384 zhd会長川邊健太郎さんの長文ツイートが面白い。
面白かったので引用してメモしておきます。
川邊健太郎
@dennotai
Zホールディングス(株)代表取締役会長、ソフバンクG、ソフトバンク、ZOZO、ヤフーなどの取締役、日本IT団体連盟会長。猟師と漁師と経営者の3足の草鞋で働いてます。インターネットと自然が大好きです!
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4月2日
ZHDの社長を退任し、新年度より会長となりました。皆さん、宜しくお願い致しまます。 40代で会長というのもちょっと恥ずかしい感じもするのですが(笑)、、自分のキャリアの大きな節目なので、少し振り返りをしてみたいと思います。 スタートアップとかネット、ソフトウェアサービス産業を志す人達の参考に少しでもなればと思い、不定期に書いてみます。 あくまでも、過去を振り返る事のみとし、現在の業績や株価等にダイレクトに影響を与える記述は一切行いませんので、予めのご理解をお願いします。
川邊健太郎
@dennotai
【PCとの出会いとプログラミングリテラシー】 PC、プログラミングとの出会いは、私が小学校3年生の時に祖父がPC8001mk2を自宅に持ってきた事に端を発します。 当然、何もできないので、その年の夏休みに当時、フジテレビの事業局がやっていた「コンピュータキャンプ」という子供向けのプログラミンング合宿に入れられて、(なぜか)妙高高原でミッチリとBASICを習いました。 それで若干のスキルを得た後、当時刊行されてたベーマガやI/O、LOGiNなどのパソコン雑誌に付帯さらていたプログラム例をインプットしてゲームの類なんかを作ったりもしましたが、そんな事をするよりも、カセットテープに収められた市販のパソコンゲームをロードしては遊ぶ世界にハマっていきました。 (そういうゲームをする上でも、最低限のプロンプトは打てなきゃダメでしたが)
ちみにその後、プログラミングというかコーディングについては、ブラウザが出た手の頃にHTMLを習って自分のHPを作り、そこに若干のPerlで書いたCGIを埋め込んだ程度のことしか結局、出来ませんでした。 が、どちらもプログラミングやWebサイトの仕組みや構造を理解できたという観点で、プログラミング・スキルは身に付かなかったけど、"プログラミング・マインド"は会得していたという総括になるし、Webサービスを作る(ディレクションする)という観点では、それでも十分にできたなという事です。 岸田政権において円滑な労働移動の為のリスキリングで、プログラミング・スキルが注目されています。バリバリにコーディングが出来るようになれればベストですが、上記のように構造を理解しエンジニア的発想を体感するだけでも十分に意味はあるので、兎にも角にも何か書いて、動かしてみる体験をする事をお勧めします。
【インターネットとの出会い】 高校3年の社会科の授業の一環で新聞の切り抜きを始めました。大学入学後も新聞を読んでは自分の気になる事を切り抜いてスクラップブックに貼り付けてました。 93年~94年にかけては、「マルチメディア」という言葉が新聞紙上を賑わせていました。今では当たり前となった、文字、画像、音声、動画が一体となってコンテンツとして作製でき、それが当時出たての大容量記憶媒体であるDVDに書き込め、(当時の水準で)簡単に流通も可能という事で一種のムーブとなってました。今から振り返れば、初期のデジタル化という事でしょうか。 正直、それで作られ流通していたソフトは電子教科書の域を出す、テレビや漫画、ゲームと比較しても「そんな夢中になるものかな?」という感じでした。 ところが、94年の後半から95年にかけて新聞紙上では「マルチメディア」から「インターネット」という言葉に頻出する単語が激変し、しかもその量はマルチメディアの比ではなくなっていきました。同種の言葉が一気に"取って代わる"という、その後のTec業界で何度も起きる現象を初めて体感していた事になります。
当時はまだWebはほとんど普及しておらず、私もそれを使える環境になかったので、最初の変化の兆しは上記の通り新聞で知ったし、高校の頃から数年の単位で世の中の変化を量とスピードを新聞から感じ取る訓練ができていたので、他の様々な言葉に対して「インターネット」という単語の破壊力がいかのほどのものかをそれで理解する事ができました。 私がデータドリブン、多変量解析や回帰分析を信奉している理由はこの辺りの原体験にある気がしてます(笑) という事で、普通のパソコン少年として、DVDを買ってくれば体感できた「マルチメディア」に対して、「インターネット」は、接続やソフトが必要で、世の中の変化は感じ取っていましたが、体感はできずにいました。
94年、小学生の頃からの親友である清水くんのお兄さんが慶應SFCの大学院に入学しました。"未来からの留学生"というコンセプトで全く新しい教育と研究をしていたSFCについて私も少し興味があったので、そのお兄さんに「SFCには何があるの?」と尋ねたら、「SFCにはインターネットがある。校舎は24時間開いてて、インターネットは使い放題」との素敵な回答が返ってきました。 そこで、「見てみたい!」となって、94年の夏休みにSFCの大学院棟に遊びに行く事になりました。 その当時の「インターネット」とは、電子メールとWeb、そしてGopherのようなディレクトリサービスの様なもので構成されており、その全てをUNIXのコマンドプロンプトでSFCの学生は利用していました。 「SFC生は全員、UNIXを使える」というのは、当時、青学生だった私には衝撃的で、キラキラした"未来からの留学生"に見え、夏休み中なのに大学院棟に寝袋を持ち込んで研究している彼、彼女らに、何の研究をしているのかはサッパリ分かりませんでしたが、羨望の眼差しをもってそれを見ていました。
午前6:34 · 2023年4月3日
閑話休題。当時まだ牛臭かった湘南藤沢キャンパスを訪れ、親友のお兄さんにSFC 大学院棟の概要を説明してもらい、ついに「インターネット」を見せてもらう事になりました。当時、青学には数台しかなかったサンマイクロシステムズのUNIXワークステーションがゴロゴロしていて、それの一台で、学生同士、先生と学生が電子メールでどのようにコミュニケーションを取っているかを見せてもらい(それにも衝撃を受けていましたが、、)、ついにWebを見せてもらう事になりました。 UNIXのコマンドから「Mosaic」という今となっては伝説的なブラウザを呼び出し、「まずはホワイトハウスのホームページにアクセス」という規定演技から入りました。当時のSFCは村井さんという「日本のインターネットの父」と言われる方の本拠地となっていたので、日本でも有数の高速回線が入っているはずだし、ブラウザにはキャッシュもあったはずなのに、何だか表示まで妙に時間が掛かった印象があります。たぶん、DVDのマルチメディアソフトとの比較においての体感だったのかなぁーと。 マルチメディアソフトの内容と同じぐらい退屈なホワイトハウスの教科書的内容を見つつ、研究者のサイト、そして、当時のアーリアダプトなユーザーの個人的サイトなどを見て移りました。期せずして、いまも続ける大好きな「ネットサーフィン」の初体験です!
ネットサーフィンをしている間、どのサイトも表示させるのにそれなりに時間がかかったと記憶していますが、だんだんとマルチメディアソフト、ホワイトハウスHPで感じた「教科書的退屈さ」ではない野良というか多様性の魅力を感じ、そしてその本質的重要さを感じ取るに至りました。 「フジテレビや少年ジャンプみたいな事が、個人レベルで世界中に対してできる。また、そういう事をやっている人のコンテンツを、(表示がクソ遅いけど)簡単に家から見れるという事なんだ!」 つまりは、これはメディア革命であり、メディアの民主化なんだ、と。 無論、当時はこの様な言葉と概念で冷静に理解した訳ではなく、その様な諸々を自分の脳内の中で認知、発火、大興奮した、という直感的理解の範囲内ではありましたが。
リプ
yahooができるずっと前、93-94年頃、NTTの「日本のWebサーバー一覧」というHTMLが唯一のディレクトリサービスでしたね。
ヤフーJができた頃の日本のネット事業は紙からサイバーへのシフトに過ぎなかったがアイフォンが2012年に登場してからは全く異質のサービスが顕在化した。
【起業・初期】 さて、いよいよ起業の話です! 94年にインターネットから絶大な刺激を受けた訳ですが、実際には大学生とTSUTAYAのアルバイトをこなす生活のまま、運命の1995年を迎えます。 この年、私に大きな影響を与える3つの事が起きました。 一つは、1月17日。大学2年下期の試験を受けに青学の厚木キャンパスに向かうべく早朝に起きたら「関西で大きな地震があった」とテレビのニュース。Yahoo!ニュースが登場するのはこの翌年なので、一旦、外出するとニュースは触れずにいたところ、厚木から東京に帰る私の反対車線が緊急車両だらけとなっており、家に帰ってテレビをつけたら神戸の高速道路が倒壊している映像が飛び込んで来ました。この時に日本で初めて本格的なボランティア活動が起きて、それをVネットというインターネットを使った支援活動がSFCを中心になされていました。現在、慶應の准教授をされているクロサカタツヤさんが学生で仕切ってて、なんか眩しかった記憶があります。 次に、春休み中の3月20日。その日もTSUTAYAで朝の4時までアルバイトをしていた私は午前中は爆睡していたのですが、ヘリコプターの音がうるさくて起き、やはりテレビをつけたら「地下鉄で何か刺激物がばら撒かれて、多数の人が倒れている」との報道が。私の地元の日比谷線恵比寿駅も止まっているとのことで、見に行ってみたら、物々しい服装の人たちが地下鉄入り口から入ってて、、そこから麻原彰晃が逮捕されるまでの2ヶ月弱の東京の緊張感は忘れられないものがありました。 阪神大震災と地下鉄サリン事件を目の当たりにし、「人って、ある日突然死んでしまう事もあるんだな」とこの時初めて自覚をしました。それぐらい、私がそれまで生きてきた冷戦構造下の日本は平和で安定的だったし、死が遠かった。そして、この1995年を号砲として、その後の日本も世界も今日現在まで平和で安定を見ている日々が殆どないという状況に突入しているように思います。
そこで私が思った事は「思い掛けず死んでしまう事があるなら、あー、何かやらなきゃ!」という事。 今風に言えば「爪痕を残さねば」という事であったと思います。 しかし、やらない。。その年の夏も旅行とバイトに明け暮れてしまいました。そして、この年の3度目の"事件"は、11月23日に起きます。Windows95日本語版の発売がこの日で、この新型OSを待ち望む人たちで深夜の秋葉原がごった返して大騒ぎとなったのです。 この一つ前のWindows3.1が本格的なGUIを採用したOSであり(その前はMS-DOSのコマンドベースのOSだった。。)、Win95はマルチタスクとインターネットのブラウザが標準搭載されていた事がウリだったと記憶しています。今となっては、神話時代か化石時代の装備に思いますが、僅か28年前の話です。 この熱狂を見て、人とインターネットの距離が近くなる事を確信した私は「インターネットを使って何かやりたい!何でもいいからやろう」と決意し、企画書を書いて、青学の同級生達を誘って「電脳隊」という会社ごっこを始めることになります。
電脳隊を始める前提として、スキル、仲間、資金という観点でどうだったのかを補足します。 まずスキルについては、当時PC業界の標準機となっていたPC/AT互換機、いわゆるDOS/Vパソコンを前年に購入していました。その前は高校生の時にPC9800シリーズを買っていたのが最後だったので、かなりの変化をしていました。ちなみに、マハーポーシャのオリハルコンIIという機種と迷った挙句、当時新興のPCメーカーであったDellのパソコンを購入して、ベッコウアメとISP契約をし、ネット接続が何とかできる程度のものでした。オリハルコンは買わなくてよかったです。。 仲間については、青学でサンバ隊という音楽というか文化祭のお祭り騒ぎ団体をやっていたので、そのメンバーの中でデキが良さそうなメンバーに絞って企画書を見せて誘いました。この時点では青学メンバーのみです。 資金については、私がアルバイトや自動販売機(の設置業を当時していた)で稼いだお金と例の親友の清水くんのお母さんからもらった10万円などを加えて40万円ぐらいで始めました。当時は有限会社でも300万円の資本金が必要で、結局、電脳隊が稼いだお金で登記するのは96年末となりました。
創った会社(もどき)で何をしたかが重要です。 企画書にはパソコンを使ってコンテンツを作成し、それをインターネットに出して、コンテンツやサービスで儲けたい趣旨が書いてありましたが、そのスキルが全くなかった為、ひとまず、「パソコンとインターネットの取付けサービス」を始める事としました。私自身がまさにその前年にDOS/Vパソコンを購入してセットアップをし、モデムとパソコンを繋ぎ、モデムと電話線を繋いで、IP接続をするのにやたらに大変だったので、Win95以降のパソコン・インターネットブームで同じ様にパソコンの購入を検討したり、したけど難し過ぎてネット接続できない人がたくさんいたらから需要があったのです。 知り合い筋でパソコンの購入を考えている人たちから営業をして、何台もパソコンのセットアップとネット接続をしていきました。 ここで「起業は始められる事から始める。ニーズのある所から始める。」という発想で徹底的に、地べたを這う様にできたのは、ビジネスの基本を知る上でよかったなと思っています。
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