです。
タイプライターは機械的な動作をする物なので、この Qwerty配列 はもっぱら構造的な制限から決められたものだったのです。
その後 Qwerty 配列はANSI第一標準として採用され、標準的なキー配列となりました。



 Qwerty配列 は広く普及しましたが、機械的な制限から決められたもの。人間工学など考慮されて作られたものではありません。 特に、コンピュータにはタイプライターのような制限が無くなったので、Qwerty方式は意味を持たない存在なのかも知れません。

 そこで、英文の中に登場する文字の頻度の統計を取り直し、頻度に従って打ちやすい配列として定められた Dvorak配列 (由来は考案者の名前)が考案されました。 Dvorak配列は Qwerty配列 と比べ、非常に入力効率が高いとされ、ANSI第二標準に定められました。
 しかし、Dvorak配列は今のところ、一部に愛用者が居るという程度で、一般的なキー配列とは言い難いのが現状です。Qwerty配列のキーボードがもっとも普及した世の中で、いくら人間工学に優ているキー配列のキーボードでも普及は難しいのです。



日本語キー配列の生い立ち

 日本語キー配列の殆どは旧JIS配列と呼ばれる形式に準じています。恐らく、これを読んでいる読者の方も、手元にあるキーボードは旧JIS配列だと思います。
 この配列はの起源は意外にも古く、大正時代までさかのぼります。旧JIS配列の原型は 山下芳太朗氏 (1871~1923)が設立したカナモジカイが考案した、カナモジカイ配列に由来します。 カナモジカイ配列は現在の旧JIS配列と多少異なりますが、キーボードの最上段を使う特徴が受け継がれました。 しかし、撥音(「ん」「ン」で表される音)や母音が、もっとも遠い位置にあるので今では打ちやすい配列とは言い難いと言えるでしょう。

 旧JIS配列があると言うことは、新JIS配列も存在すると言うことです。新JIS配列は打ちづらいと言われている旧JIS配列に代わるキー配列で、人間工学的なキー配列としてJISが標準化したものです。しかし、旧JIS配列の キーボードが多く普及してしまったため、新JIS配列はあまり普及しませんでした。これは Dvorak配列 と同じ事だといえます。

 日本におけるキー配列は以上のように難しく、事実 50 の仮名文字に加え、撥音、濁音、半濁音、記号類とあり、これらを現行の英文キーボードにマッピングするのは至難の業と言えます。旧JIS配列やカナモジカイ配列では撥音をシフト側に配置し、濁音と半濁音は 2 ストローク(濁点キーと半濁点キーを使い、入力する)に割り当てましたが、それぞれは利用頻度が低くはなく、入力する際の打鍵量からしても不利なのです。

 そこで、いくつかのキーボードが考案されました。



-親指シフトキーボード

 富士通の技術者が、手の動き方からくる自然な打鍵スタイルから、もっとも効率の良い日本語入力配列として提案したのが親指シフトキーボードです。 「利用者に考慮した」キーボード、Dvorak配列や新JIS配列は普及せず失敗しましたが、親指シフトは成功したと言えるでしょう。
 富士通はこのキー配列を同社のワープロ専用機「OASYS」に採用し、日本語タイプライターに代わりオフィスに普及させるべく、強く推進しました。OASYSワープロ教室の全国展開などもあり、ワープロオペレータの主要なキー配列として広く認知されています。 また、ワープロ以外に(制限付きで)パソコンでも利用できるため、現在でも多くの愛好者が利用しています。

OASYSホームページへ



-M式キーボード

 NECの森田正典氏が考案したキーボードです。M式キーボードは楽々キーボード(ラッキーボードと読む)と言う名称もあり、配列だけでなく形状も大きく異なっているのが特徴です。
キーボード形状は、右手と左手の領域を分け、手が自然な形になるように工夫されています。この発想はTRONのキーボードに共通しているとされています。
 M式キーボードは当時としては斬新なアイデアでしたが、今ひとつ普及しませんでした。これは、当時NECの業務用ワープロ分野で富士通OASYSに対して後れをとっていたのが原因だと考えられます。



パーソナルコンピュータとキーボード

 初期のパーソナルコンピュータ(8ビットパソコン)は、キーボードと本体が一体化したデザインが主流でした。 たとえば NEC の PC-8001 、富士通の FM-8 、日立の ベーシックマスターなどでは、キーボードと本体が一体化しています。
一体化した形状には小型化できると言ったメリットもありますが、内部の密度が高くなってしまうと言う欠点もあります。そのため、8ビットパソコン時代の後期には、現在と同じ本体・キーボード分離型が一般的になりました。
 それから PC-9801 の発売で、パソコンは一気に普及しました。この頃のパソコンは、キーボードに相当な手間をかけて完成させたそうです。これは、当時のパソコンメーカーがキーボードを主要なインターフェイスとして力を入れていたのが分かります。



 コンピュータの主要な操作にキーボードが利用され、本体とキーボードが分離すると、今度はキーボードに色々な機能を持たせるようになりました。 たとえば、Appleの Macintosh とNeXTのキーボード。
Macintosh は68000系のプロセッサを使用し、ソフトウェアで電源のON/OFFが可能だったため、 キーボード上にプッシュスイッチで電源を入れる機構が採用されました。これは、「キーボードはユーザーが扱う上で主要な装置だ」と言う発想から来ていると考えられ、電源スイッチが付くことは自然なことだと言えます。
 また、MacintoshII、MacintoshSEシリーズからは、キーボードインターフェイスにADBが採用されました。このことから、Macintoshの先進性が伺えます。

 NeXTのキーボードは、さらに機能が盛り込まれたものでした。
Macintoshと同じADBを使用し、キーボード上でモニターの明るさ調節などを行うことができました。NeXTのキーボードはMacintoshのそれと互換性が維持されていますが、どういう訳かコネクタの形状が異なりました。



キーボードの現状と未来

 キーボードの全体的な歴史、理解してもらえたでしょうか。キーボードは現段階でもっとも効率的なデバイスとして認知されています。
近い未来、私たちはコンピュータと離れられない存在となるでしょう。その際、越えなければならないハードルも多く存在します。それを低くするために、入力デバイスの改良も必要になってくると考えています。 街角でコンピュータと接する際、現在のキーボードでは邪魔になってしまいますから。


というコンテンツでした。
素晴らしいですね。


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