規範のこと、日本の「女性らしさ」と「良妻賢母」
若い頃、「日本にいるとなぜか肩がこるし、息苦しいよね、なんなんだろうね」という話をよく友達としていました。
エレベーターに乗った時、人とすれ違う時、声の出し方まで、「日本の女性仕草」といのがあって、これが原因なのだろうとは思っていました。例えば、海外で外国人として暮らして感じる疎外感があったとしても、「日本の女性仕草」の息苦しさに比べたらずっとマシだったりすることがあるのです。
今回はこの「日本の女性仕草」つまり「性別役割規範」(女性らしさ)とは何なのだろうか?ということについて、書いてみたいと思います。
規範(社会規範とも呼ばれる):社会集団の構成員が共有する行動のルールまたは基準。規範は内在化されたもの、すなわち、外部からの報酬や罰を受けなくても適合するように個人の中に組み込まれたものである場合と、外部からの正負の制裁によって強制されるものである場合がある。(Britannica.comからの翻訳)
学校で教えられた「道徳規範」
日本の「女性らしさ」と「作法」は、明治政府を作った武家階級が彼らの規範を元に、学校を通じて庶民に教育浸透したものです。日本を1つの近代国家としてまとめるために、1872年に公教育がスタートしました。これは、天皇からの「慈恵」(ありがたい施し)として「臣民の幸福を増進する為」(天皇と国家に忠誠示し従属する者の幸せのため)に行われるのものとされていました。さらに、教育は国民の権利ではなく、イエ制度における父兄の責任とされました。*以降カタカナで「イエ」と書く場合はイエ制度イデオロギー(考え方)を示唆しています。
学校で「規範」を教える科目は主に「修身科」でしたが、「国語科」の教科書にもその内容が盛り込まれていました。明治初めは、文明開化によって西欧の学問知育型教育で、武家的道徳規範を教える「修身科」は重視されていなかったのですが、鹿鳴館に代表されるような西欧化に対しての反動から国粋(日本スゴい)への揺り戻しがあり、1880年頃には、武家儒教、忠孝の教え、皇室を尊ぶといった内容が重視され始めました。そして、1886年の「学校令」で教科書の国家統制が強化、1890年には「教育勅語」が発布され、国民思想の統一と義務教育の国家統制が急速に進められました。
その後、大正デモクラシーによって、封建道徳色は弱まり、近代的社会倫理が重視で、国際協調がうたわれました。しかし、1933年からの教科書ではファシズム強化によってそれまでの「市民の倫理」が「臣民の倫理」へと反転されてしまったのです。
「修身科」規範は今も日本を動かしている
久武綾子に「教科書に見られる家族像」(1988)によると、「教科書が日本人を作った」と言われていて、その役割を果たしたのは主に「修身科」と「国語科」の教科書でした。この文献では、出生年と学校で使った教科書とその性格がまとめられて、例えば、昭和2年~9年生まれ(2021年現在87歳~94歳)は満州事変後ファシズム台頭期の教科書、昭和10年~14年生まれ(2021年現在82歳~86歳)は超国家主義、軍国主義の教科書で学んでいること、該当する世代の人格形成の教科書の影響について述べてられいます。
そこで思い出されるのが、オリンピックでの女性蔑視発言が記憶に新しい森喜朗氏です。彼は昭和12年に北陸地方の町長のイエの長男として生まれた人、その発言を「問題ない」とした二階俊博氏は和歌山県議会議員のイエの子で昭和14年生まれです。彼らは、地方の特権的イエに生まれ育った男子として、軍国主義の「注入型」教育の影響を受けて育ったことでしょう。戦前の思想を多かれ少なかれ身に着けた男性が、戦後から現代まで日本社会の構造を作り、動かしてきたとも言えます。
「良妻賢母」と「女性の特性」
続いて、修身科などで教えられていた日本の「女性らしさ」の元となっている、日本の伝統(作られた伝統)的価値観についてです。「良妻賢母」は国家を強化するために女性の役割を定義する重要な国策で、女性教育の中心的存在でした。この教育では、特に「母性」が強調され、女性は「癒し」「感化する力」によって国家に奉仕することが期待されていたのです。
戦前、「良妻賢母」の作法は、主に高等女学校などの良家の子女が通う学校で教えられていましたが、庶民も学校で良妻賢母主義の道徳を修身科で教わり、本来女性に備わっている女性の特性として「母」の役割を刷り込まれていました。次の「修身書」には、現代の女性が「お母さん」になった途端に社会から受ける抑圧の原因がよく記載されていて、歴史はつながっていることをひしひしと感じます。
女性が初めて自分で産んだ赤ちゃんを抱く瞬間は、人生最大の意義を感じる時である。苦悩は胸から去り、慈愛、喜び、希望、決心が自然と心に湧いて、今までに感じたことのない尊い生活を予感するでしょう。そして、「母」は愛するわが子のために服を縫い、裁縫をすることで、母の精神が子どもに感化し、その人格の基礎を作るのです。(下田次郎 昭和11年「女子修身書」現代語訳松江)
戦前は、女性には、生まれながらに「母性」があり、この「母性」に基づいた「やさしさ」「愛情」「感化力」そして「犠牲的精神」があるとされました。これが女性が生まれながらに持っている特性とされました。そして、この「母性」を社会全体に広め、女性の「愛」なるもので国家を包み込むこと期待されました。この思想を信じた女性は「母性」で役に立てる喜びを感じていたのでした。
子ども以外の家族の人々に対しても、女性はやはり「母」なのです。ですから、女性はその特性として、夫の日常に関しても常に母のように世話をします。夫の職業に関してもよく理解をして、まるで助手のようにサポートする能力を持っているのです。夫が何かに激昂したり、落ち込んだりしていても、愛と知恵と勇気をもって夫を慰め癒すのが、理想の妻なのです。(昭和13年「女子修身教科書」下巻第十三課 現代語訳松江)
この修身教科書には、現代のモラ夫に我慢し世話する妻を彷彿とさせるものがありますが、「夫を母親のように癒す(世話する)」というのは、日本独特なものであると、英語論文を書いていてもつくづく思い知らされました。日本語をそのまま英語にしただけでは、外国人には全く通じないからです。「なぜ妻なのに母なのか?」と、妻と母がどうして同一人物であり得るのか全く理解不能なのです(私も英語で説明していると理解不能になってくるしで…)。このようなことからも、日本で女性として暮らしていると息苦しいのは、男性社会から「母親のように癒す(世話する)」のを期待されている、というのも大きな原因のように考えられます。
“育ちが良い”女性と「良妻賢母」
他国の女性解放運動のように、女性同士で「良妻賢母」をなくすために連帯できれば良いのですが、これがなかなか難しそうです。「良妻賢母」作法には、女性の階層上昇ツールとしての側面もあるからです。
戦前は、高等女学校以上で「良妻賢母」教育が行われており、作法、振る舞い、などの規範を身に着けていることは、当時の上流階層の子女である証でした。戦後民主主義となり、物質的経済的にも豊かになった人々は、かつて憧れていた上流の女性の証である「良妻賢母」的作法(マナー)を身に着け始めました。この作法は、婚姻や就職による階層上昇のために身に着けるものとして、母親の責任として教えられました(しつけができていないと母親が責められる)。21世紀に入って20年も過ぎた今日でも、「育ちが良い」をアイキャッチとした女性のマナー本が良く売れているのは、今でも階層上昇のために、良妻賢母作法(日本の女性仕草)を身に着けたいと思っている女性が多いことの表れです。つまり、「良妻賢母」は時代遅れのものではなく、意識されないくらいに私たちの浸透しているのです。
働く男を癒すための「良妻賢母」
戦前、女性は「良妻賢母」で示される、女性の特性(女の本分)である「やさしさ」や「感化力」で、国家を癒すという「母」の役割を期待されました。また、戦後は、この国家が企業に置き換わり、専業主婦世帯が中心だった自体は、かつての上流階層への憧れも手伝って、良妻賢母の役割を誇らしく思う女性も多くいました(均等法以前)。
(資料:https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0212.html)
このグラフにあるように団塊の世代が子育て世代でもあった1980年代前半は専業主婦世帯が圧倒的に多く、1982年に大ヒットした「聖母たちのララバイ」の歌詞は、働く男性を癒す「良妻賢母」を非常にうまく表現しています。
さあ眠りなさい 疲れきった体を投げ出して
青いそのまぶたを 唇でそっとふさぎましょう
ああ できるのなら 生まれ変わり
あなたの母になって 私のいのちさえ
差し出して あなたを守りたいのです
この都会(まち)は戦場(せんじょう)だから
男はみんな 傷(きず)を負った戦士
どうぞ 心の痛みをぬぐって
小さな子供の昔に帰って 熱い胸に甘えて
上のグラフのように、均等法以降女性の就業率は上がり、その後女性も働かざるを得なくなったことも手伝い、共働き世帯が圧倒的マジョリティです。にもかかわらず、まだ1980年代以前のように、女性に癒してもらおうとする男性社会であることが、現代の女性を苦しめています。
戦後からバブル期にかけて、経済発展のために、日本企業は家族(イエ)主義によって経営していました。入社試験は、イエの一員になるのにふさわしいかどうかで選別され、イエの一員になる儀式(入社式)が行われ、イエの一員になったら年功序列の仕組みの中で上司と会社に忠孝で尽くします。均等法以前は、この家族(イエ)の中で、女性は、企業の中で「花」として組織を癒し社内結婚、結婚したら組織に尽くす夫を支え、夫が尽くす企業からの家族向けの福利厚生を受ける、といった仕組みで世の中が回っていました。今日ではこの仕組みで世の中が回せないにもかかわらず、男性社会は、女性に「良妻賢母」の母のように癒す役割を期待し続けています。先の述べた、就職のために「良妻賢母」作法を身につけなくてはいけないのはそのためでもあります。
賢い女性は嫌われる「良妻賢母」
また、戦前は女性は大学に進学できませんでした。女性は生まれながらにして「母」であり、賢すぎると母性が失われるとされていました。1911年9月の「婦人くらぶ」の「現代の男子の見たる現代の女学生」の特集に以下のような女学生観が掲載されていたのを見ても、賢い女性が嫌われていたのが良く分かります。(以下現代語訳松江)
「女子と男子では先天的能力、体力が違うのだから、無理に男子と競争する人生トラックを選ぼうとするのは、己を知らず浅はかである」
「男のような女は持て余して困る。男勝りの女性の相手をするのは大抵の男は辛抱しきれない。だから、教育のある女子は嫌われる」
「鬼の面のように醜い女で、嫁にもいけないような女教師」
「道ですれちがった時に思わず振り返ってしまうような、気高く美しい娘が増えるよう教育して欲しいものだ」
このように、女子教育に対する無理解と教育を受けた女性への偏見は甚だしく、高学歴であることなどは全く期待されていませんでした。「良妻賢母」が作法であったり企業内であったりと、何らかの形で社会で維持されている限り、賢い女性は嫌われ、日本で女性は、生きるために賢くないふりをすることを無意識的に強いられることになるでしょう。
大学進学において、今でも教師や家族といった大人からのサポートが男子よりも少なったと感じている女性は多くいます。大人は女子が賢くなることに関心が低いため、進学への励ましが男子のように得られません。その結果、学問へのチャレンジを躊躇したり、それまで男性の分野とされてきた理工系を自分の人生から除外する女子生徒がいます。(社会人になってから自分の意思とお金で学問のチャレンジをする女性がいるのもこのためです)
社会構造に組み込まれている「良妻賢母」
「良妻賢母」は、妻としての役割よりも母としての役割を重視していて、日本社会はこれを利用して、「お母さん」に依存する構造になっています。これについては、「お弁当」が「母親」の中身を作り、女性抑圧の再生産をしているという話、の記事に書いている通りです。「お母さん」になった途端に出口のない抑圧を実感する女性が多いのはそのためです。
そして、日本の女性が息苦しいのは、「良妻賢母」という「日本の女性仕草」が原因であることには間違いありません。戦争が終わって75年ですが、現代もこの規範からはみ出た女性は(男性も)、利益を得られないように社会はできています。
また、「日本は世界で最も男性的な国らしい」でも書いたように、日本は世界の中でも極端に男性中心社会です。これは、戦前教育を受けた男性が戦前の思想のままに社会構造を作り、女性が「良妻賢母」思想によって上手に組み込まれ、自ら抑圧的であるように仕向けられてきたからなのでしょう。
参考文献
深谷昌志. (1981). 良妻賢母主義の教育. 黎明書房.
川島武宣. 日本社会の家族的構成日本社会の家族的構成, 2000.
Keeley, T. (2001). International human resource management in Japanese firms: Their greatest challenge. Springer.
蔵澄裕子. (2008). 近代女子道徳教育の歴史--良妻賢母と女子特性論という二つの位相. 研究室紀要, (34), 49-57.
斉藤泰雄. (2012). 識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験. 国際教育協力論集, 15(1), 51-62.
佐藤秀夫, & 寺崎昌男. (1970). 明治期の教育改革に関する試論. 教育学研究,
下田愛, & 井上果子. (2013, September). 青年期男性が抱く 「理想の女性イメージ」. In 日本心理学会大会発表論文集 日本心理学会第 77 回大会 (pp. 1AM-019). 公益社団法人 日本心理学会.
竹内里欧. (2002). 「欧化」 と 「国粋」. ソシオロジ, 46(3), 127-143.
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