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短編小説|門左衛門が死んだ

 朝、目を覚ますとペットのカエルが死んでいた。「門左衛門」と名付けたガマガエルは水槽の中で仰向けになり、ピクリとも動かない。昨晩もいつも通りエサを食べていたのに、これまで散々世話を焼いてやったのに、俺を残して急に三途の川を渡るとは、身勝手にも程があるじゃないか。相棒を失った悲しみにじっとしていられず、とにかく部屋を出ることにした。

 ちょうど台所で朝食の準備をしていた母に門左衛門の死を告げると、「あら、かわいそうに。いい機会だからあんたも早く就職しなさい。いつまでもそうしていられないでしょう」等と訳の分からないことをのたまう。やはりこの女との会話は成立しない。出された味噌汁に向かって唾を吐き、早々に部屋に戻った俺は門左衛門の亡骸をタオルにくるんで抱きかかえ、郷里へ帰してやろうと家を出た。

 門左衛門の郷里は家から歩いて十分ほどの場所。地域屈指の面積を誇る公園の真ん中に広がる巨大な池だった。あの日の昼間、俺は着の身着のままの恰好でそこに沈もうとしているのを通行人に見られ、無理矢理引き揚げられてしまった。その際、いつの間にかズボンのポケットに入り込んでいたのが、まだオタマジャクシの門左衛門だった。以来、立派な成体となるまで大切に育ててきた。

 早朝のまだひと気の無い公園に着くと、池の周辺を囲う木の柵を乗り越え、門左衛門を抱えたまま水の中へ歩みを進める。やがて中心部に差し掛かると足が届かない程に水が深くなり、俺の身体はゆっくりと沈んでいく。底が見えない程の深さに、水面を照らす朝日がどんどん遠ざかる。不思議と苦しさは無く、なんなら心地が良いぐらいで、眠るように意識が徐々に遠のいていった。

 ところがである。今回は邪魔に入られることもなさそうだと油断していたら抱えていたタオルがもぞもぞと暴れ出し、遠のいていた意識を呼び戻す。やがて中から勢い良く飛び出した門左衛門が水面に向かって泳ぎ出した。なんだお前、生きていたのか。それなら話は変わってくる。急に息の苦しくなった俺は門左衛門の後を追い、必死に手足を動かし体を浮上させる。

「ひえぇえぇえぇええええ」

 なんとか水面まで泳ぎ切った俺を出迎えたのは母の悲鳴だった。さっきまで公園の池にいたはずなのに、家の台所にずぶ濡れで横たわる俺はさながら浜辺に打ち上げられたセイウチ。母によれば、朝食の味噌汁を作っていたら急に鍋が揺れ始め、やがて俺が中から飛び出してきたらしい。大事な日の朝に何をふざけているのかと怒られ、我に返る。そうだ、今日はやっと決まった就職先への初出勤日じゃないか。俺は何をやっているんだ。

 慌てて身支度を整えていると、自室に空の水槽が置かれていることに気付く。どうしてあるのかと不思議に思うも、余裕が無いので気にしないでおく。家を出ると、玄関先から手を振って見送る母にそっと手を振り返した。俺もいい歳なのだから勘弁してくれと思う一方で、少し緊張が和らいだ事実に寒気がする。

 駅までの近道にと公園を抜けていくと、大きな池の横で歩みが止まった。立派なガマガエルが水面近くを泳ぐ姿に目が離せなくなってしまう。やがて勝手に一粒の涙が頬を伝うも、俺にはその理由がわからないのだった。


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