733 インターネットで検索してきたデータまとめ。ソフトウェアな人たち





野崎  克己

野崎  克己(のざき かつみ)

◆プロフィール◆


昭和三年(1928)束京生まれ。平成十六年(2004)没。立教大学経済学部卒業。昭和三十七年(1962)束京機械計算事務所創業。昭和三十八年(1963)十二月(株)東京データセンター設立、代表取締役社長。昭和五十三年(1978)社名を(株)ティーディーシーに変更、昭和六十一年(1986)社名をTDCソフトウェアエンジニアリング(株)に変更。平成八年(1996)代表取締役会長。平成十二年(2000)六月顧闘。全国門報サーピス産業厚生年金基金元理事。(財)ソフトウェア情報センター元理事。(社)サービス産業協会元常任理事。




TDCソフトウェアエンジニアリングはデータ入力に始まり、計算センター、そしてソフトウエア企業へと転進をとげた企業である。その歴史は情報サービス産業の歴史と軌を一にしている。

野崎克己は昭和二十六年(1951)大学卒業後、父の知人が社長をしていた八幡製鉄(現新日本製鐵)系列の北日本砂鉄鉱業に入社、経理畑を歩んだ。しかし、メカ好きでカメラに凝ったり車のリストアーを趣味にした野崎にとって、経理畑の仕事は必ずしも満足できるものではなかった。野崎は言う「就職する先がなかったので行っただけで、決して心から入りたいとかそういうことではなかったんです。運命にそのまま従っただけです。心底好きな商売ということではなかったんです」。

コンピュータヘの強い関心

そんな野崎に転機が訪れたのは昭和三十四年(1959)である。当時経理部長に就任していた野崎は取引先である富士銀行を毎日のように訪れていた。富士銀行は昭和三十三年(1958)から事務合理化を進めており、野崎が立ち寄る数寄屋橋支店の四階に事務(コンピュータ)センターが設けられていた。当時同銀行の事務センターではUNIVACが既に導入済みで、これからIBM のコンピュータを入れるという時期であった。これらのコンピュータがメ力好きの野崎の心を揺さぶったことは想像に難くない。「ちょうど、わが国でも電子計算機を含む電子工業の振興に乗り出した時期でもあり、またアメリカからのコンピュータ技術の導入を図ろうとしていたこともあって、よし、ひとつ電子計算機を覚えてやろうと思った」のである。

昭和三十五年(1960) にはユーザーのみしか参加できないIBM の講習会に「富士銀行の行員」ということにして参加する。短いもので三日、長いものだと一週間というセミナーを二年間受請する。その中でパンチカードシステムからIBMll401 の論理回路まで勉強した。メカ好きの野崎はこのセミナーを受講して、どうしてもコンピュータにかかわる仕事がしたくなった。ところが勤務する北日本砂鉄鉱業でこの夢を実現することはとうてい無理だった。

親会社である八幡製鉄の「経理部機械計算課」、「富士製鉄総務部機械計算課」の課長たちに、新会社を設立したら仕事をくれるかと相談すると、応援してくれるという返事をもらう。富士銀行の事務センターにも相談すると、これも応援してくれるという。

勤務先の社艮も理解してくれて、データ入力の事業を開始する。しかし、難問が二つあった。一つはIBMは穿孔機 (パンチカードシステム)を大企業にしかレンタルしておらず、まして個人にはレンタルしていなかった。「IBMが機械を貸さないということになりました。当時機械はすべて輸入品で国産機はありません。輸入関税などが高くて、非常に高価であったので、大企業にしか貸さなかったのです」。しかし、この間題はある著名人を通じて折衝してもらい、日本で初めて個人でレンタル契約を結ぶことに成功した。

ところが今度は、それを操作するパンチャーが集まらなかった。「情報サービスなんて概念がどこにもない。産業分類にもない。したがってプログラマとかキーパンチャーを求めて職安に行っても、頭から相手にされないという時代でした」。そんな中、コンピュータの導入に先進的であった小野田セメントなどを結婚退職したパンチャーの女性を何とか十一人集める。そして、昭和三十七年(1962)十月にTDC ソフトウェアエンジニアリングの前身となる「東京機械計算事務所」の操業を開始する。もちろん創業当時はデータ入力に絞って事業を展開し、野崎は営業、納品と飛び回っていた。また資金にも苦労したという。「カネには苦労しました。三年半くらいは会社の収益の中から給料を貰うことはありませんでした。出す一方でした。金融機関が、産業分類にもない会社に融資するわけはありません」

夜食とアルコールを用意して作業

昭和四十年(1965)頃から野崎は、このままデータ入力業務を続けていたのでは会社の将来性はないと見切りをつけ、当時次第に増えてきていた計算センターヘの転進をはかる。そのためにはコンピュータを設置しなければならない。しかし、その資金はなかった。そこで大手ユーザーのコンピュータの空き時間を利用して、受託計算業務を開始した。ところがユーザーのコンピュータの空き時間を利用するので、どうしても利用時間は深夜になってしまう。またユーザーは金融機関なので、夕方に入ると翌朝までは、建物を出ることが出来なかった。野崎は夜食とアルコールを用意して作業にかかった。というのはコンピュータセンターは空調が利きすぎるくらい利いていたので、アルコールでも飲まないと体が冷えてしまい寝付けなかったのである。

そして昭和四十一年(1966)、念願のコンピュータFACOM230-20を導入する。この導入にあたっては日本電子計算機のレンタル制度を利用した。レンタル料は月々二百五十万円であった。

しかし、野崎はこの計算センターヘの道もバラ色でないことを悟る。計算センターを志向して、どんどん大きなコンピュータにリプレイスしていくには、資金面でも限界を感じるようになる。「当時オンラインパッケージの開発には二億円かかると言われました。当時のマシンの能力を使って実現する広域情報処理のハシリです。とてもそんな大金は調達できないということで、このままいったらどうなるんだということを常に間いながら経営をしてきました。このままいけば所詮大きなところの尻の下に敷かれて行き詰まるだろうということが分かりました。計算センターを志向していても、無制限に大型機を人れられるかというとそうはいきません」

一方、ソフトウエアの売上高の伸びはハードウエアをはるかに上回っていることも知った。「電子協(日本電子工業振興協会、現電子情報技術産業協会)と通産省(現経済産業省)のデータを見ていたら、ソフトウエア開発の伸び方がすごいんですね。毎年、毎年、売上高が対前年比三十%近く伸びているのですから。十年経ったらどんなになるかというと大変なことですよ。倍々とはいわないまでも、かなり急テンポで伸びることが分かりました。まったく落ち込みがなかったですから。そんなわけで計算センターからソフトウエアハウスヘの転換を図りました」。つまりデータ入力から計算センターに続く、計算センターからソフトウエア企業への再度の転進である。しかし、この転進には十年近くかかったという。

その間には富士通のコンピュータのOS周りの仕事を行い、それは現在まで三十年近く続いている。IBM に対抗すべく、富士通は当時FACOM230-50を開発し、つぎにFACOM230-60というマシンを開発していた。これらのOS周りのソフトウエア開発を行う人員が足りなくなり、それに同社のソフトウエア技術者が協力したことがきっかけであった。これが、同社が基盤技術に強いソフトウエア企業になったスタートである。しかし、これらは「ヒ卜貸し」ではないという。つまり「本来なら、コンピュータメーカーとしてOS のその範囲は外部に出すものではないのです。しかも富士通の沼津工場には一人も社員は行っていません。来年度はOS のこの部分をこんな形でバージョンを上げるというテーマを貰って、全部社内でやっています。それを三十何年やっているわけですから、今日それだけの信用を勝ち得るまでになっているということです」。さらに「ソフトウエアハウスとして紙一枚一枚を汚さずに積み上げていくというのが信用につながるわけでして、世間に噂されるほどのひどいドジも踏まずに、こつこつ着実にやってきました」とも野崎は言う。

ソフトウェア産業振興協会の設立

野崎の活動は―つの会社にとどまるものではなかった。昭和四十五年(1970) には情報化促進法が成立し、またIPA (情報処理振興事業協会)を通じた融資保証制度も出来た。野崎によればこれらは日本の情報サービス産業、ソフトウエア産業の成立に強い追い風になったという。野崎自身も業界団体の結成に動く。「規模だけ大きくなっても、産業として成り立たない可能性がありました。一社では何も出来ないのですから、大企業と対等に渡り合うには業界全体として対応しなくらゃいけないと考えました。当時、構造計画研究所の服部さんが会長になられたが、その構造計画さえ二億円か三億円の売り上げしかないのですから。何とか認知される産業にならないといけないどいう思いがあり成した」。そして昭利四十五年(1970)に任意団体が設立され、翌昭和四十六年(1971)社団法人ソフトウェア産業振興協会が設立される。同時に社団法人日本計算センター協会という計算センターの業界団体も設立されたが、既に計算センターからソフトウエア企業への脱皮を図っていた野崎は、ソフトウェア産業振興協会の創設メンバーとなった。つまり「計算センター業務は全部止めようと思っていましたからソフト協の創立当時から加盟しました」。

当時のことを野崎は「当時我々も若かったですから、かんかんがくがくの議論をしながら、役所に行ってネジ巻いてこいとか、情報産業振興議員連盟に行って泣きついてこいとかよくやりました。会社の仕事を犠牲にしながらね」と語る。野崎はその中でソフトウェア産業振興協会、後に情報サービス産業協会の財務委員長を長く務め、また全国情報サービス産業厚生年金基金や健保組合の整備に大きな貢献をした。

当時のメンバーで存命なのは野崎を含めて日本コンピューター・システムの舟渡会長、SRAの丸森社長の三人になってしまったという。「私はソフト協の立ち上げ期の原動力の一人で、今残っているのは三人しかいません。みんな亡くなりました」。

また、この頃行政面でも動きがあり、通産省(当時)の組織が改編された。それまではコンピュータメーカーに対応する電子政策課が付帯的にソフトウエア産業、情報サービス産業にも対応していたが、新たに情報処理振興課が設けられて、もっぱらソフトウエア産業を含む情報サービス産業に対応することになった。

野崎は、今後のIT産業はますます多忙な産業になっていくと言う。「最新のIT の情勢を一回勉強しても半年後にはもう変わってしまうという、めまぐるしい世界になってきました。技術者が常に勉強していくことが、そしてその総和が会社のレベルを高めます」。「無線技術は歴史的に完結したと言われていた技術ですよね。それがi モードとともに数千万人に、一挙に広がるというのは凄いことです。人類杜会に対して情報技術が与えるインパクトは、何が起こるか分からないほど大きなものです」。また、ソニーとNTTドコモの提携発表の三ヵ月前にもかかわらず、野崎は「ドコモiの モードとソニーのプレイステーションが合体していくと凄いことになるのじゃないですか。あっという間にそうなりますよ」とさえ予言している。

そして帝国と言われ圧倒的な支配力を持っていたIBM の独占的な支配体制が、わずか数年で崩壊したことに、今後のさらなるIT産業の激変を重ね合わせている。「私どもが時代の変遷を強く感じるのはIBMの動向です。ワールドワイドな会社で絶対的な支配権をもち、帝国とさえ言われていましたが、あっという間にその地位から滑り落ちたのですから」。

日本では七転八起は不可能

しかし野崎は、若者に対してベンチャーや起業を簡単には勧められないという。またベンチャー、起業とあおり立てる風潮にも疑間を持っている。これから起業を目指す若者には、リスクをおかしてもやるだけの確固たる心念を持てるかが重要であるという。さらに日本の現状は失敗したものが再起出来るような風土になっていないことが問題であると憂えている。「百人ベンチャー起業家がいても、成功するのは一人か二人です。アメリカでは失敗しても再起できるシステムがあります。七転び八起きといわないまでも、二回か三回ぐらいはチャレンジできるチャンスがあります。社会の懐の深さが日本とは違います。日本には敗者復活の土壌がありません。一度失敗したら、家屋敷は取られ、再起不能です。そういうリスクをおかして、起業する確固たる信念や覚悟があるかということです。しきりにベンチャー、ベンチャーといっていますけど。一度失敗した有能な人物をもう一回すくいあげるシステムを社会的に考えなければいけませんね。昔から七転び八起きといいますが、現代の日本の社会では事実上、不可能です」。このようにベンチャーや起業を取り巻くアメリカと日本の違いのみならず、野崎は日本の現状全体を憂えている。「私は昔から『憂国の士』ですよ。国家には背かれてきましたけどね。戦前受けた教育からは抜け出られないですよ」。

最近やっと幾つかの公職から、解放された。「私はオンリーフェイドアウェイしようと思ってますから、任せるだけまかせて業界からも去っていきたいと思っています。これ以上突っ張っていたらたちまちスクラップになっちゃいます。スクラップになる前にあれは隠居したんだというのが一番いい」。

今、野崎は四国路の遍路を続けている。すでに三十八カ所を回り、残りは五十力所。「俗物ですから、無我の境地にはなれませんけど、ただ歩くのみです。一回りしたら、がくっと行くんじゃないかなんて、脅かすやつがいるんですよ」。野崎はそう言って笑った。

(takashi umezawa)


注 所属、役職等は取材時のものである。

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【冒険のDNA】ホットペッパー創業期の社内公募の文章が神すぎる

僕が新卒で入社したリクルートにおいて
一番長い時間を過ごした部署が、
まさに成長期真っ只中のホットペッパーでした。

毎月のように新しいエリアに新版が創刊され、
日々、至る所で【ギネス更新】という言葉が溢れていて
メキメキと音を立てるがごとく事業が成長していました。

そして、たった7年間で
売上500億、営業利益150億という数字を叩き出すまでに成長し
おばけ事業となったホットペッパーの成功は
リクルート全社においても徹底的に分析され
他事業部へと、そのノウハウが横展開されることになりました。

今振り返ると、
その当時のホットペッパーには
まさに伝説とも言える奇跡的な時間が流れていたと思います。

そんなホットペッパーの創業期において
社内で挑戦者を募集する社内公募の文章があったのですが、
この文章が、今まで見たこと無いぐらい神がかっていて

それを先輩がシェアしていたので
ここでも紹介したいと思います。

いま読み返しても、心が揺さぶられます。。

そして、この文章に書いてあることに噓偽りは一つもなく、
書いてある通りの経験を積ませて頂きました。

あの時期、あのタイミングのホットペッパーに関わる事ができて
事業の圧倒的な成長や、成長が生む歪みやカオス、
そして個人ではなく「チームで勝つ」という成功体験を詰ませて頂けた事は
僕のキャリア人生においても、指折りの幸運だったと思っています。

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【冒険のDNA】

「サラリーマンをそろそろ辞めたいと思っている人」を求めます。

リクルートを辞めて一旗あげようと考えている創造力持った志の高い人いませんか?
そんな方に「商売」「事業戦略」「キャッシュフロー」「リスクを負った意志決定」「組織マネジメント」を学べる機会を用意してお待ちしています。

リクルートは営業には強いが事業には弱い、P/Lには強いがB/Sには弱い、目標達成は知っているが資金繰りは知らない、金を稼ぐのは上手いが使うのは下手、一人で仕事をするのは得意だが組織を動かすのは苦手な人が多いように思います。

ホットペッパーを全国100版展開し事業を新たに創造しようとしています。現在で30版、直近1年間で56版、そして加速度をつけて100版を日本全国の主要都市で出してゆきます。リクルート史上初めての日本全国展開です。

ここには版元長としてまた事業スタッフとして、投資とリターンをベースにキャッシュフローを机上の空論ではなく怖いぐらいリアルに体感できる機会があります。しかも、三ヵ年で200億円の事業を一気に創り上げるという凄いスケールを、凄いスピードで……。

一つの事業が生まれてゆく姿を見て、感じて、参加できるチャンスです。本気で一緒に感じてみませんか?

きっと、無から有を創り出す面白さ、リスクを冒しながら挑戦してゆくドキドキさ、カオスの中での不安定さからくる怖さ、夢を描きながらみんなと力を合わせてゆく楽しさを満喫できるはずです。

その報酬として、あなたは事業家としての知識・スキルを磨けて市場価値を高めることも自分で商売をするときの模擬体験をすることもできます。

そして、あなたが手にする資質は正しい勇気(正しい判断に基づく決断力)です。

私たちが夢に描いているのはニューヨークのように「クーポンのある生活」を世の中に提案し「クーポン文化を日本に根付かせる」ことです。

いつか時が流れて振り返ったときに、「この社会現象を創り出したのは俺たちなんだ!」と誇れる仕事をしたいと思っています

求めるタイプは商売が好きな人、博打に強い人、数字に強い人、スピードが大好きな人、発想がユニークな人、そしてなによりも、冒険のDNAを持った人です。この事業に関わることで、私たちは「自分で考え、決め、動く人間に成る」を目指しています。きっとあなたもここで新しい自分を発見できるはずです。

眠っているあなたの勇気を今こそ目覚めさせてください。

守りに強いだけの人は、あと3年後に応募してください。
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このストーリーの詳細を知りたい方は以下の本を読むと全て分かります。

Hot Pepperミラクル・ストーリー―リクルート式「楽しい事業」のつくり方

この本は、僕がホットペッパー関係者という事も差し引いても
僕が今まで読んだビジネス本の中でも最高傑作だと思います。

リクルートの強さの秘密が全て載っているので
いつかリクルートから廃盤指定されるんじゃないかと思いますが。。

yosuke_lib 7年前 読者になる


「トップスキル」を「仕組み化」する

2015年07月02日

テーマ:仕事




人事のロングミーティングでの曽山さんのひと言。

「トップレベルのスキルを仕組み化できれば
 横展開し業績を上げることができる」


これは本当にその通りだと思います。

・ファシリテーション
・プレゼンテーション
・資料の作成、わかりやすい見せ方
・対外的交渉
・新規事業の考え方

などなど

スキルを言語化し仕組み化できれば
社員の引き出しが増え
組織力の厚みを出すことが出来ると思います。


ここで重要なのは
1つのテーマでも多くのパターンがあること
全部同じパターンにはめようとしても難しい。


茶道でも最初は表千家から始まり
裏千家ができ、そこから派生して
いろんな型ができたように
スキルも型が多くあっても良い気がします。


また、もう1つのポイントは
属人化されているスキルは絶対言語化できる
ということ。


以前岡本さんに言われたことですが
ある業務を自分でないとできないという話をしたときに
「人間のやることは何らかの判断基準を元に
 動き決めていることだから絶対に他の人でもできるはず」
と言う話しをされました。


デザイン感覚とかは難しいかもですが
通常の業務はできることが多いはず。


人事3本部の新しいミッションは
「パフォーマンス・ドライバー」
できるだけ多くのフレームを産み出し
業績を上げられればと思います!



登大遊、落合陽一を生んだ、未踏の父・竹内郁雄に聞く「優れたエンジニア」に必要なこと

NEW! 2024.04.12 スキル

登大遊、落合陽一など数々のスーパークリエータを輩出してきた、独立行政法人情報処理推進機構(IPA)の「未踏IT人材発掘・育成事業」(以下、未踏IT)。その立ち上げから現在までを知るのが、統括プロジェクトマネージャーの竹内郁雄さんだ。

2017年には、ビジネスや社会課題解決につながる人材を発掘する「未踏アドバンスト事業」にも統括プロジェクトマネージャーとして参画。国際的なデファクトスタンダードとなるソフトウェアを日本から生み出すべく、人材育成に心血を注いでいる。

前身の未踏ソフトウェア創造事業から数えて24年。のべ2000人を超える修了生を見てきた竹内さんだから言える、優れたエンジニアに共通して求められる素養を聞いた。

未踏事業統括プロジェクトマネージャー(PM)
一般社団法人未踏 代表理事
竹内郁雄さん
1946年、富山県生まれ。1969年、東京大学理学部数学科卒業。1971年、東京大学大学院理学系研究科数学専攻修士課程を修了、日本電信電話公社電気通信研究所に入所。Takeuchi関数の発明、TAOソフトウェアの開発などの業績をあげる。1996年、論文「パラダイム融合言語の研究」により東京大学博士(工学)。1997年、電気通信大学電気通信学部情報工学科教授。2005年、東京大学大学院情報理工学系研究科教授。2011年、早稲田大学理工学学術院基幹理工学研究科教授などを歴任。2000年、独立行政法人情報処理推進機構(IPA)の未踏ソフトウェア創造事業(未踏IT人材発掘・育成事業)プロジェクトマネージャーとなり、今日まで人材の発掘・育成に取り組む

独創性、技術力、パッション

━━竹内さんは未踏事業の統括PMとしてたくさんのスーパークリエータを見てきたと思います。彼ら彼女らの共通点から、いいエンジニアの条件を伺いたいです。

つい2、3日前、ちょうど今年度の未踏ITの書類審査を終えたところです。先週の月曜日からまるまる1週間、ほぼ一歩も家から出ずに審査していました。2300ページ超。70時間弱。我ながらよくやったと思いますよ。

━━応募してくる人のどこに注目して審査しているんですか?

書類で見るのは、理路整然と物事が書いてあるか、アイデアが面白いか、といったところ。それはまあ当然として、特技や「ITに対して思うところ」といったことも書いてもらっているので、そういうところから人物像を推し量る。でも、書類で見えるものはそう多くないんですよ。

面談だと、会った瞬間に「気合い」が分かるじゃないですか。なかなか言語化が難しいけども。「何かやりそうだな」という感じというか。書類では伝わらない迫力のようなものがある。

━━IT人材の審査にも「気合い」が問われますか。

世の中は広いから、似たテーマをやっている人を探せば、絶対にいないはずがないんですよ。その中でも自分なりの視点で問題を整理できているか、絶対にやり遂げたいというパッションが感じられるか。そういうところを我々は重視していますね。

もちろんパッションだけでもダメで、それを支える技術背景は必要です。時々いるんですよ、パッションはすごいけれども、技術に関しては「これから勉強します!」という人が。それではちょっと頼りない。

ただ、それでは絶対にダメかと言えば、そうとも言い切れないから難しい。例外もいるんでね。大昔の話ですけど、19歳の高専生が応募してきたんです。「将来漫画家になりたい。漫画を描く上で最も手間がかかるのは絵を描くことではなく、コマ割りだ」という。そこを省力化するために、半自動化するというのが彼女のアイデアでした。

彼女にプログラミング歴はほとんどありませんでした。でも、漫画にかけるすごい情熱が伝わってきた。結果的に、9カ月の間にプログラミングをいろいろと学んで、かなりのことをやり遂げました。

━━技術力が足りなくても採択したのは、彼女の情熱が図抜けていたから?

情熱もそうですが、彼女のアイデアには前例がなかったから。みんながこぞって取り組んでいるところは、技術力がなければ勝負にならない。けれども誰もやっていないところであれば、可能性はある。技術力はそこそこでも、パイオニアとしてその領域を切り開くようなことはできる。その兼ね合いで見ていますね。

優れたエンジニアはメタスキルを持っている

━━誰もが知っている未踏ITの修了生としては登大遊さんがいます。登さんの最初の印象は?

登くんの提案書を見た時には「こんなこと、本当にできるのかな?」と思いました。彼が提案してきたのは、TCP/IPの上にイーサケーブルをシミュレーションのように載せるというアイデアだったんだけど、理屈から言えば、そんなことをすれば当然遅くなる。

マイクロソフトなどの大手もなかなかできていないことだったし、そんなことをやっても無駄だという論文もあったくらい。だから私も「本当にできるのかな?」と思っていました。

私としては半信半疑で採択したんですよ。ところが彼はやり遂げてしまった。採択して2、3カ月後にはもう、立派なデモをやってしまった。本当にびっくりしました。

これは後から聞いた話ですけど、彼は高校時代から相当に名前が売れていたらしい。でも、採択の時点ではなかなかそこまでは見抜けないから。書類審査に特技や「ITへの思い」といった項目を設けたのは、そういうわけ。少しでも人柄のような部分が知りたいと思って、いろいろと工夫しているんです。

━━登さんは別格だとしても、優れたエンジニアには共通した何かがありますか?

千差万別、いろいろな人がいます。「こういうタイプの人に限る」とはなかなか言えないですよ。多種多様でなければ面白くないしね。

ただ、未踏を終えた後に成功している人には、共通する部分がある気がします。彼らはスキルのもう一段階上の、メタスキルを持っている

━━メタスキル?

スキルを素早く習得する能力というか、スキルを使いこなす能力というか。メタスキルがある人は、それまで使っていたのとは別の言語でも問題なくやれる。別の分野に移っても活躍できる。要するに、自分の持つ技術の活かしどころをいくらでも変えることができます

自分の持つスキルを俯瞰で見て「ああ、このスキルではもう先がないな。じゃあ次はこっちへ行こう」という判断ができる。これはおそらく、できるエンジニアには不可欠な能力でしょう。

未踏の修了生には、未踏でやったことと全く関係のないことをやって大成功している人も多いんですよ。それはメタスキルを持っていればこそ。そういう人が本物のエンジニアだなと思います。

登くんは確かに特別かもしれないけれど、彼もまたメタスキルを持っている。彼はネットワークのプロフェッショナルですが、未踏の修了後は法律や経済などの文系の勉強もして、スキルを大きく伸ばしました。だからこそ彼の今がある。まさに「鬼に金棒」状態ですよ。

仕事に関係ないプログラム、書いてますか?

━━メタスキルを身につけようと思ったらどうすればいいですか?

簡単に移れるということは、メタスキルというのは要するに基礎力なんですよ。基礎力があるからスキル変更に耐えられる。

基礎力というのは大学生くらいまでに勉強しておかないとなかなか身につかないものですね。30歳になってから「もう一回基礎力を身につけろ」と言ってもなかなか難しい。

━━読者は主に社会人なんですが……。

基礎力というと学校の勉強をしっかりやることのようにも聞こえるけれど、必ずしもそうではないんです。メタスキルを持つ人とは、別の言い方をするなら、目移りしやすい人です。

隣の芝生が青く見えると、すぐにそっちへ行きたくなる人。今はWebのことをやっているけれども、仮想通貨が出てきたら「そっちも面白そうだな」というように。ふっと横道に逸れる。そうやって本業とは別に勉強ができる人のことです。いくらでもテクノロジーの浮気ができる人、とも言えます。

隣の芝生に移るというのは、簡単なようでいて、実は誰にでもできることではない。隣の芝生が綺麗に見えても、「実は酸っぱいんだ」と自分に言い聞かせて手を伸ばそうとしない、イソップ童話のキツネのような人もいる。良さそうに思えても「自分には関係がない」と自己規制してしまう。

いいエンジニアにはそういうところがない。無鉄砲に行けてしまう。そういう人が未踏には多いです。

━━どちらかというと、そういう無鉄砲さが抑制されがちな社会の気もします。

今は管理社会だからね。でも、それでも私は希望を持っていますよ。

これは大昔の話ですけど、未踏が始まる前の1999年。情報処理学会全国大会で、私はコーディネータとして「世紀末討論会」と題した、現場エンジニアとアカデミア研究者の3対3のトークバトルを企画したんです。これが大変盛況で。200人以上入る教室が満員になり、ついには立ち見も出た。

その中で私は会場に来ている人たち、そのほとんどは会社勤めで、普段仕事としてプログラミングをしている人たちを対象に、ちょっとした挙手アンケートを行ったんです。そうしたら、会社ではプログラムを書けない、あるいは書きたくないプログラムを書かされているけれども、自宅に戻ってからは好きな言語で、好きなプログラムを書いている。そう答えた人が驚くほど多かった

ああいう人たちはきっと“浮気”している人たちなんですよ。1999年の時点で、そういう人が私の予想をはるかに超えてたくさんいた。そのことをすごく心強く思ったんです。日本はまだまだいけるぞ、ってね。

━━本業とは直接関係なくても、それが本業にも役に立つ?

そう思います。その寄り道は、技術力の養成にものすごく役立っていると思う。

だってそうでしょう。誰にも頼まれなくてもプログラムを書くということは、「こんなことをやってみたい」と思うところから始まって、自分で設計して、実際に手を動かして作ることの全てをやるわけです。「せっかく作ったのだから」とオープンソフトウェアとして公開するとなれば、ドキュメントもマニュアルも自分で書くことになる。

もちろんそんなに大規模なものは簡単にはできないですが、それはゼロから作り上げた、まごうことなきその人の産物です。そうやってゼロからひと通りやってみた経験は絶対に生きるだろうと思います。

そういう意味では、これは学生か社会人かという話ではない。研究室のプロジェクトなどで、まさに駒のようにして「この部分をやれ」と言われてやっているのでは、その人はなかなか育たないわけですからね。

足りないのはビジネススキルか、技術力か

━━2017年にスタートした未踏アドバンスト事業についても伺いたいです。未踏ITで求める人材とはどのような違いがありますか?

25歳未満の優れた人材を発掘し、それを大いに伸ばそうというのが未踏ITです。そこでは多少無鉄砲で荒削りでも、IT人材としての伸びとポテンシャルを重視します。

一方、未踏アドバンストは、日本のIT産業とIT社会基盤の発展・強化につながるような、より成熟したIT人材を育成することを目的としている。年齢は無制限。プロジェクトあたりの予算もかなり大きい。未踏ITより高い事業性や社会実装、国際的なデファクトスタンダードの実現可能性を重視しています。

━━米国にはビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、イーロン・マスクのような、プログラマ出身で社会的に大成功を収め、小学生にも知られている人がいます。ところが日本にはそれがない。アドバンスト事業を立ち上げた背景には、そういう問題意識もあるように思うのですが?

そういう人、出てきてほしいですよね。現状はまだいないので。そもそも日本発で国際的に大ブレイクしたソフトウェアがない。これについては、我々未踏側ももうひと頑張りしないといけないですね。そういう人材を育て、また彼らが成功するような環境を作る必要がある。

━━なぜ日本からそういう人が出てこないのでしょうか。ビジネススキルの問題ですか?

それもあるかもしれないけれど、それだけとは言えないでしょう。むしろ技術力の問題かもしれない。

私は、未踏アドバンストを修了した人に対して「すぐに会社を作ってビジネスをしろ」とは言いません。なぜか。ひょっとしたら将来大きく育つかもしれない芽を潰す可能性があるからです。

未踏アドバンストはあくまで人材育成。プロジェクトは長いと言ってもせいぜい8、9カ月です。それを終えて即起業してお客さま相手のビジネスをしても、大きく成功する可能性はゼロではないが、大きくはない。

慌てて起業すると、端的に言えば、お客さま対応に追われることになります。もともと大人数で始めるわけではないから、トップエンジニアもそこに駆り出されることになる。そうすると技術の厚みを増していくことができない。次のステップを踏めなくなってしまう。あるいはそのスピードが鈍化してしまうんです。

修了して5年は、技術的資産を増やすことに専念した方がいいと考えています。日本からなかなかいいものが育たないのは、日本のビジネス環境がなかなかその猶予を与えてくれないところがあると思います。

例えば、今はビジネス的に大きく成功しているPreferred Networks。あそこも起業してしばらくは、半分は大学のような会社でした。成功を収めるまでには創業から5、6年は経っていると思います。

修了生のその後を追うために、創業者の西川(徹)くんらにインタビューをしに行ったことがあるんです。しばらくしたら「すみません、これからゼミがあるので」と言って忙しそうにしていてね。それを聞いて「これだ!」と思いましたよ。そうやって大学の研究室みたいにして内部にパワーを溜めていったからこそ、あそこまでいけたんでしょう。

デキる奴をデキる奴として扱える社会に

━━未踏の修了生には組織に属して働いている方もいると思います。そこで伺いたいのはそれを受け入れる側の心得です。仮にポテンシャルのある人が会社に来てくれたとしても、その力が会社の力になる上では、迎え入れる側にも必要なことがあるように思うので。

それは未踏のPMにも通じる話ですが、「できるな」と思った子に対しては「出る杭を伸ばせ」というのが我々のスタンスです。未踏の子たちが修了後、入った会社で活躍できた例を見てみると、大体そういう上司に恵まれている。ひとことで言うと、パトロン的な上司が自由にさせてくれているんです。

逆に、一番たちが悪いのはできる上司です。できる上司は、できる若い子が入ってくると衝突しやすい。そういう上司と喧嘩して辞めたという話をよく聞くんです。彼らは辞めたとしても潰しが効くから、そういう会社からはすぐに出ていってしまうんですね。

だから「自由にさせておいた方がトータルでは会社にとって得だ」という判断ができる、本当の意味で「デキる」上司が必要です。もちろん、特別扱いをしていることは周りにも伝わるでしょう。日本は嫉妬の社会だから、よく思わない人も出てくるかもしれないね。でも、やはり「デキる奴」を「デキる奴」として扱えないようだと、社会としてはなかなか辛いものがありますよ。

━━未踏でのびのびと才能を伸ばしても、社会の側がそれを受け入れられるように成熟していなかったら、せっかくの才能を活かせないことになりますね。

そうです。でも、昔はひどかったけれど、最近は割と良くなってきていると思いますね。なぜって「未踏を修了した優秀な子を取りたい」と言ってくれる会社が増えているから。

彼らは面白いと思えばなんでもやってくれるし、面白くないと思うことはやろうとしない。そういう子を欲しいと言ってくれる会社は、彼らを潰さない会社ですよ。そういう会社が昔と比べて増えてきた。日本の社会も少しずつ変わってきていると思いますよ。




第一次オイルショックを回顧する 杉山 和男 Kazuo Sugiyama

(財) 国際貿易投資研究所 理事長

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第一次オイルショックを回顧する 杉山 和男 Kazuo Sugiyama

(財) 国際貿易投資研究所 理事長

(1)昭和 20 年(1945 年)秋から 6 年半の学生生活(あまりにも居 心地が良いので一高は理科から文科に変わったり留年したりで 少し長くいた。)を終え、通商産業省に入った。

敗戦により小国となった日本の国民が何とか生き延び、夢のよ うな欧米人の生活水準に少しでも近づくには、貿易と産業の発展 が不可欠であり、そんな仕事に携わりたいと思ったからであり、 又父が機械部品の町工場の経営に苦闘しているのを見たり手伝 ったりしていた影響もあった。

爾来 32 年半、経済協力(当初は世銀等からの支援を求め、後 には LDC への援助を行う。)、貿易(振興と摩擦の解消等)、電力、 鉄鋼、紙パルプ、肥料等の基礎産業の基盤整備、自動車をはじめ 石油化学、産業機械、コンピュータ等の新規産業の創設、発展等 のさまざまな政策の立案、実施に参加でき、同省の良き先輩、後 輩の間で鍛えられつつ強い絆で結ばれ、又関係各省、産業界、更 には政界の優れた人々と心を通わせる機会を得たことは実に幸 運だったという他ない。

日本経済の復活と高度成長の中で働いた思い出は尽きないが、 ここ数回掲載させて頂いた筆者の回想的随想の終章として、最も 強烈な印象を残した出来事を一つだけ挙げるとすれば、昭和 48 年(1973 年)末発生した第一次オイルショック時の体験といえ

季刊 国際貿易と投資 Spring 2008/No.71● 1 http://www.iti.or.jp/

Echo

る。前書きが長くなったが、なるべく自分の体験を中心に記述し

たい。
(2)通商産業省は、中曽根大臣、両角次官(昭和 16 年入省、後電

源開発総裁、ナポレオンの研究で有名である。)の時大きな機構 改革を行い、昭和 48 年 7 月、エネルギー政策を一体的に行う資 源エネルギー庁(従来の鉱山石炭局、公益事業局を石油部、石炭 部、それに電力、都市ガスを担当する公益事業部として包括す る。)を創設した。初代長官は山形栄治(昭和 19 年入省、後新日 鉄副社長、九州石油社長、会長)、公益事業部長は岸田文武(昭 和 23 年入省、後中小企業庁長官を経て自民党衆議院議員、現福 田内閣の特命担当大臣岸田文雄氏のご尊父)の各氏であり、筆者 は公益事業部をまとめる計画課長に任命され、岸田さん直属の部 下となった。

就任直後から関西電力を中心とする夏場の供給力不足への対 応、いくつかの新政策を盛った翌年度予算要求案の作成等に当た ったが、ニクソン大統領の 2、3 年後には石油危機が発生するか もしれぬという予想が気になり、その対策の準備、検討が必要だ と思っていた。

ところが、早くも 10 月 6 日勃発した第 4 次中東戦争をきっか けに、中東産油国は石油を武器として使うこととし、日本列島も たちまち巻き込む第一次オイルショックが発生した。

筆者は電力とガスの担当であったから政府全体の動きに精し いわけでもなく、また最近大きな本屋を何軒か歩いたが、この時 のことを語る本はもはや店頭に皆無であり、又平素かなり書き込 んでいた筆者自身の日記も、余りの忙しさからかこの期間のみは 空白である。従ってわが家の書庫にあった少数の本(注 1)を参 考とし、オイルショックの対策全般や石油対策にも少し触れつつ、

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第一次オイルショックを回顧する

直接担当した電力に関する対策を中心に見聞きしたところを書

いておきたいと思う。 (3)第四次中東戦争は短期終戦の予測が多かったが、10 月 16 日に

はオペック加盟 6 ヶ国会議でアラビアンライトの公示価格を従来 のバーレル当り 3.01 ドルから 70%引き上げ 5.11 ドルとすること を決め、又 17 日にはオアペック(アラブ石油輸出国機構)の 10 ヶ国閣僚会議で、(イ)イスラエル軍が撤退するまで原油生産量 を 9 月水準に対し毎月 5%ずつ削減する(ロ)友好国(アラブ諸 国に軍事援助を行っている国とイスラエルと断交している国と いう意味らしかった。)には生産カット以前と同量を供給する (ハ)敵対国である米国とオランダには輸出を全面禁止すること などを決めた。更に 11 月 5 日クエートで開かれたオアペックの 決定では、戦略を強化し、11 月の生産量を 9 月比 25%カットす る。12 月以降は毎月 5%ずつ削減率を上乗せするという強烈なも ので、これを聞いた山形長官はあの時は震え上がったと後に語っ ていた。1950 年以降わが国のエネルギー中、石油への依存度は急 上昇して 70 年には 48%となり、日本の原油輸入量は世界最大規 模の 2 億 8000 万 KL に達し、そのうちオアペックへの原油依存 度は 45%、メジャーへの依存度は 60%であったが、メジャーが クッションになるという一部の楽観論はたちまち破れ、彼等から は、むしろ米国等への供給の必要もあり、日本へは 10 乃至 30% の供給量削減と大幅値上げを次々と通告してきた。

金さえ払えばメジャーがいくらでも安い石油を供給してくれ ると思いつつ、高度成長を続けてきた日本には、当時外交官にも 商社にも石油会社にもジャーナリストにも、アラブ情勢や石油動 向についての専門家として情報を集め、分析し、予測できる人材 は極めて少なかったようで、すでに 1971 年リビアのカダフィ大

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佐の行ったメジャー系企業の一部の国有化、石油の減産、値上げ や、この年夏のサウジのファイサル国王の減産予告声明など、後 からみれば明白な石油戦略の前兆についても注目されなかった し、また産油国とメジャーの力関係の変化も余り重要視されてい なかったようだ。

(4)日本国内では国民の不安感の増大を背景に、11 月に大阪に発生 したトイレットペーパーの品不足、値上がりについてのパニック は、たちまち全国に波及し、次いで洗剤、砂糖、灯油などの品不 足と値上がりが現実化した。

通産省は情報収集につとめ、上記事態に対応しつつ、11 月 10 日には「石油削減状況(48 年下期輸入予測をこれまでの 1 億 6000 万KLから16%減の1億3700万KLに修正)」を、15日には「石 油の供給削減と当面の日本経済」を作成し、16 日には「総需要 を抑制し物価上昇を抑制しなければ日本経済は危機的状況に追 い込まれる。故に当面行政指導により需要を抑制すること」を閣 議決定し、20 日から「一般企業は石油、電力使用を 10%削減(特 に 3 千 kW 以上の電力需要家は個別目標をつくる)」するよう呼 びかけ、又「マイカー使用の自粛、ガソリンスタンドの休日閉鎖、 デパート等の営業時間短縮、ネオンの自粛、深夜テレビの中止」 等を訴えた。

当時発電所の半分以上は石油火力であり(注 2)石油の不足が 電力へ与える影響は甚大だったし、また行政指導による節約とい っても石油より電力の方が把握しやすいこと等から公益事業部 には責任の重さに緊張感がみなぎった。一方石油部と経済企画庁 は 12 月 1 日から始まる国会に石油 2 法(石油の需給計画や消費 規制についての命令権を通産省に与える「石油需給適正化法」と 生活関連物資や国民生活上重要な物資について価格が騰貴し、又

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はそのおそれのあるとき、政府が標準価格を定め違反者には課徴 金を課すという「国民生活安定緊急措置法」)を提出し、昼夜を 問わず日曜日も休まず審議して頂くという異例のスピードで 12 月 21 日に 2 法が成立した。

この間公益事業部としては、この自粛等の実施のため、省内各 局、関係省庁、国会議員等への説明や物価上昇などに関する各種 団体の陳情ないし抗議への対応、備蓄が極度に少なくなった電力 会社への緊急融通(石油部の同僚を通し石油連盟等に話を持って いくのだが、石油部の担当者をつかまえるのに深夜になることが 多かった。)等で忙殺されるようになった。各種来訪団体への対 応には人員増強案もあったが筆者が引き受けることにした。

ただし、昼間や明け方はとても忙しく夜 11 時頃から深夜まで なら応接できるといったら、零時頃多くの集団が現われ、特に連 夜来る主婦のグループもあった。はじめのうちは「電力会社に甘 い。会社のためばかり考え消費者の立場を考えない。通産官僚の 家などは電気代は払わないのだろう。」など悪口雑言が多かった が、三度四度と面接している間に「事情は判ってきた。しっかり やれ。」というようになったという例もあった。何といっても時 間がかかったのは国会への対応だった。石油不足にからみ当然電 力にも多くの質問が寄せられた。各種委員会で同時に多くの議員 の方が質問されるので、前夜質問事項をお聞きして想定問答が作 成され、筆者が最終チェックをするのだが、出来上がるのは明け 方になる事もあり、タクシーをつかまえ議事の始まる寸前に届け たことも何度かあった。また国会の廊下に机をお借りして、そこ で予定表をつくり、委員会や質問者の重要度、質問内容、質問時 間等に応じ、大臣、政務次官、長官、部長等に分担して答弁をお 願いすることとし、部の課長達にも説明員として比較的関係の薄

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い委員会へ出てもらい、酷い場合は他の課の所掌事項までも答弁 してもらうということもやった。そしてその要員すらいなくなっ て質問通告があったような場合には最終予備軍として筆者自身 がとんでいったことも何度かあった。この季節の応答で参議院決 算委員会に出席した時のことをよく覚えている。

この委員会には元 NHK におられた木島則夫委員をはじめ元タ レントの委員が列んでおられ、「通産省はまず深夜テレビの中止 など要請したらしいが、中小企業いじめであるし、第一深夜テレ ビに使われる電力量など僅少なことを知っているのか。」などの ご質問なので、当方からは「これから逐次拡大される電力不足の 深刻さを国民にアピールするためお願いした。確かに使用電力量 は少ないが、近い将来最も電力量の多いゴールデンアワーをスト ップすることなどもお願いしなければならぬかもしれない。」な どとひどく無愛想な答弁を平気でしたものである。

(5)こういう仕事の他に、年末までは何とか前記の自粛要請でしの ぐものの、年明けにはそれだけでは到底間に合わない。第 2 段階 として 1 月 1 日からは石油も新法による使用規制を行う予定なの で、電力も電気事業法に基づく強制力のある使用制限規則(省令 だが伝家の宝刀としてこれまで一度も発動したことがなかっ た。)を用意した。国民生活に直接影響する重要度を基準に、 500kW 以上の需要家 1 万 2 千を 4 グループに分け、10 月の使用 量を基準とし、1適用除外(上下水道、病院、消防、鉄道等)2 第 1 種 5%削減(精米、乳製品製造等の食品加工など)3第 2 種 10%削減(新聞、テレビ、取引所など)4その他の需要は 15%カ ット(当初案では 20%)とするもので、またネオンサイン等も使 用禁止とした。当然のことながら各分野について所掌省庁から緩 和要請が殺到し、足元の通産省の各局からも例外なしの適用につ

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いて強いクレームもあった。しかし事情を説明し原案について了 解して頂く他なかった。(電力担当部門には長い伝統があり、こ の作業の最中にも、かつて先輩達が、日本の電力供給力が突然半 減した場合の重要分野への配分案が研究されていた資料が見つ かった。経済事情等に変化があり使いものにはならなかったが、 こうした対策を実行する時点で担当者となったことの責任を感 ずるとともに、かつてそうしたことを考えていた先輩達に励まさ れる感があった。)

(6)しかし上記の対策が予定どおり実行されたにせよ、石油供給は 更に削減されるかもしれない。従って大都市において地域別に短 時間の時差停電を行う検討も始めた。しかし余りにも問題が多か った。病院への送電はどうするか、一部電力会社に発電機搭載車 があったが余りに少数であり、病院で自家発電をもつものもあっ たが、燃料不足ではどうにもならない。また、交通信号だけ止め ない停電は不可能であり、警察の意見を聞いても主要道路に警官 配置はできても交通事故は激増を免れない感じだ。なお電力以外 でも灯油不足は凍死者を出すおそれあり、都市ガスの一時供給停 止は再開時にガス栓を締め忘れた家庭でガス中毒や爆発を起こ すおそれが強い等々人命にかかわる危険がいたる所で懸念され た。

筆者の属する部局の職員は一人残らず本当によく働いてくれ た。寒い夜を徹夜で働く人々のため石炭焚きの達磨ストーブを集 めたが十分な数ではなかった。事務所の床はリノリウム張りで冷 たかったので絨毯の敷いてある長官室に入ってごろ寝する人が 多かった。

長官の山形さんは、筆者がこれまで二度直接の部下として仕え たことがあり、問題が大きくなる前にうまく片付けてしまい仕事

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に熱中する姿はあまり見たことがなかったが、退官前のこの一年 間は戦後最大の危機に獅子奮迅の活躍をみせた。又この時筆者の 直属上司だった岸田文武部長の働きも立派だった。文字どおり指 揮官先頭の戦いぶりで、これから記述する問題も含め、多くの問 題を処理すべき時、常に一番難しい問題、一番難しい局面を担っ てくれた。その部下に対する温厚な接し方は筆者が学ぶべき点と かねて思っていたが、その部長が部下達に風邪が流行しているが、 熱が出ても 40 度以下なら出勤してくれといっていた。各人知力、 体力の限界で働いているので一人でもいなくなると将棋倒しに なることも考えられたからである。部下には申し訳ないことだが、 日本経済が崩壊する危機であり、上記のように悪くすればエネル ギー不足により死者さえ続出しかねない局面で、その対策の任に あたる我々エネルギー庁の職員の中に(できるだけ回避したいこ とだが)何人かが倒れることがあっても止むを得ぬと思っていた。 (幸に当部では比較的高齢の人 2 人が寝不足のためか頭がおか しくなったが短期で回復した。)とにかく、筆者なども今こそ入 省以来よき上司に恵まれて鍛えて頂いた力を出し切ってその任 に当たるべき時だと思った。筆者も12月には10日間位帰宅でき ず、机の前のボロなソファーに 2~3 時間ずつ仮眠する日が続い たこともあった。3 日に一度位娘が下着を届けてくれたので、地 下のボイラー室で体を拭き着替えをしたことを想起する。

(7)この間日本政府は、対米関係を考慮しつつも、何とかオペック から友好国扱いにされるよう苦労したが、12 月 10 日中東 8 ヶ国 歴訪に出発した三木特使一行は、12 日サウジのファイサル国王か ら「友好国とし、石油供給削減が解除されるよう最大限の努力を する」旨の返答を受け、その後オアペックがクエートで石油相会 議を開き「日本を友好国と認め、石油供給量を 9 月水準まで戻す」

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と決め公式発表をしたのが 12 月 25 日、クリスマスの日であった。 その 2 日前 12 月 23 日オペックの湾岸 6 ヶ国会議で原油の公示 価格をアラビアンライトで 5.11 ドルから 11.65 ドルへと 2.28 倍に 引上げる(危機前の 4 倍)との決定の報が伝えられ又愕然とさせ られたところに思いもかけぬ朗報が飛び込んだわけで、我々は飛

び上がって喜んだ。 筆者自身も救世主にめぐり合ったような気分だった。これを機

に、油の問題は量から価格に変わった。筆者は用意しすでに官報 の印刷が行われている使用制限規則(通産省令)の廃止を主張し たが、他の関係者全員の油の供給が増えるという保障はまだない という反対論でつぶされてしまった。しかし実行は 1 月 16 日か らとされ又規制内容も最高カット率を 5%緩和した。(この法的 制限は 5 月末行政指導に戻り、これも 6 月一杯で終了した。)

(8)かくて当面の需給危機は去り、正月 3 日間は全員倒れたように 休憩を取り、次に電力料金の大幅な値上げと電源開発促進策の具 体化に取り組むこととなった。

9 電力の一斉値上げは昭和 29 年以来のことで当部にも電力各 社にもその経験者は殆どいなかった。政府は物価安定のためには 公共料金の値上げは極力抑える方針であったが、当時発電量の約 75%を石油に依存しておりその値上げの影響をまともに受け、電 力料金収入に対する燃料費の割合が従来の約 20%から 48 年度に は 70%にも達することとなり、このままの料金では電力経営は 破綻するという事態だったので、3 月中旬石油製品の新価格体系 が決定するのを待って、4 月上旬各社平均 62.89%の大幅値上げ が申請された。

早速、報酬率決定に必要な有効資産のための特別監査をはじめ 料金査定作業が開始され、一方法定されている公聴会の一斉開催

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(5 月 7 日と 8 日)の準備にかかった。公聴会は筆者の課の仕事 だったが、全国同時開催のため各通産局の局長や担当部長ととも に 3 名の議長団を構成するために本省からも部内各課長に加え、 長官官房の課長をも動員することとし、議事についての手続き、 内容、警察等との連絡等を説明した。筆者は通産局もなく手薄な 富山を担当し、又特殊事情で更に一日参考人意見聴取日を設け場 合によっては大荒れとなるおそれある名古屋にも富山終了後直 ちに移動した。相当野次や騒ぎはあったが幸に暴力沙汰等はなく 無事に終わった。

電力料金については電気事業審議会の料金部会、小委員会(部 会長、委員長はいづれも向坂正男氏)で伊藤光晴、今井賢一、鎌 田勲、竹中一雄、渡辺恒彦等錚々たるメンバーで熱心な議論の後 3 月 20 日新料金制度のあり方についての中間報告をいただいた。 新料金制度は原価主義の原則は堅持するが、電灯については三段 階方式を取り、月使用量 120kWH まではナショナルミニマムの観 念を取り入れた低料金、これ以上 200kWH まではコスト主義によ る平均料金、それ以上の使用量については省エネのための割高料 金とするというもので、その後何度か変更されたようだが(例え ば、200kWH は後に 300kWH に修正された。)省エネ政策が今日 益々重要度を増し最も基本的エネルギー政策であるというのに、 近年官民ともこの制度の存在に触れようとしないのが筆者には 何とも不思議に感じられる。また産業用電力については新規需要 に割高料金を設けるとともに従来の使う程安くなる負荷率割引 制を廃止する点等に特色があった。これ等の提言を取り込み新料 金は、九社計 56.81%の引上げ(電灯 28.59%、電力 73.95%)と なり、前述した年末の国会審議以上に、衆参両院の予算委員会、 商工、大蔵、物価特別、科学技術、更にその他の各委員会でも取

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り上げられ、燃料費の算定根拠など査定に関する質問が中心だっ たが、当時盛んだった大企業性悪論をも背景に、電力会社のホテ ル、マンション、ゴルフ場への投資の問題、(そんな余裕あるな ら値下げ原資にせよ。)政治献金の問題等広範に及んだ。筆者に は公明党議員から鯉のぼりを上げるため裸電線に触れ感電死し たケースが取り上げられた時の印象が強く、あれは5月の事だっ たなと思い出している。そして最後に 5 月 21 日首相官邸で物価 安定政策会議が開かれ了承されたのであるが、田中首相の最後の 質問が「欧米諸国の状況はどうなっているか」ということで岸田 部長が答えた話を聞き、かねて海外電力調査会に、電力料金とそ の国の言葉に強い人々2、3 名のチームを主要国に派遣して大至 急で現状を報告して頂いていたので、何か入学試験のヤマが大当 たりしたような感慨を持ったことだった。

(9)最後に第 3 番目の問題、即ち電源 3 法のとりまとめについて簡 単に触れておきたい。12 月も中旬に入り、前記のように使用制限 の最終案の作成や料金改訂の準備作業に加え 49 年度予算折衝が 山場を迎えているとき、田中総理から電源の拡充、特に原子力発 電の促進のための抜本策を講じるべきであるとのご意見が伝わ り、13 日の参院予算委員会で自ら「電源開発促進のため新税を創 設し抜本的促進策を講ずる」旨の答弁があり、これは大仕事だと 思いつつも直ちに作業に入った。当時電源立地は遅々として進ま ず、昭和 42 年以降は適正予備率といわれる 8~10%が維持できず、 48 年には 3.6%まで低下、特に夏の関西地区の予備率は 0 に近く、 エネルギー庁は官民に使用自粛を強く訴え、又全国からの緊急の 融通によって辛うじて対応できた状況であった。又新規電源の着 工は進まず、電源開発調整委員会で決めた必要開発目標に対し、 実際に着工が決定した比率は昭和 47 年度 32%、48 年度 44%、特

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に原子力については 0 であった。地元の反対のためだが、一つは 安全性への不安であるが、発電所ができても雇用増加に結びつか ないためもあった。そこで通産省はすでに発電用施設周辺地域整 備法案を提出していたが、予算要求も少なく、地元メリットも期 待できないということで継続審議となっていた。公益事業部は発 足早々8 月に 49 年度新政策の一つとして新税と特別会計を設け る案を急遽作成したが、有力幹部の予算のエキスパートから「特 別会計を作るなど 10 年に一度あるかないかの大仕事で、発足早々 問題山積みのエネ庁が実現できる仕事ではない」と拒否され、そ の資料は他日を期して机中に納められていた。従って首相からの 指示を聞き他の仕事ですでに体力も頭もへとへとになっていた ものの勇躍してこの仕事に取り組んだ。

使用制限や料金値上げは、日本経済が身を縮めてオイル危機を 乗り越え、又電力会社を倒さず電力供給を続けるため必要不可欠 な仕事ではあるが、オイル危機という中東産油国の挑戦に対する いわば防御戦である。全力を挙げて成功しても、この電力危機を 担当した通産官僚としては満足できるものでなく、後世の後輩た ちはもとより国民に責を果たしたといわれるためには、この機に 応じ積極的な新しい政策手段を確立すべきだと思っていたので、 喜んでこの新しい仕事に取り組んだといえよう。

当然のことながら大蔵省は、目的税の新設には慎重であり、関 係各省も含め連日、特に 12 月 27 日、28 日には終日激しい議論 があったが、電源開発促進税を国税として 1kWH 当り 8 銭 5 厘を 需要家が負担すること、これを特別会計に入れ、発電所立地市町 村と隣接市町村に公共的施設の整備のため交付する。(その規模 は平年度 300 億、初年度 101 億円とする。)など骨子が 28 日夜ま でに決められ、翌 29 日の予算案決定の閣議に正に滑り込みで間

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に合った。実際の適用を考慮しつつ細目を一つ一つ決める話し合 いが行われたのは主計局田中次長、禿河主計官、関主査と岸田部 長、筆者、小野雅文開発課長というメンバーで確か 30 日の昼か ら夜にかけてのことだったと思う。

早速提出中の実体法である周辺地域整備法の修正法とともに 税法、特別会計法がなお各省と激しい議論の末まとめられ、3 月 はじめ国会に提出された。丁度前記料金改訂の問題とも重なり、 電気事業のあらゆる問題について特に法案反対の野党から真剣 な質問が集中した。これに対し政府側は通産省、大蔵省、科学技 術庁を中心に大臣、政務次官、政府委員、説明員一体となって答 弁に当たった。

6 月 3 日参議院の本会議で可決されたが、その前の商工委員会 にはエネルギー庁の全課長、通産省の他局も含む政府委員の全員 が出席して採決を見守る感動的な場面があった。

電源 3 法と呼ばれたこれ等の法律は 10 月 1 日から施行された が、その後の新電源の立地に寄与するところ大きかったと思う。 後年図らずも国策会社で全国的立地を進めていた電源開発株式 会社の社長に任命され、北は下北半島最北端の大間原子力発電所、 南は徳島県阿南市の大型石炭火力発電所をはじめ多くの発電所 の新規立地や増設のため走り回った筆者も、仕事の成功にこの制 度の存在が最大の支援となってくれたことを痛感した次第であ る。

(10)第一次石油危機の教訓は爾後、官民を問わず石油備蓄の大拡大、 代替エネルギー、新エネルギーの開発普及、省エネの実施等に生 かされ、(石油も商品の一つで市場原理で金さえ出せば入手でき るという考え方に戻り、これ等の政策にあまり前向きでない人が 多くなった時期もあったが。)これ等の対策の進展や当時に比し

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大幅な円高という好条件もあり、現在原油価格が 100$に、ガソ リンが 155 円に近づいている急激な価格変動に対しても日本は比 較的冷静に受け止めている様である。しかし、無資源国である点 は当時と全く変わらず、かつ、中国、インドをはじめ LDC 諸国 の油の需要の急増、地球温暖化問題等新しい難問も生まれている。 こうした中で日本国民にとってのエネルギー面での安全保障策 は今後も不断に検討強化さるべきものと思う。

(11)始めに書いたように今この第一次オイルショックに関し書かれ た本は本屋の店頭に皆無である。従って筆者は下記の昔出版され た少数の書物を参考とするとともに都立図書館にある日刊紙の 復刻版等を参照としたのだが、当時の大臣だった中曽根さんが 「海図のない航海」と題した回顧録の中で「私は通産省の最高責 任者として、この職員の努力に、そしてそれを支える家族の人々 全部に満腔の感謝をもって、その苦闘をここに特記したいと思っ たのである。」と書いている一節に、すでに早く鬼籍に入ってし まった山形長官、岸田部長をはじめ共に責任感に燃え、猛然と働 いた人々の面影をさまざまな感慨を持ちつつ想起している次第 である。

(注 1)参考とした本
○「狼がやってきた日」柳田邦男 文芸春秋社 昭和54年発行 ○「証言 第一次石油危機」日本電気協会 1991 年発行 ○「海図のない航海」中曽根康弘 日経 昭和50年発行

(注 2)昭和 47 年(オイルショック直前)の電源構成をみると全出力 7456 万 kW に対し石油火力は 4055 万 kW で、実に 54.4%を占めていた。

(注 3)第 1 次オイルショックは戦後高度成長期にあった日本経済が最初にぶつ

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かった危機であった。振り返れば戦後はじめて実質 GNP がマイナス(49 年は前年比△0.2%)となり、鉱工業生産指数も 50 年第 1 四半期には 48 年第 4 四半期に比し△18%となった。また不況の中物価も急上昇し、ピ ークに達した 49 年 2 月には前年同月比卸売物価で 35%、消費者物価で 30%の増となった。

(注 4)筆者の見聞録ということで最も近くで働いたエネルギー庁の人々のこと のみに触れたが、危機を乗り越えるため各電力会社等業界の方々や、ま た連日連夜顔を合わせた新聞社の方々も大変なご苦労をされたことに も付言しておきたい。(ただそんな中でも新聞の競争は激甚で、例えば 電力料金の値上げ率も小数点以下 2 桁までをどの社が先行報道をするか という競り合いもあった。)

第一次オイルショックを回顧する

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マッキンゼーが明かす「新規事業開発」のすべて、KPIや人材など「秘伝メソッド」公開


ルーブル美術館の公式サイト。無料で画像がダウンロードできる




A.S.L. リポート / A.S.L. REPORT


2024年4月12日金曜日

An announcement from the DOOPEES


DOOPEES からのご報告


永らく客室乗務員として勤務しておりましたが、

2024年4月1日より地上勤務へと移動することとなりました。

着任以降、お客様には多くのことを勉強させていただきました。

本当にありがとうございました。


暫くはマイルもたまっておりますので、

世界一周の旅に出ることにしました。


今後ともよろしくお願いいたします。


Dope on Dope And The DOOPEES

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An Announcement from the DOOPEES


After a long time working as flight attendants

we have been assigned to ground duty as of April 1, 2024.

We would like to take this opportunity to express our gratitude to all of you.

Thank you, you have taught us so much.


We have decided to travel around the world for a while

using the mileage we have earned.


We appreciate your continued support.



DOPE ON DOPE & THE DOOPEES


シバフルの委託製造先・セイエイ










  • 第67代理事長 岩木 勇人

CM

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今日は公務もなく、比較的ゆっくりと休日を過ごさせていただいています。平日はなかなかTVを見れないですが、久しぶりにぼーっとTVを付けていたら、NHKの、あの日 あのとき あの番組「世界が激変!IT革命~ジョブズが描いた“未来”~」という番組に見入ってしまいました。

スティーブ・ジョブズが亡くなったのが2011年10月5日、くしくも自身が心血を注いで開発してきた「Siri」を初めて搭載したiPhone4Sの発表日の翌日のこと。この時に制作されたNHKの番組が再編集され放送されていたわけです。

私には二つの大好きなCMがあります。その一つがスティーブ・ジョブズが倒産寸前のAppleに復帰した1997年のキャンペーン「Think different」で制作されたCM「The Crazy Ones」です。

クレージーな人たちがいる
反逆者、厄介者と呼ばれる人たち
四角い穴に丸い杭を打ち込むように
物事をまるで違う目で見る人たち
彼らは規則を嫌う 彼らは現状を肯定しない
彼らの言葉に心を打たれる人がいる
反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる
しかし 彼らを無視することは誰にも出来ない
なぜなら、彼らは物事を変えたからだ
彼らは人間を前進させた
彼らはクレージーと言われるが 私たちは天才だと思う
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが
本当に世界を変えているのだから。


もう一つはリクルートの企業CM「情報が人間を熱くする」です。1988年のリクルート事件発覚後すぐに打ち切られた幻のCMでもあります。

【ケネディ編】
その人には磁力があるのかもしれない
そこに存在するだけで人々は惹かれ 酔う
その人はやわらかい磁石なんだ
ひきつける力 切り開くエネルギー
いつの時代も情報が人間を熱くしてきたと思う

【アポロ計画編】
いつも人々はテクノロジーという武器と
想像力という勇気で出発していく。
見えない部分を見たい 聞こえないものを聞きたい
思い果てしなく
いつの時代も情報が人間を熱くしてきたと思う


どちらのCMも心を熱くさせてくれます。少し元気がなくなった時、ふと見てしまいます。また、多様性がいかに大切かを感じさせてくれるCMです。私がこれ以上解説すると安っぽくなってしまうので、興味ある方は是非動画をご覧ください。※リクルートのCMはうまく表示されないかもしれません。他のYouTubeで探してもイーグルスのデスペラードがBGMの原版がなかなか探し出せませんでした。









福岡県宗像市に、築150年の古民家をリノベーションしたフレンチオーベルジュ「オーベルジュ キャトルセゾン宗像」が2024年1月15日にオープン

ローカルツーリズム株式会社はフレンチレストラン「キャトルセゾン宗像」と共に2024年1月15日に福岡県宗像市赤間で古民家フレンチオーベルジュ「オーベルジュ キャトルセゾン宗像」をオープンいたしました。

ローカルツーリズム

2024年1月11日 09時00分

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~宗像の恵みを贅沢に~
歴史ある古民家で織りなす、
大事な人との特別なフレンチのひとときを


地域創生事業を手掛けるローカルツーリズム株式会社は、2024年1月15日に福岡県宗像市赤間に、フレンチレストラン「les quatre saisons munakata(キャトルセゾン宗像)」と提携し、大事な人と特別な時間を体験していただけるフレンチの古民家オーベルジュ「オーベルジュ キャトルセゾン宗像」をオープンいたしました。


ローカルツーリズムが宗像市で手掛ける宿泊施設としては、離島の「神守る島」大島に2019年にオープンした1日1組限定の宿「VILLA MINAWA」に続く2件目の宿泊施設となります。

※オーベルジュとは地方や郊外にある宿泊施設を備えたレストランのこと。料理を楽しむことを滞在のメインとしているオーベルジュは、その土地ならではの食材を使用した本格的な料理が最大の魅力です。


●Maisha - 林直人氏の古民家とギャラリー

この古民家は、地元の老舗酒造「勝屋酒造」の創業の地であり、150年の歴史を誇ります。

古民家のオーナーである林直人氏はかつて青年海外協力隊として訪れたタンザニアで知った、日本のゴーギャンとも言われる画家「水野富美夫」の作品に魅せられ、100点以上のコレクションを保有しております。その作品をギャラリーとして展示できる場所を探しているときに、偶然この古民家に出会いました。


朽ち果てた古民家や蔵に大幅に手を加えて、古民家群をMaisha(スワヒリ語で「暮らし」)と名付け、2023年に正式にオープンいたしました。私たちのオーベルジュにも水野富美夫の作品が飾られています。


●フレンチオーベルジュの誕生

赤間の人気フレンチレストラン「夢季家(ゆきや)」を経営していた上村秀字シェフが、新店舗の場所を探していた際に、たまたま林直人氏から声をかけられ、この地に興味を持ったことがきっかけとなり、上村シェフは、フレンチレストラン「キャトルセゾン 宗像」、地鶏焼き「sumiya 菜恵の麓」、カフェ「琥珀と車輪」の3店舗をこの地に同時オープンさせました。


当社は、2019年から宗像市の離島である大島で、1日1組限定の宿「VILLA MINAWA」(https://minawa.jp/) を運営しており、上村シェフがこの古民家でフレンチレストランをオープンすることを聞き、代表自ら上村シェフにフレンチオーベルジュの提案をさせていただきました。


そして、宗像の価値を上げるためにできることを模索する両者の想いが合致し、「オーベルジュ キャトルセゾン宗像」が誕生いたしました。


●上村秀字シェフの想い

私たちが、上村シェフと一緒にオーベルジュを始めたいと思ったきっかけの一つに、上村シェフが宗像がもつ素晴らしい価値を料理という切り口から高めていきたいという想いをお持ちであることがありました。


上村シェフは次のように語ります。


「新しいことにチャレンジして宗像の農産物、海産物はもちろん、宗像の人や土地の価値を高めたい。飲食店がいい料理を作れば自然と宗像の価値も高まるし、食材にも誇りが持てるようになるのでは。料理を通じてどこまで宗像の食材のポテンシャルを引き出せるかが目標です。」


私たちも2019年から宗像市の離島大島で地域事業を通じ、地域の価値向上を目指して活動を続けてきたこともあり、上村シェフの思いに大きく共感をしました。


●大事な人との特別なひとときのために

オーベルジュ キャトル・セゾン・宗像では、ご家族での団欒、記念日の素敵な思い出、お友達同士での楽しいひとときのために、春夏秋冬それぞれの季節の最高の食材を厳選したお料理を提供させていただきます。


オーベルジュのプランはフレンチのグレードによって3プランをご用意しております。


シェフのおまかせ「本格」フレンチフルコース(宿泊料込/朝食・夕食付)43,900円(税込)

シェフのおまかせ「贅沢」フレンチフルコース(宿泊料込/朝食・夕食付)48,900円(税込)

シェフのおまかせ「特別」フレンチフルコース(宿泊料込/朝食・夕食付)59,900円(税込)

※ワインは別途料金となります。

※ワインのペアリングもお選びいただけます。

※連泊の場合は、2日目から朝食のみの宿泊プランをお選びいただけます。



その日の最高の食材を仕入れるために毎日変わる料理は、宗像の新鮮な食材を贅沢に使用しております。心も満たされる至福の時間をお過ごしください。

●こだわりのアメニティ

また、お部屋はこだわり抜いたアンテーク家具や、イケウチオーガニックのタオル、自然環境に配慮したタイのナチュラルスキンケアブランド「THANN」のバスアメニティなど、上質なアメニティをご用意させていただきました。


お料理だけではなく、お部屋でお過ごしいただく時間も楽しんでいただける素敵なものとなるように、スタッフ一同でお迎えさせていただきます。


●お子様も大歓迎です

フレンチレストランは通常ですと、お子様はNGとなる場合がほとんどかと思いますが、当オーベルジュは、お子様連れでのお食事も大歓迎です。お部屋にはベビーベットの用意もございます。


6歳までのお子様については、スープやチキンステーキ、パン、サラダなどのお子様用メニューをお出しさせていただきます。


●麓寿泉(ロクジュセン)を使用した特別な体験

オーベルジュは、勝屋酒造の創業地であり、戦国時代に宗像家の山城があった城山の麓に湧く泉「麓寿泉」の名水を使用しています。この水を用いた料理や飲み物は、古き良き時代の風情と味わい深さをお届けいたします。


また、お庭に薪だきの五右衛門風呂をご用意しております。古き良き日本の風情を感じながら、贅沢なひとときをお過ごしください。

●オーベルジュのご予約について

オーベルジュの公式サイトよりご予約いただけます。

https://www.chillnn.com/18c4d91e8becc


【運営会社概要】

■会社名

ローカルツーリズム株式会社


■代表取締役

糀屋総一朗


■設立

2021年


■業務内容

1. 地域名産品開発、観光・アクティビティの開発、料理メニューの開発、スタイリング

2. エリアリノベーションファンドによる地域への投資

3. 人材教育の支援・事業を起こせる人材(ローカルエリートの育成)

4. コンサルティング・地域の経済循環のデータ分析、宿泊施設・飲食業などの事業設計

5. アートファンドΩ事業部によるアーティスト支援活動


■ホームページ

https://localtourism.jp


■運営メディア 「ローカルツーリズムマガジン」

https://note.com/localtourism


■問い合わせ先

info@cfac.co.jp (担当;糀屋)







僕は世界で一番、権威や権力のないCEOになりたい

[インタビュー] リーダーの仕事は失敗の総量をマネジメントすること

by 出木場 久征

2024年5月号

リーダーの思考法

サマリー:リクルートホールディングスのCEOを務める出木場久征氏は、これまでに数々の事業変革を牽引してきた。米国インディードの買収を主導したことでも知られ、この出来事はリクルートグループのさらなる成長をもたらし、その後のグローバル化を推進する原動力となった。類い稀なリーダーシップを発揮してきた出木場氏が、理想とするリーダー像は何か。その実現に向けて、どのようなマネジメントを実践してきたのか。本インタビューでは、同氏のリーダーシップ哲学が語られる。 閉じる

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2023年4月3日以前に定期購読へのお申し込みをされた方は、こちらをご参照ください。

情熱を注いでいる人が自分で決めるからこそ
圧倒的によいものになる

編集部(以下色文字):出木場さんは米国インディードの買収を主導されるなど、リクルートホールディングスの成長に貢献する数々の革新的な取り組みを牽引してきました。さまざまな局面でリーダーシップを発揮されてきたと思いますが、ご自身が理想とするリーダー像はありますか。

出木場(以下略):僕は世界で一番、権威や権力のないCEOになりたいと思っています。

 最終的に物事を決められる立場ではありますが、自分はほかの人より偉いわけでも賢いわけでもなく、CEOという係を務めているにすぎません。また、自分には本当にできないことばかりです。それなのに権威や権力を利用して指示を出し、自分の言った通りに動けているか監視したり、ましてや責任だけを押しつけたりすれば、それをされた人たちはつらくなるだけだと思いませんか。

 僕はたまたま規模の大きな会社で働き、自分に欠けている部分を埋めてくれる人たちがいる中で、ビジネスをつくることがたまたま得意だったからCEOを担当しているだけで、営業や人事など別の分野では僕よりも優れた成果を上げられる人がたくさんいます。日本でも米国でも「権限を委譲するので、あなたに決めてもらいたい」と言ってきましたが、生兵法は大怪我のもとというように、自分のできないことにできるふりをして手を出すよりも、最初から得意な人にお願いしたほうがよいと思っています。

 理想は、誰からも相談すらされない状況になることです。僕がその場で思いつく意見に、ほとんど価値はありません。でも、相談されたらつい何か言いたくなってしまうので、できるだけ聞かないでほしい。「オフィスをリニューアルするからデザインを確認してほしい」と言われたら、「ここの色は明るいほうがいいかもしれないね」と伝えてしまうかもしれませんが、思い付きで動かされた人たちは楽しくありませんよね。

 リクルートホールディングスが大切にしている価値観の一つに「個の尊重」(Bet on Passion)がありますが、組織として最も大切なのは、この会社で働く人たちが日々、自分の仕事に情熱を注げる環境をつくることだと思っています。目の前の仕事と真剣に向き合い、パッションを持って取り組んでいる人が決めるからこそ、圧倒的によいものができます。僕は特にコストを抑えようとしがちで、自分の感覚で「あれもいらない、これもいらない」とやっていたら、プロダクトの質を高める機会を奪ってしまうかもしれません。社員からノベルティを見せてもらった時、「格好いいけど、いくらかかったの」と尋ねてしまったことがあり、あんなつまらない質問をすべきでなかったと反省しました。

 自分もそうですが、リクルートという会社のために生まれてきた人間は一人もいません。僕が入社した理由は、ビジネスの修業ができそうだと思ったからです。そして、3年で辞めると決めていた自分がいまも働き続けているのは、この会社には人材を含めて長年積み上げてきた豊富な資産があり、顧客やユーザーがたくさんいて、自分がやりたいと思い、社会にインパクトを与えるような価値創造を実行できているからです。

 僕自身がリクルートホールディングスで好きなことと向き合い続けてきたので、みんなにも好きなことをやってほしいという気持ちを持っています。

 米国では強いリーダーが好まれる印象があります。出木場さんは2012年のインディード買収後、米国に拠点を移し、現地で指揮を執り続けていますが、権威や権力をみずから放棄するようなリーダーシップスタイルは馴染まないのではありませんか。

 たしかに、米国では「俺が君たちのリーダーだ」と強引に引っ張るスタイルが王道かもしれません。ただ、それは自分のスタイルではありませんし、特に米国に行ったばかりの頃は英語をまったく話せませんでした。一生懸命努力しましたが、もちろん急に話せるようにはならず、たどたどしく「俺はこうやっていくからな」と虚勢を張ったところで、威厳が生まれるはずもありません。

 その頃、インディードのPRを担当していた社員から、「出木場さんは英語が絶望的に下手だから、『スター・ウォーズ』のヨーダみたいに話せばいいと思いますよ」というアドバイスをもらい、『スター・ウォーズ』の英語版を観てみたら、ヨーダは不思議な文法の英語をゆっくりと話しているのに、なぜか存在感がありました。それからは英語を流暢には話せない状況で工夫できることを考えて、自分なりのスタイルでやっていこうと決めました。

 ただ、そうはいっても僕に何ができるか、そもそも何かできる人間なのかもわからないので、誰も声をかけてくれません。会議などの場でも、片言では英語の議論をリードすることができず、日本のように「最後に社長から一言」というお膳立てもされないので、チャンスを見つけて話し出し、みんなが納得するようなことを言い続けるしかありませんでした。日本でのインターネットビジネスの経験から得た気づきを共有するなど、機会が限られる中で「この人の話は聞く価値がある」と思われるように結果を出しながら、信頼を少しずつ積み上げていきました。

 僕のリーダーシップスタイルは、弱者の戦略です。自分一人の力で何でもでき、理路整然と話せて、英語が得意だったら、別のスタイルになっていたかもしれません。

 出木場さんには権威や権力を誇示するつもりがなくても、周囲が必要以上に配慮するようなことはありませんか。

 それはあると思います。自分のことをよく知っている人たちからすると、僕は当たり前のことすらできない人間ですが、日本にいた最後の頃、「出木場さんもこんなミスをするのですね」と言われ、そのように思われていたのかと驚きました。米国に拠点を移してからはなおさら、日本でどれだけ気を使われていたかを実感しています。

 米国に移ったばかりの頃は、お手並み拝見の状態です。何か始めようとすれば、自分が試されている雰囲気を強烈に感じ、周囲の期待を超えていく中で、徐々に見る目が変わってきました。あの頃は期待を圧倒的に超えてやるという気持ちで臨んでいましたが、いまはそこまでの成果を上げなくてもほめてもらえる環境になり、それを受け入れている可能性はあります。もしかしたら、すでに日本にいた時と似たような状態になっているのかもしれません。「後からノーと言われるリスクがあるので、事前に意見を聞いておこう」という空気さえ感じることもあり、それは危険だと思います。

 ただ、僕自身が日々迷いながら判断し、間違い続けている間は、まだ大丈夫なのかもしれません。自分が正しいから従うべきだと考え始めたら危ういですが、「やってみなければわからないけど、やってみようよ」と言いながら物事を進められているうちは、どうにかやっていけるかもしれないと思っています。

PHOTOGRAPHER AIKO SUZUKI


組織やチームの目的はシンプルであるほどよい

 リーダーの役割の一つに、組織やチームの適切な目的を設定し、共有することが挙げられます。この点に関して、出木場さんが意識していることがあれば教えてください。

 リクルートが大切にしている価値観に「新しい価値の創造」(Wow the World)もありますが、その実現を目指すうえで、目的はシンプルであるほどよいと思います。僕は日本で一緒に仕事をしたチームに「おいしい素うどんをつくろう」と伝えていました。売上げや利益をどのように上げるか、単価をいくらに設定すべきかなどを考える前に、そもそも出汁が効いて麺がおいしいうどんをつくれなければ何も始まりません。

 そして、目的を達成するために、自分たちの置かれている状況を理解してもらうことが大事だと思います。僕が担当してきた事業は追い詰められていたものばかりで、業界の市場シェアがトップのチームに入ったことはありませんでした。負け組なのでやるべきことはわかりやすく、事業がどうすれば伸びるかを常に考えます。一方、余裕のあるチームほど何をやるべきかを見失いやすく、それほど重要でない議論に時間を費やしているように見えました。

 たとえばサッカーの場合、相手より1点でも多く点を取り、試合に勝利することが目的です。全国大会の準決勝で自分たちのチームが0対1で負けていて、試合の残り時間が10分なら、誰かが指示を出さなくても、最も点を取れそうな選手に自然とパスを集めるはずです。でも、スコアや残り時間がわからなくなれば、試合に勝つという目的が忘れられてしまい、「あの選手は10回パスをもらっているのに、自分は3回だけなのは不公平だ」と言い始める人が出てくるかもしれません。

 組織やチームの目的は何か。いまどのような状態で、これから何をやろうとしているか。目的を達成した先に何が起きるか。これらを共有すれば、リーダーが細かく指示を出したり、管理したりする必要はなく、自分にできることをやってくれると思っています。

 指示や管理は最小限に抑える中で、これはやってはいけないというルールはありますか。

 明確なルールはありませんが、海外の経営陣を中心に「驚かせないでほしい」ということだけは共有しています。「事前に確認したい、承認したいという気持ちはないから、自分たちでどんどん決めてもらいたい。ただし、何か困った出来事が起きたら隠さないで言ってほしい」と伝えています。みんなも「それはシンプルだね」と理解を示してくれました。

 たとえば、年度内に1000億円という売上目標を立て、実際に始めてみたら絶対に達成できないと気づいたのに、最後の最後で「実は100億円にも届きません」となれば、僕自身も驚きますし、僕がリクルートホールディングスの取締役会に報告した時も驚かせてしまいます。問題が深刻化するまで共有されなければ、解決策は限られます。でも、問題が起きた時点で話をしてもらえれば、さまざまな解決策を一緒に考えることができます。

 僕自身が間違いばかり起こしているのでよくわかりますが、誰もわざと間違いを起こそうと思っているわけではありません。ましてや、難しい挑戦であるほど事前に想定できるリスクは限られ、うまくいかないことが山ほど出てきます。その時は正直に言ってもらうほうがよく、長期的な信頼関係を築くためにも、驚かせないことは大切だと思います。

 インディードを買収した時、「日本のリクルートのために働く必要はない」と伝えたそうですね。親会社であるリクルートホールディングスのミッションが上位に来るべきという考え方もできそうですが、なぜそれをやらなかったのでしょうか。

 どちらが上か下かという難しいことは考えていませんでした。「リクルートホールディングスのミッションはこれ、だからインディードではこういうことが大事で、あなたはこれを考えて仕事をしてください」という言い方もできるかもしれませんが、それはインディードで働く人たちが本当に理解しておかなければならない情報なのかなと思いました。それよりも「インディードのミッションの実現に集中しよう」と言われたほうがシンプルで、動きやすいですよね。

 何を伝えるかという情報の質はもちろん重要ですが、情報には適度な量もあります。特にビジネスをデザインする時、情報の足し算よりも圧倒的に引き算が大切です。朝起きてから夜寝るまでの間に、「今日は『人々の仕事探しのお手伝いをする』ために何をしようか」と集中できたほうが働きやすいですし、より優れたプロダクトをつくれるようになると思っています。

 日々の運営では基本的に、自分の手元にある情報をできるだけ隠さず伝えるようにしています。不満の要因を探ると、情報量の違いが原因になっていることがよくあるからです。情報格差を利用したマネジメントをする人もいますが、僕はそれをやるつもりがなく、同じ情報を共有すれば自分以上の答えを出してくれると信じているので、情報量のギャップが小さくなるようなコミュニケーションを心がけています。

 出木場さんが積極的に情報を共有したとしても、その下にいる人たちが意図的に伝達しないというケースもありませんか。

 それはあるかもしれません。ただ、ほとんどの場合に悪気はなく、チームのためを思ってやっていることも理解できるので、そこには難しさを感じています。

 特に米国に行ったばかりの頃、自分の話がうまく伝達されない時期がありました。どうすれば他人に伝えたくなる話ができるのかと考え、スタンドアップコメディの動画を徹底的に研究して気づいたのですが、当時は聞き手の頭の中で絵が動くような伝え方をできていませんでした。「おいしい素うどん」と言われた時、日本人ならそれぞれのうどんの絵が動きませんか。「ヨーダみたいな話し方」というアドバイスが印象的で、僕がこの場で話しているのは、『スター・ウォーズ』を一度でも観たことがある人の頭の中で瞬時に絵が動くからです。これを意識するようになってから、自分の共有した情報が伝わっていきやすくなりました。

 最初の話につながりますが、権威や権力で人を動かそうとするということは、伝えようとする工夫を諦めているのだと思います。自分の話を聞いた人たちが、情報をどのように共有してくれるかまでデザインして、頭の中で絵が動くよう具体的に、できるだけシンプルに伝えることが大事だと考えています。

失敗させないのではなく
失敗の総量をマネジメントする

 出木場さんは、失敗を奨励し、そこから学習する重要性を語られてきました。失敗することにどのような価値があるのでしょうか。

 僕たちは、新しい価値を世の中に届けることを目指す会社で、新たなビジネスモデルをつくり出そうとしています。負けの許されない一発勝負ばかりの状況で、それを実現することはできません。思い切った挑戦をして、失敗から学び、自分たちが常に成長し続けていかないと、過去と似たようなビジネスを繰り返すことになります。

 同じビジネスを続けるなら、そのモデルにおける勝ちパターンを洗練させていけば勝てます。しかし、僕たちが展開しているインターネットビジネスの場合、ゲームチェンジが頻繁に起こります。新しいモデルがどんどん生まれ、すぐに書き換えられていくので、あるモデルを前提に事業を洗練させていったとしても、勝てる保証はどこにもありません。そのような環境で新しい価値を創造し続けるためには、失敗と学習と成長を繰り返すしかないと思います。

 僕自身がいろいろな失敗をしてきたので、その経験をもとにアドバイスしたくなってしまうこともあります。でも、僕が助言するほどつまらないものになりますし、そもそも自分が新しいゲームのルールを理解できているとは限りません。イノベーションの現場のより近くにいる人たちのほうが理解は深く、彼ら自身が判断すればもっとよいプロダクトができますから、できるだけ口は挟まないようにしています。

 リーダーとして失敗を奨励することと、責任を放棄することは違うと思いますが、どのような責務を果たせばよいのですか。

 リーダーの仕事は、失敗させないことではなく、失敗の仕方をコントロールして、失敗の総量をマネジメントすることだと思います。

 子どもに自転車の乗り方を教える時、漕ぎ方をどれだけていねいに伝えてもできるようにはなりません。実際に乗り、転び、なぜ転んだか考えてまた挑戦するという経験を積ませる必要があります。ただ、転ぶ経験を公園の中でさせるか、それとも国道の横でさせるかには大きな違いがあります。公園の中で転べば、すり傷はたくさんできるかもしれませんが、適切な処置をすれば治ります。でも、車がたくさん走る道の横で一度でも転んだら、命に関わる大怪我をする可能性があります。

 個人もチームも実際に失敗してみなければ成長できませんが、チームのリーダーやその上にいる人たちは、自分たちが収拾できない事態を回避するために、失敗の総量をマネジメントすることが大切だと思っています。

 リーダーが失敗の総量をマネジメントするためには、どのような失敗をする可能性があるか、具体的にシミュレーションできている必要がありそうです。

 僕は最悪の事態を想定して動くタイプなので、自分が新しいことを始める時も、チームが何かに挑戦する時も、失敗した場合の対応についてはかなり綿密に考えています。プランBやプランCという言葉をよく使いますが、失敗した時に何をすべきかを考えている時間がほとんどかもしれません。

 チームのメンバーがそこまで悲観的に考える必要はありません。やると決めたら、思い切って挑戦してもらいたいです。一方で、チームのリーダーやその上にいる人たちは、失敗した場合にどうすべきかまで考えておく必要があると思います。『孫子の兵法』に「必死は殺さるべきなり」とあるように、決死の覚悟だけ見せて最終的に殺されてしまうのであれば、役目を果たしたとはいえません。リーダーが「こうなるとは思わなかった」と言うのは、格好悪いですよね。

 ほぼ確実に失敗するとわかっている状況でも、あえて失敗させるのでしょうか。

 僕の経験から、そのやり方ではうまくいく可能性が低いと思うこともあります。それでも、そこに情熱があるなら、挑戦を止めるより失敗してもらうほうがよいと思っています。

 他人の経験を頭で理解しても得られるものはほとんどなく、経験してみなければ何も獲得できません。自分の子どもにスノーボードをさせようとした時、動画を見ただけで滑れるような気分になっていましたが、あれほど感覚的な動きを見ただけで身につけることは不可能です。スポーツは実際に体を動かすので、簡単には再現できないことをすぐに理解できます。でも、それがビジネスになると、成功者の本を読んだり、動画を見たり、話を聞いたりするだけで、自分も同じことができる気持ちになる人が多いのは不思議でした。誰かが成功したやり方を完璧に再現することはできませんし、仮に再現できたとしても、自分の会社でうまくいくことはごく稀だと思います。

 僕の中では失敗するという確証があり、その理由を説明して、チームのメンバーが納得してやめたとしても、それにどのような価値があるのかなと考えてしまいます。それよりも、失敗の総量をマネジメントすることで最悪の事態は防ぎつつ、失敗したという経験を通して成長してもらうことのほうが、最終的に大きな価値につながると思います。

もっとわがままに生きて
情熱を注げる仕事を見つけてもらいたい

 インターネット業界は事業環境の変化が特に激しく、コロナ禍の中では世界中の大手テック企業がレイオフを実行し、インディードも例外ではありませんでした。厳しい状況でも適切な判断を下すために、リーダーとして心がけていることはありますか。

 その時々の最善を尽くすということに尽きます。「何が正しいか」という議論になると結論は出ないので、個人にとって、組織にとって、社会にとって、それがベストだと信じたことをやるしかありません。自分たちはこうやると決めて、前進する。間違うことはたくさんありますし、批判されることもありますが、本当の成否は後にならなければわからないので、自分たちを信じて決断し、挑戦し続けるしかないと思っています。

 僕の実家は瓦屋で、父親は家業を継いでいました。瓦屋の仕事はとても過酷です。雨が降っても、どんなに寒くても、屋根の上に上り続けなければならない。父はよく「立っていると寝転がりたくなり、寝転がると足を上げたくなる。だから、瓦屋は寝転がっちゃいけない」と言っていました。子どもの頃は、その言葉の意味がよくわからなかったのですが、自分も働き始めてから少し理解できるようになりました。

 僕自身、面倒だな、楽をしたいなという気持ちはあります。でも、寝転んで、足まで上げてしまうと、もう一度足をつけて立ち上がろうとするのは難しい。常に臨戦態勢でいるべきとは言いませんが、厳しい状況を少しでもよくできるような選択をするために、準備をしておくことは大切だと思います。

 リクルートは人材輩出企業といわれ、社内だけでなく、社外でも数々のリーダーが活躍しています。これからも優れたリーダーを育てていくために、何が必要だと思いますか。

 難しいことはわかりませんが、やはり自分が情熱を注げる仕事を見つけてもらうことが重要なのかなと思います。「偉くなりたい」「すごい人間だと認められたい」という動機でリーダーのポジションに就いたとしても、「世の中のために、チームのために、自分はこれをやりたい」という個人の情熱と仕事の内容がマッチングしていなければ苦しくなり、僕なら3日で飽きてしまいそうです。

 リクルートには「Will-Can-Must」という独自のミッションマネジメントの仕組みがありますが、自分がやりたいこと、自分にできること、自分のやるべきことがつながらずに、周囲の評価を頼りに生きていたら、特に人生の後半になるほど楽しめなくなります。40代、50代と年齢を重ねていくと、そのギャップを意識するような場面が増えてくるのではないでしょうか。未来のリーダーたちは、自分の情熱を注げる仕事を見つけて、向き合い続けることが大切だと思っています。

 最初にも言いましたが、僕たちはリクルートのために生まれてきたわけではありません。この会社でいろいろなことに挑戦し、失敗して、ここではできないことが見つかれば辞めるという選択肢もあります。世の中に新たな価値を生み出す人が増えることは大歓迎です。

 自分の情熱を注げる仕事を見つけられるように、みんなもっとわがままに生きてかまわないと思います。僕の役割は、それができる環境をつくることだと考えています。

※本インタビューは『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2024年5月号に掲載。

(C)2024 Diamond, Inc.

PHOTOGRAPHER AIKO SUZUKI


出木場 久征(いでこば・ひさゆき)
1999年、リクルート(現リクルートホールディングス)入社。『じゃらん』や『Hot Pepper Beauty』をはじめ、数々の情報誌のデジタルシフトを牽引。2012年に同社執行役員就任後、同年、自身が買収を推進した米国インディードのチェアマンに就任。インディードCEO兼プレジデントを経て、2016年よりリクルートホールディングス常務執行役員、2018年より同社専務執行役員としてHRテクノロジー事業を飛躍的に成長させ、リクルートグループのグローバル化を強力に推進。2019年にリクルートホールディングス取締役就任、2020年より同社副社長執行役員を兼任し、ファイナンス本部、事業本部(COO)を担当。2021年より現職。















2020.06.5

「若い世代しかやれない事業を選ぶ」若さを強みにする事業選定の考え方 #起業家1年目の教科書

起業前後には、創業メンバー集め、事業選定、資金調達について相談出来る相手もなかなかおらず、悩みが尽きることはありません。「起業家1年目の教科書」では、創業期の起業家から多数出た質問を元に、現役で活躍する様々な若手起業家から生の声をいただいています。
今回は、ファッションを軸にメディアやECプラットフォーム運営するPATRAの海鋒氏に、「起業家1年目の教科書」インタビューとして語っていただきました。

目次

  1. 【事業選定の方法】「若さ」が強みになる、事業の選び方

  2. 【創業メンバーの見つけ方】自分の弱い点を知り、オープンに伝える

  3. 【創業期に気づけて良かったこと】経営は長期戦。役員報酬は十分に確保しよう

  4. 【起業家一年目の教科書】起業家にすすめる3つのこと

  5. 【Message】WITH COVID-19 これから起業する人達へ

海鋒 健太(かいほこ・けんた)| 1991年生まれ。株式会社PATRA、代表取締役社長。東京大学工学部システム創成学科卒業後、フリーランスのエンジニアとして活動。16年にPATRAを開始。女性向けメディア・ファッションコマースのプラットフォーム「PATRA MARKET」を運営。運用するInstagramの総フォロワー数は75万を越え、リピーターが続出するEC事業を支えている。
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【1.事業選定の方法】「若さ」が強みになる、事業の選び方

海鋒 健太氏:「自分自身が事業領域に合うか?」「トレンドの波が来るか?」という点を意識して事業領域を選びました。
「自分自身が事業領域に合うか?」という点では、若さを強みにした事業を探すことを軸にしていました。「若いからこそできる事業とは何か?」と考え続け、C向けサービスで戦うことにしました。
C向けプロダクトはトレンドをいかに早くキャッチするかで勝負が決まります。C向けプロダクトで特にスマホネイティブの若い世代をターゲットにしたプロダクトの場合、自分たちのような若いチームの方がニーズやトレンドを早くキャッチできると思いました。。一方、BtoB領域のスタートアップは経験の多さや人脈が勝負を決めると考えていました。
そのような、「若さ」が強みになるという観点からたどり着いたキーワードが「インフルエンサー」でした。
インフルエンサーは、基本的に10〜20代が多いです。年の離れた方からアプローチするよりも、近い世代の僕らがアプローチした方が、コミュニケーションをとりやすいですよね。この優位性を生かして、インフルエンサーを活用したSNSでのメディア事業に取り組みはじめました。
「トレンドの波が来るか?」という点で話すと、起業した頃、業界では「動画の時代が来る!」と言われていました。動画の可能性への期待値は高かったので、動画×若者という領域にターゲットを定めインスタグラムを中心とした動画事業を開始しました。
しかし、インスタグラムの動画メディア事業に注力する中で、マネタイズの方法に限界を感じはじめました。動画メディアのマネタイズ手段として、広告枠を売るという選択肢は一般的です。しかし、実際に広告営業をはじめてみるとマネタイズの方向性が最終的には「BtoB」になってしまい、このビジネスモデルは「自分に向いていないな…」と感じたんです。
その違和感をきっかけに、すでに自分たちが運営しているインスタグラムのメディアを活用して展開できる新しいマネタイズを考えた結果、小売に目を向けることになったのです。当時のインスタグラムは、ストーリーもありませんでしたし、一般的にはインスタグラムから購買に直接結びつくなど、全く考えられていなかったのもチャンスだったんです。
当時のf1層(女子高生〜大学生あたりの世代)の間では、キュレーションメディアが主流でしたが、インスタグラムを「検索ツール」として使いこなす人たちもいました。これからの時代の情報源は「検索エンジン」 ではなく、SNSに変わる可能性が高い、という実感も湧いていました。
このような変遷で現在の事業に至ります。

【2.創業メンバーの見つけ方】自分の弱い点を知り、オープンに伝える

海鋒 健太氏:C向けの領域で事業を作るには、1人ではほぼ不可能でした。僕は、システムをつくったりオペレーションを構築するのは得意ですが、ゼロから企画を考えたり、コンテンツをつくったりする部分が弱いんですよ。
ゼロから事業を立ち上げる時、自分の弱さを補ってくれるような強力なパートナーが必要でした。そう思っていた時に、インターンで共同創業者の鈴木に知り合いました。
COOの鈴木は企画を考えたり、コンテンツを考えたりするクリエイティブ的な能力が非常に高いんです。鈴木と出会えて、事業を一緒にやっているというのは、奇跡に近いことなので、再現性があるかと言われれば、難しい話ではありますがね…。
互いに得意な領域がはっきり分かれているので、うまく仲間ができています。簡単に言えば、僕が全体の仕組みをつくり鈴木が中身を丁寧に作り上げているというイメージですね。
自分の強みを理解するだけでなく、弱みを認めた上で、自分の得意・不得意をオープンに伝えながら仲間を集めるというスタンスがあると、強いチームができる可能性が高くなると思います。

【3.創業期に気づけて良かったこと】経営は長期戦。役員報酬は十分に確保しよう

海鋒 健太氏:特に、経営陣の役員報酬です。資金・経営への不安から役員報酬を減らす人も少なくないです。意思決定をするはずの役員が安定して生活できるだけの役員報酬をもらっていないと、目先のお金に惑わされて、事業の本質から逸れた意思決定をする可能性が高くなります。
最低でも、7-8年は戦います。だからこそ、長期戦を見込んだ報酬を考えることは、事業の成長のためにも大事なことです。
長期的な成長にはマイナスな影響があっても一時的な利益を生むような案件になびいたりする可能性があるんですよ。
安定して、本事業の成長にとって必要な意思決定をするためには、ある程度の役員報酬は必要なのです。はじめから、年収1000万くらい確保した方がいいという訳ではないです。「ある程度の」というのは、あくまで目安ですが、仮にそのまま新卒で就職していれば、頂いていたであろう程度の額かなと思います。

【4.起業家一年目の教科書】起業家にすすめる3つのこと

1) 「続けられること」を選ぶ

海鋒 健太氏:自分の事業をもって経営するために一番大事なことは続けることです。上手くいっている起業家でも、我慢の時期が長い人が多いです。思い通りにいかない時でも続ける意思を持ち続けるためには、やはり「続けられる」と自分が納得する必要があります。
続けられることを選ぶためにも「続けるべきことと辞めるべきこと」をはっきり定義した方が良いです。
僕の場合は、

  1. ・C向けの事業でやっていくこと

  2. ・若い世代にしかできないこと

  3. ・自分が好きだと思えるサービスをつくること

の3つが軸でした。仮に、ピボットしてそれまでの事業から最大限の学びを得るためにも「やりたくないこと」を明確にして、自分の軸を決めることは大切です。この軸が決まっていないとメンバーも集まらないですし、外部の意見に振り回されやすくなります。

2) 他人の言うことに耳を傾けすぎない

海鋒 健太氏:立ち上げる事業領域が決まったら、誰よりもその領域に詳しいと言えるほどに調べて理解する。そして、どんな反論に対しても自信を持って自分の考えを言い通すこと。これに尽きます。
投資家も仕事として、会社に投資をしています。批判的な意見をもらうことは当たり前です。投資家側も、事業を成功させたいという思いあっての意見だと思います。けれども、この世の中に「絶対に成功する事業」は誰にもわからないのが現実です。
だからこそ、競合他社について調査して、投資家などの反論に対してもしっかりと自信を持って自分の考えを説明することが大切かと思います。
徹底的な調査に加えて、ユーザーと真摯に向き合い続けること。それこそがさらなる自信になると考えてます。
自社と他社の十分な分析をもとに、自分の考えを固めれば自信を持っていいはずです。他者の意見に耳を傾けすぎないように心がけることは大事だと思います。

3) 自分よりも一歩先にいる人との時間を意識的に増やす

海鋒 健太氏:1日24時間あったら、基本的に従業員との時間が一番長くなります。その社内にいる以外の時間をどう過ごすかで、自分の感覚やモチベーションの方向が決まります。プライベートで仲良くしている人が、自分がいる位置よりも一歩前進しそうな時は、すごく焦ります。近い領域で頑張っていて、起業家として戦う友達は大切だと思っています。仲良くしている友達の一言で、視座がガンっと上げられたことがあって。
経営者として新しい価値観に気づかせてくれる友人は良い影響を与えてくれますし、プライベートで誰と会っているのか見直す時間もたまには必要だと思います。


WITH COVID-19 時代に起業する人達へ

海鋒 健太氏:コロナのようなマクロの大きな変化が起きても会社の本質がブレないようなビジョンや信念を持ちつつ、柔軟にプランBに移行できる組織と経営者の心のゆとりが大事かと思います!そのためにも、PLだけではなくBSにも目を向け数値計画を立てていく。PL、BS、キャッシュフローという基本を今だからこそ忘れないで勝ちましょう!

さいごに:起業、資金調達、シードラウンドでの相談 | シード投資家「THE SEED」

起業、資金調達、その他スタートアップで働いてみたいなどのご相談は下記までご連絡いただけますと幸いです。ご連絡いただいた皆さんに順次返信しております。
現在ご連絡が多くなっておりますので、ご連絡の際はなるべく詳細にご説明などいただけますと幸いです!
▼THESEED TALK | 起業、資金調達、スタートアップに関する個別相談会
https://theseed.vc/theseedtalk
▼THE SEED 代表 廣澤
https://twitter.com/HirozawaDaiki
https://www.fastgrow.jp/articles/theseed-hirozawa


0から立ち上げて、サブスク会員計11万人。「GREEN SPOON」が語る、SNSやメディアで話題を呼ぶ「ブランドの体験設計」のコツ、1つの「言葉の発見」で売上が伸びた話





山下莉紗













手帳の一部を公開します・夢手帳(D・W・M・Yリスト)その2

2004年5月18日
読者のみなさま。こんにちは!久しぶりに、昔使っていた手帳の中身を公開しちゃいます。
これは、僕が21際の頃、今から19年前に使っていた「情報整理・毎週チェックリスト」です。
1)「夢手帳」の中の「D・W・M・Yリスト(一冊の手帳P66をご参照ください)」の中のW(一週間に一度以上チェックする項目)の一部です。
2)「知識・教養」の目標の中にあった「情報整理」に関するチェック項目の一部です。

・読書、ポストイットシステム利用しているか?
・ネームマスター「インタビューカルテ」の活用
・スクラップ他、なんでも「その場」で行う
・情報は、目的を達成するために集める
・情報整理は、時間の短縮
・Nの活用、人情報・年賀暑中などより
・クロスリファレンス
・雑誌必要なところだけ破る
・索引のみコピー
・辞典・辞書は裸で使う
・必要な本は、同じ本をあちこちに置くこと
・時間とのコスト(金)比較
・本は、ザッと読んで、優先順に内容を分け、順に読む。不要な本は読まない
・解決しないこと、分からないものは、メモのち後に回わす
・問題解決
と書いてあります。
当時、自分の知識の無さに危機感を覚えていた僕は、本を読みまくっていました。しかしながら、一日に読む量には限界があり、さらにそれを活用するためには何かの工夫が必要だと気付いたのです。
限られた時間で、
・いかに多くの本を読むか?
・学んだことを、いかに活用するか?
この二つの課題を解決するために、「速読術」「情報整理術」「記憶術」「メモ術」というような「ハウ・ツー」本を沢山読みました。
そのような時に出会った本が、有名な「知的生産の技術(梅棹忠夫氏著)」です。
この本を購入したのは、1985年3月31日実家近くの神楽坂の「文悠」という本屋さんでした。(何で!覚えているかというと、当時、僕はすべての本に購入&読み終わった日付と場所を書いておいたからです。まめでしたね。笑。)
衝撃を受けました。
・「学校では、知識は教えるけど知識の獲得のしかたはあまり教えてくれない」
・「今日では、情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになりつつあるのではないか。」
・「たとえば、コンピューターのプログラム(※)の書き方などが、個人としてのもっとも基礎的な技術となる日が、意外に早くくるのではないか」
(※)プログラムの書き方ではなくて、ファイル整理の仕方が基礎的技術になったと思います。熊谷
いずれにしても、僕がこの本を読んだのが、19年前の1985年ですが、第一刷が出たのは1969年です!当時からこのような考えをお持ちの梅棹先生は凄い!
インターネットの時代を迎え、人はより多くの情報を、時間やコストを掛けずに検索・収集することが可能になりました。しかし、獲得した情報の「整理法」はまだ個人の資質・努力に委ねられています。したがって、人は多くの情報の中に、大切な情報が埋もれてしまわないように、優先順位を見失わないように情報整理・活用に力を入れる必要があるのです。インターネットの時代を迎えまさに「情報整理活用」は「個人の基礎的素養」になったと言って良いでしょう。
夢を達成するため、競争に勝つためには、「情報整理・活用」に力を入れることが必要です。
そういえば、「一冊の手帳で夢は必ずかなう」の「私の情報収集&情報整理術(P130~)」に僕のファイル整理術とか、もっと書いておけばよかったなぁ・・・。

熊谷今日の気分 

読者の皆様 「手帳発売」について多くのお問い合わせ有難うございます。ご質問にお答えいたします。
1)手帳は、「中身=用紙」の発売だけを考えています。手帳の「バインダー」は発売計画はございません。紛らわしい書き方をして申し訳ございませんでした。
2)手帳(用紙=夢のリスト・ピラミッド・人生未来年表他)の発売時期ですが、9月頃を予定しております。詳細は、このホームページでお知らせいたします。
以上、よろしくお願い申し上げます。





ひろゆき×ドワンゴ川上量生が「エンジニアは頭が悪くないと大成しない」と語るワケ

NEW! 2024.04.12 ITニュース

ひろゆきの「僕ならこう作るね」

日々プロダクトに向き合うエンジニアのみなさんにヒントをお届けすべく、日本最大の電子掲示板『2ちゃんねる(現5ちゃんねる)』を立ち上げた、ひろゆきさんを迎えた本連載。国内外のプロダクトを、ひろゆきさんはどうみるのか? ひろゆきさんが開発者ならどこをブラッシュアップするのか?そんなことを、毎回話題のプロダクトを取り上げながらお届けすることでプロダクト開発で大切なことを探っていきます。

ひろゆきさん連載4回目の対談相手は、ドワンゴ創業者の川上量生さんです!
川上さんといえば、日本最大級の動画配信サービス「ニコニコ動画」をスタート立ち上げた人物でもありますが・・・

ひろゆきさん

ドワンゴがゲーム会社だった頃の話が聞きたいですー

川上さん

それ、二人では結構話してない? ニコニコ動画時代なんて、僕よりひろゆきの方がうちのエンジニアたちと頻繁に飲み会してたもんね。

ひろゆきさん

だいたいおごってもらえますからね。

気心知れた仲のお二人らしいやり取りからスタートしながら、学生プログラマー時代や会社員時代から振り返ってくれた川上さん。

お話は「優秀なエンジニアとは?」や「エンジニアもプロデューサー的要素を育むべし」・・・といった内容にまで及びました。

川上量生さん(@gweoipfsd

株式会社ドワンゴ顧問、学校法人角川ドワンゴ学園理事、株式会社KADOKAWA取締役。1968年生まれ。京都大学工学部を卒業後、コンピューターの知識を生かしてソフトウエアの専門商社に入社。97年に株式会社ドワンゴ設立。通信ゲーム、着メロ、動画サービス、教育などの各種事業を立ち上げる

ひろゆきさん(@hirox246

本名・西村博之。1976年生まれ。99年にインターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設し、管理人になる。東京プラス株式会社代表取締役、有限会社未来検索ブラジル取締役など、多くの企業に携わり、企画立案やサービス運営、プログラマーとしても活躍する。2005年に株式会社ニワンゴ取締役管理人に就任。06年、「ニコニコ動画」を開始し、大反響を呼ぶ。09年「2ちゃんねる」の譲渡を発表。15年に英語圏最大の匿名掲示板「4chan」の管理人に。フランス・パリ在住。著書に『働き方 完全無双』(大和書房)『論破力』(朝日新書)『プログラマーは世界をどう見ているのか』(SBクリエイティブ)『自分は自分、バカはバカ。 他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』(SBクリエイティブ)『1%の努力』(ダイヤモンド社)など多数

学生時代は開発で月100万以上稼いだことも?

ひろゆきさん

まずは、川上さんのサラリーマン時代の話から聞いてみたいなと。学生時代からバイトで開発して稼いでたんですよね?

川上さん

そんな時代から話すの? まぁはい、分かりました(笑)

川上さん

僕がプログラマーとしてお金を稼いでいたのは、実は大学時代だけです。京都や大阪のソフトウェア開発会社でバイトしてましたね。

どちらもCADとかCAD/CAMを作っていた会社で、最初は時給だったと思いますが、割とプログラミングは得意だったので、途中から移植案件を受託で受けたり、ステップ単価といって、1行あたり約80円の出来高でプログラムを書いていました。

ひろゆきさん

いくらくらい稼いでいたんですか?

川上さん

月100万以上稼いだこともあって、会社員時代よりもお金は持ってましたね。大学生でしたが親に仕送りもしてましたし。

大学卒業後に就職したのはソフトウェアジャパンというパッケージソフトの流通商社、まあ、平たくいうと問屋でした。

エンジニアtype編集部

そこでもエンジニアを?

川上さん

いえ、事業開発が僕の仕事でした。ただ、趣味でプログラミングは続けていましたね。

雑誌『SoftwareDesign』で、C言語のコンパイラでバグが発生した時にエラーメッセージと症状から、具体的には何が起こっているのかを、コンパイラが吐き出す機械語コードとメモリ管理のやり方の観点から、どうやって推測するかという連載記事を書いたりしていました。

川上さんが「Software Design」にて寄稿していた連載「3分間デバッギング」の第一回(1991年6月号)の執筆ページ。技術評論社のSoftware Design編集部よりご提供いただいた。

川上さん

あと、TsuNaGuモデムという製品を企画して、当時のモデムのシェア1位を取ったのですが、その時のモデムのおまけに無料プロバイダをつけていました。

僕が会社にほぼ僕の個人使用で引いてもらった1.5Mbpsの専用線を23台のアナログモデムで共有するという、ほぼ僕の手製のプロバイダでした。

川上さん

INS1500の機械は高かったですが、システム全体で100万円くらいでできた気がします。ラックマウントのモデムも海外から3000ドルぐらいのを輸入して、今でいう“技適マーク”もそのためだけに申請して取りました。

モデムのおまけにつけるので100万個ぐらいのユニークなID/PASSWORDを発行して、それ用の認証サーバーシステムが必要だったのですが、開発見積もりを取ったら800万円と言われて。

高いので、休日出勤して自分で開発しました。週末だけ使って1ケ月もかからずに完成したので、ぼったくられなくてよかったと思いました。ただ、今振り返れば妥当な額だったとも思います。

ひろゆきさん

というと?

川上さん

そのあとドワンゴを創業して、自分が受託開発会社の立場になってみると800万円はそこそこ良心的な見積もりだったんじゃないかと思いますね。

ひろゆきさん

ソフトウエア開発の仕事って、値段の決め方が難しいところはありますね。

川上さん

プログラミング速度はプログラマーの能力次第で100倍ぐらい違ったりしますからね。100倍どころか、あるレベル以上のプログラマーじゃないと、そもそも完成させられないという仕事も多い

ひろゆきさん

コーディングは簡単でも、経験や知識がないと書けないことも多い、、、とか

川上さん

というかほぼ全ての仕事がそうだと思います。たまたま以前に作ったことのあるシステムだったら簡単に作れるけど、そうでないと、まず勉強からしなければならなかったりして。

経験・実績がある前提で、しかも優秀なプログラマが稼働した場合の人件費だけで受託開発をしてたら、あっという間に開発会社なんて倒産してしまいます。

経験者のいない新しいジャンルで受託開発をするというのは、とてもリスクがあるのです。

“文系のずるさ”があればもっと稼げていた?

ひろゆきさん

ドワンゴも創業時は受託開発してましたよね。

川上さん

はい。ドワンゴの創業事業であるネットワークゲームのシステムの受託開発というのは、まさにそういう分野でした。

ひろゆきさん

ゲーマーが集まってできたみたいな会社でしたもんね、、、

川上さん

元々は「Bio_100%」というPC9801の世界では有名なフリーゲームの開発集団でした。そのリーダーが森栄樹という当時日本マイクロソフトの社員で、森さんが優秀なエンジニアは全て森さんが集めてくれました。


川上さん

一方、僕が集めてきたプログラマーはプログラミング未経験の頭の良さそうなネットゲーマーだけです。

なので初期のドワンゴは、森さん率いる天才ハッカー集団からなる超強力な開発チームと、僕の率いる廃人ゲーマーによる即席プログラマーメインの弱小開発チームの二つからできてました。

僕と森さんで最初に考えたドワンゴのビジネスモデルは単純で、優秀な僕ら(といっても森さんチームだけですが)は控えめにいっても普通の開発会社の半分以下の工数でソフトウェアを開発できる。

なので、実際にかかる工数の2倍で見積もりを出せば、半分は利益で丸儲けのはずだ、というものでした。

とても簡単な算数ですが、後から振り返るとそこが「理系のずるさの限界」でした。

エンジニアtype編集部

理系のずるさ?

川上さん

理系って、ずるいことやろうとしても大してできないんですよ

ひろゆきさん

あぁ

川上さん

僕らはドキドキしながら2倍の見積もりを出したんですけど、本当は10倍ぐらい出すべきでした。じゃないと儲からない。実際は想定よりも工数がかかることがあり、2倍じゃ利益出なくてめちゃくちゃ大変です。

川上さん

ドワンゴが大きくなってから当初のドワンゴぐらい実力があって良心的な下請けが欲しいと、心から思いました。当時のドワンゴが出してた見積もりのさらに2倍の金額払っても、同等の仕事をしてくれる下請けなんて、なかなか見つかりません。

でも、文系経営者の中には平気な顔して100倍の見積もりとか出せる人もいたんですよね。僕らの感覚ではもはやそれは詐欺で、とてもできない。

10倍ぐらいなら、経営は見えないオーバーヘッドがめちゃくちゃあるので、妥当な範囲内だと思いますが。

「理系は嘘が苦手」ゆえに損することとは?

ひろゆきさん

エンジニアほどぼったくるのが苦手ってのは分かるんですけど、どうして理系の人って嘘つくのが出来ないんですかね?

文系でも嘘つけない人はいますけど、理系で平気で嘘をつける人って稀有ですよね。。

川上さん

理系は根拠の上に理屈をつけると言うのが染み付いていますからね。根拠のない理屈が本能的に言えないんですよね。

同じことを説明する理屈がAとBの二つあって、自分にとって都合のいいBを主張すると言うのはできますけど、それが限界。“謎の理屈C”をでっち上げるということまではできない。

エンジニアtype編集部

「でっち上げ」ならできなくてもいい気がするのですが・・・

川上さん

経営者になって思ったことですが、これは理系の美徳でもなんでもなくてビジネスマンとしては欠点じゃないかなと。給与だってそうですよね。

経営者とか俳優とかアーティストとか、トップ層の報酬が理不尽なほど高くなることがあるのは基本的に文系っぽい職業です。ノーベル賞受賞者とか技術者や職人で年棒100億円とか聞いたことないじゃないですか。10億円だっていないと思います。

川上さん

とはいえ、IT業界のエンジニアの年棒が上がったのはネットバブルで文系の経営者が大量に参入してきたからだと思います。

エンジニアがトップだと会社の序列の中で能力に応じた妥当な年棒をつけますから、そんなに高くなりにくいですよね。

エンジニアtype編集部

最近はエンジニアの給与水準をあげる国内企業も少しずつ増えていたりしますね。

川上さん

それはやはりネットバブル後に大量のWeb企業が生まれ、文系経営者たちが、バンバン高い給料でプログラマーを雇い始めたおかげだと思います。

ベンチャーってたくさんのお金を投資してもらう代わりに短期間で結果を出すことが求められるので、勝負のネタを提供してくれるプログラマーにはたくさんお金を払わざるを得ない。しかも能力も見極められないまま払う。

やっぱり能力関係なしに「プログラマーにはバンバン高い給料払う」みたいな会社があると、相場は上がりますよね

廃人ゲーマーばかり採用して、苦労しなかった?

ひろゆきさん

「廃人ゲーマーばかりのチームを率いた」話ですが、ゲーマーエンジニアを集めると大変ですよね、、、

プログラミング経験のないゲーマーを集めた結果、苦労したことはなかったですか?

川上さん

廃人ゲーマーは地頭がいい連中だったので、プログラミングはすぐに覚えられると思ってました。僕は社長もやらなければならなかったので、当時最初に決めたのは、僕自身が絶対にコードを書かないと言うことでした。

森さんチームの「Bio_100%」の連中は、それこそトップレベルのエンジニアが集まっていたので、僕がプログラマーに専念しても、コードの生産量では絶対に勝てないなと思ったというのもあります。英語ネイティブじゃなくて、プログラミング言語ネイティブみたいな連中が集まっていましたから。

川上さん

なので、社内的にも僕はプログラマーみたいな顔は一切しないと言うことを決めて、技術のことが結構わかっている営業担当の社長という役回りに徹することにしました。

窓口となる社長が技術的なことを話せれば、相手は背後にいるエンジニアにはもっとレベルが高い人がいるだろうと想像するでしょうから。

チームのメンバーには、とにかくどういう実装をしようとしているかだけ、定期的にヒアリングして、壁打ちの相手を努めながら、行き詰まっている時は実装のアイデアを出したり、間違っている実装をしようとしている時には、問題点を指摘して方向修正をしました。

ひろゆきさん

へえ

川上さん

初期はデバッグだけ手伝っていましたけど、具体的なコードには口出しはしませんでした。ただ、やっぱり現場で実戦経験している方が強いので、ある程度、彼らのプログラミングスキルが向上したら、コードに関するアドバイスはしないというより、できなくなりましたけどね。

僕の廃人ゲーマーからなる弱小開発チームが最初にやった大きな仕事はドリームキャストのラウンチタイトルの『セガラリー2』の通信部分のサーバーとクライアントライブラリの開発です。

当時のドワンゴが受託した最も技術的難易度の高いプロジェクトでした。それを主力のBio_100%チームじゃなく、2軍以下の廃人ゲーマーチームが開発することになりました。

『セガラリー2』のプロジェクトが失敗していたら、設立直後の当時のドワンゴは倒産していた可能性は高かったと思います。このプロジェクトを曲がりなりにも完遂させて納品まで漕ぎ着けたことが、僕の30年以上の仕事人生で最も難易度が高かったし、一番の誇りです

川上さん

森さんは、後から聞きましたが、絶対に失敗すると思っていたそうです。心配して何度かプロジェクトを引き取ろうとオファーしたけど、僕が「大丈夫」と断ったそう。

僕は『セガラリー2』をやっていた時の1~2年ほどはつらすぎて、記憶が飛んでてほとんど覚えてないんですけどね(笑)

PCに開発環境を入れない=エンジニアじゃない?

ひろゆきさん

コードに口出ししないとはいえ、川上さんってPCには開発環境を必ず入れてましたよね。

川上さん

そうそう。プログラマーに戻りたい欲求をせめて開発環境まではインストールすることで折り合いをつけていたんだよね。コードはほぼ書かなかったけど。

プログラマって実戦を離れると、まず、ビルドが出来なくなるんですよ。そのハードルを超えるために勉強する時間がなかなか取る気になれなくなって......ビルドできたって、そこはただのスタートだから(笑)

ひろゆきさん

「開発環境を入れない」行為って、「自分はもうエンジニアじゃありません」みたいな自覚とセットで受け入れる感じがしますよね。なので、なかなか踏み切れない気持ちは分かります。おいらも何となく入れてはいます。

川上さん

でも、そういう意味では開発環境はかなり早い段階で僕は諦めてましたよ。僕はMicrosoft Visual Studioをインストールしてただけです。ビルドはできない。ひろゆきと会った頃は、着メロの頃だけど、もう、そんな感じでしたね。

ひろゆきさん

うひょひょ。

出世しやすいのは、面白がる能力が高い人より、会社員っぽい人?

川上さん

まあ、でも廃人ゲーマーからのプログラマ育成については、短期的にはうまくいったけど、結局、みんなエンジニア辞めちゃったよね。ほぼ残っていません。

ひろゆきさん

何度もドワンゴに戻ってくる人とかはいましたけどね。

川上さん

でも“エンジニアとして”出戻った人はほとんどいないよね。みんなゲームが好きすぎるから。なんか革新的なゲームが登場して流行ると、会社来なくなるし(笑)

多分、最新ゲームとかはキャッチアップしてたと思うけど、開発周りの最新技術とかにもついていけなくて、エンジニアとしては結局ドワンゴに残れなかった。

ひろゆきさん

エンジニアもできるというだけで、コード書くのが好きなわけじゃないので、他の仕事に行っちゃいますよね。

川上さん

そうね。あと、僕が開発現場から離れてしまったから、普通のエンジニアに彼らのマネジメントはできなかったんじゃないかなというのは、少し責任を感じています。

ゲーマーに限らず、僕と一緒に何か開発したエンジニアって、その後、ドワンゴ辞めたり、エンジニアそのものをやめる確率が高い気がしているんだよね。

ただ、僕と仕事するとエンジニアとして社会に影響を与えられる大きな仕事、技術的にもその時に可能なギリギリを狙った野心的なプロジェクトに関われて、一瞬の人生の輝かしい時期を味わえるのでおすすめです。

ひろゆきさん

面白がる能力が高い人は、興味と仕事が繋がるとパフォーマンスが良いけど、興味がないといきなりやる気が無くなる。。。会社としては、安定して成果を出すサラリーマンっぽい人のほうが出世しやすいですよね。

川上さん

ときどきしか働かない人がいてもいい会社をつくりたかったし、実際にそうしたんだけど、やっぱり長期的に継続するのは難しいよね。

「優秀なエンジニア」の定義は?

ひろゆきさん

ちなみに川上さんは面接で「優秀なエンジニア」を見抜けるんですか?

川上さん

優秀なエンジニアって、だいたい、無口なんで面接じゃ分からないですよね。

エンジニアtype編集部

お二人はどんなエンジニアを優秀だと感じるのでしょうか?

ひろゆきさん

優秀なエンジニアは、プライドが高い人が多い気がしています。新しい技術なりを「知らない」というぐらいだったら、徹夜してある程度まで把握するみたいな好奇心とかブライトとか向上心みたいなのが強い人。

なので、偏屈な人が優秀な人である事多いんですよね、、、

川上さん

周りに合わせられる要領のいい人って、エンジニアだと逆に辛くなったりするんじゃないかな。現実は変えられない部分があるから。偏屈さというか、間違っていると思うことは間違っていると譲らない部分も必要だと思います。

エンジニアtype編集部

「優秀なエンジニア」と聞いて誰もが共通して思い浮かべるのは、ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグ、イーロン・マスクなど米国の起業家たちですよね。日本だとどなたがそこに名を連ねると思いますか?

川上さん

確かに米国における初期のIT業界は技術者がベンチャー企業のトップを務めているケースは多かったですね。

それと比較すると日本は少ない印象もありますが、ゲーム業界では日本でもエンジニアのトップはいます。ソニーの久夛良木さんや、亡くなられた任天堂の岩田社長は世界的にも有名です。

もし「日本でエンジニアの社会的地位があがらない」とするならば、これは僕の持論ですが、アスキーの西和彦さんがソフトバンクの孫正義さんに負けたことが原因だと思っています。その後の起業家が孫さんをロールモデルにする人たちが中心になってしまった。

川上さん

ただ、日本だけでなく、今の米国のIT業界もトップはほとんどがビジネスマンですね。そういう意味ではそこに差があるとは思いません。

エンジニアもクリエイターの一種だと思うので、業界が成熟するとクリエイターよりプロデューサーが優位になるのは資本主義社会ではしょうがないと思います。

なのでエンジニアの社会的地位の向上のためには、エンジニアがプロデューサー的要素を兼ねられるようになることが大事でしょうね。

今の日本のCTOって、技術部隊の取りまとめをしている親方みたいな人たちが多いと思いますが、将来的な技術動向に基づいたサービス開発や、どういう技術分野に投資をするかといった経営判断までも担えるようになることが大事だと思います。

それができる人、やるようにしようとする人はエンジニアに少ない印象です。むしろ昔よりも減ってる印象があります

「管理職の道」を敬遠するエンジニアを減らすには?

ひろゆきさん

管理職にはなりたくないとか、社内政治に関わりたくないとか、職人的エンジニアは出世を嫌がる傾向があるのも、プロデューサーとしての経験が増えない理由の一つだと思いますけど、忌避傾向をなくすにはどうしたら良いですかね?

川上さん

逆説的な話になりますが、エンジニアとかを含んだクリエイターという職種は頭の良さが必要だと思いますが、同時に頭の悪さもないと大成できないという側面があると思っています。

ものを生み出すって大変なんですよ。そういう大変な仕事をわざわざ選択して努力を続けるというのは、何か根本的に頭が悪いことだと思います。

スティーブ・ジョブズの「Stay foolish」という言葉は有名ですが、何事も極めようとするには馬鹿なぐらいの努力が必要です。

ひろゆきさん

じゃあ、「無理に忌避傾向をなくそう」と思うよりはそのままでもいいんですね。ものを生み出す大変な作業をやれちゃう人間は貴重ですもんね。

川上さん

そうだと思います。むしろ、エンジニアに比べればプロデューサーとかって怠け者がなる仕事だと思うんですよね。本当に大変な部分は誰かにやってもらうわけですから。

エンジニアが世の中的にも、もっと美味しい仕事と思われて、そういうプロデューサーの素質のある怠け者のエンジニアがどんどん増えてくれば、その辺りも変わってくるんじゃないかと思います。

川上量生さん写真/角川ドワンゴ学園提供、ひろゆきさん写真/赤松洋太 編集/玉城智子(編集部)

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