クラファン狂時代

※はじめに。この記事はクラウドファンディングという手段そのものを否定したり、個々の具体的なプロジェクト、発起人、及び出資者を非難したりすることを目的とするものではない。あしからずご了承いただきたい。

この十年でエンタメ産業もすっかり様変わりした。かつては考えられなかったような多種多様なコンテンツが溢れ、同時にそれを支える様々なシステムや制度も現れた。その中でも昨今特に存在感を増しているものの一つに、クラウドファンディングがある。クラウドファンディングとは文字通りクラウド(群衆)からファンディング(資金調達)を行うことで、一般にはインターネットを通じて不特定多数の人々に広く呼びかけ、少額ずつ出資を募りプロジェクト実施のための資金を集め、出資者はその出資分に応じたリターンを受け取るシステム、及びそれを可能にするプラットフォームを指す。従来のような金融機関やベンチャーキャピタルに融資を求めるよりも手軽で、かつ実際にエンドユーザーの反応や市場規模を探りながら行えるという点で注目を集めており、製品開発からイベントの実施、社会福祉や地域創世まで、幅広い分野で活用されている。
その中でも特にエンタメ分野での席巻には目を見張るものがあるだろう。アニメ、漫画、ゲーム、音楽、映画、舞台演劇、等々。「こういう作品を作りたい」「こういうコンテンツを実現させたい」という熱意を持った発起人は後を絶たず、多額の資金を要するコンテンツ制作を個人やサークル規模でも可能にするクラウドファンディングという手段は、一昔前なら世に出すことは叶わなかったであろう数々のコンテンツを現実のものとしていった。そして現在、エンタメ産業でのクラファン利用はますます過熱の一途を辿り、ジャンルやシーンを問わず常に無数のクラファンプロジェクトが乱立し、莫大な資金がプラットフォームを通じて流動している。クラウドファンディングは個人やサークルから企業に至るまでコンテンツ制作の金策として定着し、もはや常套手段と化していると言ってよいだろう。
確かにクラファンという手段には高い有用性があり、そして実際にその恩恵も多大であることは事実ではあるが、それにしても特にエンタメ分野においてこれほどまでにクラファンが顕著に根付き、そして常用されるに至ったのは何故だろうか。筆者はこれについて、ある側面から十分に説明づけることに成功したという感触を得た。よってそれをここに公表して見ようと思う。なお、この記事での言及の対象とするクラウドファンディングのプロジェクトは、特にエンタメ分野での、出資に対して商品やサービスでリターンを受け取る形式の、所謂「購入型クラウドファンディング」と呼ばれるものを主に想定しており、プロジェクトの形式やプラットフォームによってはこれに当てはまらない場合もあるということはあらかじめご了承いただきたい。
前置きが長くなったが、それでは本題、クラウドファンディングの常態化の秘密を解き明かしていこう。
キーワードは「SNS」と「ナラティブ」、そして「アイデンティティ」だ。

SNSと「界隈」形成

インターネットとソーシャルネットワークの発達に伴い、情報発信の主体は従来のマスメディアからソーシャルメディア、SNSへと変遷した。特にエンタメ分野においては、コンテンツ発表の場自体がSNSへと移行し、コンテンツ制作者が直接ファンと交流し、またファン同士で交流し合う、緩やかなファンコミュニティ、所謂「界隈」と呼ばれるものが形成されていった。先に言ってしまうがこのSNSの隆盛と、それに伴うファンコミュニティの形質の変化が、今回の論における全ての発端と言っても過言ではない。
さて、SNSと界隈がもたらした変化の話に入る前に、まずはマスメディアとSNSの根本的な性質の違いについて話す必要がある。漠然とした不特定多数の大衆(マス)に向けて無差別的に情報を一斉送信するマスメディアと異なり、SNSは個人と個人の結びつきによって形成されたネットワークを通じて指向的に情報が流通する。この根本的な構造的差異について、まずは理解していただきたい。
この構造が「界隈」においてどのように働くか。界隈、つまりファンコミュニティは原則として、コンテンツ提供者と、そのファンのみによって形成された集団であり、その内部人員同士での交流、つまりネットワークが築かれている。ここに情報を流すとどうなるか。コンテンツ情報はネットワーク内を、つまりファンコミュニティ内部のみを流れ、その外部にはほぼ流出しないのである。閉じコン、という言葉はあるが、これはコンテンツやコミュニティの性質や方向性に関わらず、SNSという媒体の構造的宿命として起こるものである。どれだけヒットしたコンテンツも、SNSを媒介とする限りは「ファンコミュニティの内輪でヒットした」というにとどまる。そしてコンテンツが拡大する場合は、ファンコミュニティごと膨張するという方法をとり、やはり「コミュニティ外部」への拡張にはならない。仮に「界隈」をまたぐような形でファンがコンテンツの拡散に努めようとも、それらは散発的でごく小規模な、そして多くの場合元々近しい領域内での情報流出にとどまり、完全に異なる領域同士で大規模な情報の交雑を起こすほどの爆発的な力にはならない。界隈の垣根を越えるとすれば、それは一度でもマスメディアによって伝播されたものに限られる。よってコンテンツはコミュニティの内部のみを猛烈な勢いで流通し、その外部では全く知られていないという隔絶的状態が、SNSを主戦場とする現代エンタメの基本形態となった。それに伴い、コンテンツ維持のための金銭流動も、プラットフォームを介してファンコミュニティから直接確保する手法が確立されていった。有料会員制ファンクラブやサロンはもとより、CtoC型の直販サイト、クリエイター支援の月額制サブスクリプション、ドネートにコミッションサービス……。ありとあらゆる方法で、ファンがクリエイターを直接金銭的にサポートするビジネスモデルが確立されていき、そしてそれを活動・生活基盤にするクリエイターも増加していった。
かくして、コンテンツ制作者とそのファンによって形成されたファンコミュニティは外界と隔絶された小宇宙と化し、それぞれの「界隈」内部のみで需要と供給が完結する環境とシステムが整備されていった。この環境が、クラウドファンディングという形式にとって格好の土壌となったことは納得していただけるだろう。クラファンは広く不特定多数に出資を求めるものとはいえ、特にエンタメ分野では基本的に出資者は元々のそのコンテンツのファン、少なくともそのコンテンツを既に知っていて高い関心を抱いていた人間が大多数を占める。要するに身内から金策をするための条件は、SNSの発達と界隈の形成、その自己完結的性質によって、既に達成されていたということだ。

ナラティブの付加価値化

ここまでSNSによってもたらされたコミュニティとビジネススタイルの変容について見てきたが、今度はファンの個々人に何が起こったのかを見ていこう。SNSの発達によって一人一人が情報の発信者となり、個人の有する情報とその流通が可視化されるようになった。その結果コンテンツ消費の場面にも大きな変化が訪れる。単にコンテンツそれ自体の持つ情報だけでなく、それを消費する側の情報、ファン個人の側がどういった経緯で作品に触れるかというそれぞれの過程によって、体験価値に有為な差が生じるということが浮き彫りになったのである。「その人にとってどんな意味を持つか」という、パーソナライズな情報=文脈がコンテンツの体験価値において占める割合が格段に増大した。むろん作品の価値は受け手によって異なるというのは古来から変わることのない文化芸術の普遍的なところではある。しかしSNSという最小単位の個人を主体とする媒体において、「文脈」の占める比重はあまりにも重くなり、そしてあまりにも具体的になった。SNSが万人を発信者へと変えたことによって、自分にとってそのコンテンツがどんな「意味」を持つのか、そしてその「意味」がどれほどの体験価値をもたらしたのかという、その人自身の情報=ナラティブは仔細に語られていった。それらのナラティブはSNS上に公開され、コンテンツの価値を示す重要なファクターとなっていった。そして「こういうナラティブを持っていれば、コンテンツの体験価値が上がる」という具体的事例が、あまりにもくっきりと明示されていった。そうなれば次に起こることは、もはや必然と言ってもいい。
折しも、「界隈」の形成により、コンテンツを支える情報と金銭の流れが可視化され、コンテンツ提供者とファンの距離は縮まり、一種の身内感が生まれた。ファンはコンテンツを支えているという自負が高まり、単なる消費者ではなくコンテンツ当事者であろうとする意識が芽生えた。これが体験価値を高めるナラティブとして典型的に作用するものであることに説明の要があるだろうか。そのコンテンツが自分にとって特別な存在であればあるほど文脈的価値は増大する。であれば「コンテンツ当事者」であること、自分自身がそのコンテンツに内在していることは必要条件と言ってもいい。誰もが「当事者」になりたがり、コンテンツと特別な関係を結ばせてくれるナラティブに飛びついた。
かくして、「コンテンツ形成に当事者として参加する」というナラティブはそれ自体が付加価値を有するようになり、金銭的需要を発生させるようになった。「コンテンツ当事者である」というナラティブそのものが「売り物」になったのである。その取引の典型例が何であるかはもはや言わずとも明らかだろう。「コンテンツに出資し、作品形成に携わる」という個人的体験は、金を出して買うに値する魅力的な「商品」となったのである。

「自分らしさ」は誰のもの

最後のキーワードは「アイデンティティ」。インターネットの発達に伴い、この20年で急速に、特に若年層を中心に個人主義の機運が高まっていった。彼らは明確な組織や団体への帰属意識を厭い、個人同士が直接つながるSNSへと、交流のスタイルが変遷していった。国家や地縁血縁、所属企業団体の枠を越え、同じものが好きであるという一点によって世界中の人間がつながる緩やかなSNS「界隈」共同体が彼らの居場所になっていき、そこが人間関係の拠点になった。
その結果、対人関係における個人のアイデンティティが、「その人の好きなもの」によって決定づけられるようになった。「自分は何者か」というのが、「自分は何を好きか」という意味に置き換わったのである。誰もが「何者かになりたい」=「何かを好きな人」になりたいと希求し、「自分らしさ」という自己表現を、「自分がどんなものを好きか」という趣味嗜好や価値観の表明によって行うようになっていった。そして自分の好きなコンテンツは、自分の存在そのものに直結するほどの意味を託されるようになった。何の話をしているか。これこそは現代一般に言うところの「推し」という概念の誕生である。
「推し」の存在価値は「自分自身」の存在価値と同一化し、コンテンツの進退や存続は自らのアイデンティティを揺るがす危機となった。クリエイターが「作品を作らないと自分の居場所がない」と思い込むのと同種の病が世界中に蔓延し、「推し」を応援していないと自分が自分でいられなくなるかのような不安にかられるようになった。こうしてコンテンツはもはや「他人事」ではなくなっていった。
時を同じくしてSNSはコンテンツを包むファンの熱量を可視化し、幸か不幸か実際にファン側がコンテンツの進退や存続を左右する力を持つようになった。コンテンツ側もファンを積極的にその進退に加担させるようになり、そのためのビジネスモデルも組まれていった。ファンがナラティブを欲したように、コンテンツ側もそのストーリーにファンの存在を組み込んでいった。「ファンのおかげで」「ファンがいるから」という文句は社交辞令から客観的事実へと変わり、ファンは勝手に責任と義務を感じるようになった。「推し」を「推す」ことは美徳とされ、そのための手段が豊富に用意された。
いつしかファンはプロデューサー的役割を自負するようになり、生きた人間の人生を左右する舵を握ることとなった。そして「推し」と一体化した自分自身のアイデンティティを守るために、この戦いから容易に降りることができなくなった。
エンタメ産業はこの構造をさらに補強する方向に動いていった。「何かを好きな人でありたい」「好きなものを応援する人でありたい」という彼らの自己実現のための欲求は、それ自体が需要と化し、「推しを推している人」であるという事実そのものが金銭的価値を帯びるようになった。であれば、「推し」コンテンツの進退のために金銭的出資を要請されるとき、そこで盾にされているのは「推し」ですらない。そこで取引の対象とされているのは、ファンである彼ら自身、彼らのアイデンティティそのものである。


まとめよう。
・情報がコミュニティ内部のみにしか流れないSNSの構造的特性により、「界隈」内部のみで需要と供給が完結するビジネスモデルが組まれた。
・個人の持つ「文脈」がコンテンツの体験価値において占める割合が増大し、「コンテンツ形成に当事者として関わる」というナラティブ自体を金で買うようになった。
・「好きなもの」で自己表現を行うようになった結果、「推し」が自分自身の存在価値と結びつき、「推しを推している人」であるという自分のアイデンティティそのものを金で買うようになった。

以上がエンタメ産業においてクラウドファンディングが常套手段化した理由である。


重ねて断っておくが、私はクラウドファンディングという手段にも、それを選ぶ諸君の判断にもいちいち口をはさむつもりはない。ただ私が明らかにしたいのは、機序だ。たかが金の無心にすぎないものが、「推し」という文言をはさんだとたんに何やら鮮やかな精彩を帯びることの、あるいはたかが有象無象に過ぎぬはずの我らに、作家の懐事情までを我が事と思わせるものの、それを引き起こすメカニズムの正体を、私は暴き立てたいのだ。本記事はその幾ばくかの足掛かりになるものと思う。少なくとも私にとっては。これは私の宣戦布告であるからして、諸君がこの記事をどう扱おうがかまわない。一顧だにせず無視したってかまわない。ただ、今回この記事で柱とした三つの要素は、今後この世界を解体するための武器として、必殺の自信をもって打ち出したものであることだけ言い添えておこう。

そして最後に、これはただの私のお節介であるが、クラウドファンディングという手段を用いるにあたって、どうしても一つだけ老婆心から忠言申し上げる。クラウドファンディングは、実態はどうあれ、投資の一種だ。少なくともそうあるべきだろう。投資とは、信用を担保に金を得ることだ。
信用は、高くつく。売るのも、買いもどすのも。それだけはゆめゆめ忘れないでいてほしい。
以上。


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