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宗教の発生


原始、はじめて屋根の下に入った人間はどう思っただろう

はじめて神の視線からまぬがれ、はじめて自分の空間をもった人間をおもう

原始祭祀、人類の祭祀の痕跡を辿ればそこには必ず陰がある、岩陰。大きすぎる空を岩や大木に隔てられた閉じられた空間、なぜ空に向かって、高天原に、神がみに直接手を合わせることなく、岩陰でひっそりコソコソと神の目を盗んで祭祀を行うのか。

仏教は空を想い無を思う、それなのにどうして法衣が剃髪が仏閣が必要なのか
神道においては岩や山や杜こそが御神体でありそれをある程度は守っているけれど
そこには空虚を囲った宮がある、昔からそれが自分にとって謎だった、なんだか納得がいかなかった。。

松山は東雲(しののめ)の神社に参拝する、長い階段を登る疲労は人界から遠ざかり別の世界へと誘われるかのよう、鳥居をくぐると塀に囲まれた砂地の空間が開け、まるで天の諸々がその砂地にヘリコプターのように舞い降りることを可能にしてるようだった。奥へと歩き宮に立つ、四方縄張りされたセンターに依代が立ち、空間の舞台が鎮座していて、そこの立方体の空気を可視化していた、感銘を受けた。

結界とはなんなのか、邪を祓うとはなんなのか、それはむしろ囲うことによってしめだすのではなく、逃さないという機能があるのではないかと感じた。

その美しい立方体の空間が、喩えるならイノシシの箱罠のように見えなくもないのだ。
境内の塀に囲われた天からの通行入り口を開き、舞台の中央に依代の餌があり、おびき寄せる、神に入っていただき帰らないでと塞ぐ。

神道の本を軽く読み、神社に行って由縁を読むだけでわかるのは、氏神やその地域を守りくださる神々は常に上書きアップデートされているということだ、かつての名もなき崇められ畏れられたご当地産土神たちは上書きまくられた地層の下層に忘却され、アマテラ系パワーインフルエンサー神たちが映えている。政治と仏教によって上書き由緒まで編纂されまくるなかで、もはや人々はその地で本来畏れられていた神々をすっかり忘れてしまっている。

けれども神前で皇御祖神と手を合わせるときに降りそそぐパワーは、まさにパワーであり、そのパワーこそ人々があやかりたいパワーだとも思う。権力や政治、そして歴史における勝者を勝者たらしめたパワーにこそ民衆はあやかりたいだろう、囲い込み締め出し歴史そのものも塗り替えてしまうインフルエン神の力をまるで宇宙人と取引をして人類の中で栄華を誇るように利用し取引をする、それも宗教の本質のひとつだと思う。

踏み敷かれ敗れ編纂され国を譲った全ての本来性が善であるとは思わないが、ただこの素朴極まりない僕の両足が日々立ち入る日本の奥山の切られた木々の首の断面に吹き荒ぶ乾いた風吹く中、尾根に立つと視力を忘れるように背中に感じられる山々の視線、無機質な地表から立ち昇る有機的な息吹。

それら僕の日常において呼吸している山の空気の中で僕がおもうこと。

僕は仕事中チェーンソーや草刈機のエンジン音を防ぐためイヤホンをしてYouTubeを聴きながら作業している、エンジン音が耳から与えるストレス疲労は実はものすごくあることに気がついた、イヤホンYouTubeが僕を途方もなく楽にしてくれた。

けれども実は、僕は、知っている。

ほんとは僕が、耳を塞ぎたいのは機械のエンジン音ではないことを。
ほんとは僕が、耳を塞ぎたいのは、草木の断末魔なのだ・・・・

そして僕は、楽になった。都会の人々の対談なぞを耳で聞き続けまるでその綺麗な空間の座席に自分も座ってるような気になりながら、草刈機で草木を薙ぎ払うことを行いながらも忘却することで。

宗教のはじめはここにあるような気がする、綺麗事ではなく何かを生業にすることは、その文字通りどの業を生きるか選択することである、そして業の中にあって人は罪悪に捉えられ、何かに許しを乞い続けるしかない。

そしては人は畏れに対して合理的に背中を向ける発明をするのだ。

イヤホンYouTubeのおかげでオフィスでコーヒー飲みながらタイピングするかのように山で過酷な現実の中たったひとりで作業する、クソ矛盾。しかしこの力はすさまじい、雪の積もった吹雪の崖のような斜面の中で治らないインフルエンザを患いながらたったひとりで苗を担いで植林をすることもできるほどに。

山で働けば視力が良くなるものだとおもっていたけれども実際は悪くなった。
疲れが目にくるし、常に草木の粉になった粉塵が目に入るというような物理的な理由もあるだろうが、実際は日々の営為の中で山々や空を見上げる時間はきっとオフィス街で働く人々とそう変わらない頻度なのではないか。目線は慣れるに応じて必要最低限のものしか見ない、刃先足下、ずーっと下向いて作業してる、、

いや、、山での労働は語り尽くせないほどに筆舌に尽くし難く書くほどに間違い勘違いを膨らませてしまうかのようだ、業と忘却、合理精神と罪悪感の擦ったもんだもあれど、あらゆる摩擦を慣れが潤滑してくれる、もうぬるっぬるである、今回の現場も人々を同業すらも愚痴のとまらない岩ガラと斜面の悪現場なのだが、僕をそこに放り込めばストレスゼロでやることができる、悪い現場ばっかりやってるし。

そのくせ、東雲神社の階段を登ると左膝がちょっと痛んで、すぐ息が切れて、しんどいなぁと想いながら階段をのぼる。

仕事に慣れることは何か別の似たような動作に対して汎用性を持つと若い頃は思っていたけれども、驚くほど汎用性が無くなっていく、不思議で仕方ない。一日中、道も何もないガレキの山で滑り転び躓きひっかかりそこで苗を担ぎ巨大な丸太や枝を投げたり運んだりしてるくせに階段はしんどいし、商店街を歩けば後ろから歩いてくる人々すべてに追い抜かれていく、ほんとに不思議だ。

慣れるということはきっと強くなっていくことではなくて、楽になっていく楽していくということなのだと思う、だからこそ目線も最低限作業に必要なところしか見てないからこそ省エネで、作業に関わる動作以外の動作をしなければしないほど山での作業はストレスフリーになっていく、さらにYouTubeのどこでもドアで好きなやつらの話場に身を置きながら作業ができる。

話が蛇円してしまったが、つまり宗教の本質はきっと人々各個人の営為に付随するストレスを合理的にフリーにしていくという工夫なのだろう。僕は草木の悲鳴が怖い。その山に木々を植える作業に付随して他の植物を抹殺するという人間のエゴがこわい、こわいから目を背けたいし業は日々積み重なるので全部背負い込みたくはない。SDGsだとか言ってあらゆる業を除霊してしまえる同業がうらやましい。

僕が参拝をして正直におもったことを
宗教はこういうことなのではないかという
ことを詩というか、言葉の並びで表現してみた
目を背けたくなるような言葉の並びだけれども
書いてみた

おそれ
ごめん
ゆるして
こわい
こわい
こわい
こわい
ほかく
かこう
とじこめる
いいわけをする
ゆるせ
ゆるせ

以上のように書き並べた言葉を眺めて数日
妙に腑に落ちる自分がいる、最低なストーカー男のようなメンタリティだ。

やっておいてビビってゆるされるために捕まえて幽閉していいわけをわめいて
ゆるされた気になりたい

人間の本質には恐怖がある

現代に普通に暮らす人々の心に通底するのは
かつて忘れられたご当地の産土神たちのように
底にねむる恐怖だと思う

その恐怖に誰もリアリティを感じていない
だから何事にもリアリティが損なわれている
僕はそこに触れている気がしている
恐怖とリアリティそしてそれに背を向けること
そして許されること

かつて僕の人生にこのような文脈は一文字もなかった、ドストエフスキー、聖書、仏教、あらゆることに書かれる人間の罪と罰についてまったく手触りがなく他人事だった

けれども、それに触れることなくして
人間を考えることはできないと
おもうようになった
あらゆることに心を通わせることは
もちろん苦痛でしかない
靴の下で踏まれる地面の心にまで
共感なんてしてられるか

そうだしてられやしない
だからゆるされるしかない
ゆるされる装置をつくるしかない
エゴの重さを引きづり
自分というものに与えられた領土の分だけ
はらむ痛みを引き受けて生きるしかない

しかし文明は走った
ゆるされる装置は遺伝子レベルで作動した
全ての人々が今やゆるされている
あらゆる苦痛や罪、そして業をわすれるほど

罪悪に身を焦がしたいわけじゃない
触れて畏れ逃げるために
耳にYouTubeをつっこんだ
そして楽になった俺だ

猿は共感という名の幻覚を学習して
人間になった
人間は共感から流入する苦痛から逃れるため
祭祀を発明した
発明は祭祀を追い抜き
永遠に人間の行動を許すものとして
人間の行動の暴走を助長した
罪がなければ
恐怖が本来なければ
人間はここまでしなかったはずだ
罪の意識や許しの構造が
人間の欲を生産する

じゃあ、どう在ろうか。
ある種の実存をクリエイティブすること

神とは視線
人間に注がれ続けてきた視線
そして人間によるプライベートという
岩陰の発明
やねの下にはじめて入った人間の安心
安心からふつふつと湧き上がる黒い本能

黒い本能は安心を下敷きにしている、罪や業に対して安心している、この安心は復讐心をもつ、なぜ不安だったのかという復讐心だ
岩陰の安心にこもってはじめて、それまで注がれていた神々の視線や苦痛を意識する。

動物や植物はこの苦痛と共に生き生涯安心などという幻影を抱かないからこそ復讐心をもたない。

雨の日にカッパきて作業する、その雨になにも苦痛はないのだが、濡れたカッパで軽トラの運転席に逃げ込んだ瞬間濡れていることがたまらなく不快に感じる。または現場に張ったテントに雨の中逃げ込んで着替えてスッキリした時にテントから雨漏りしたらたまらなく不快になる。黒い復讐心は安心の中にこそ巣食う。

現場で、神社で、手を合わせる。家でふと考える、僕は何に手を合わせたいのか?合わせるべき善なる神を探す、どの悪魔に魂を売りたいか探すように。。

つねに信心と共に信じたいからこその疑念が割って入ってくる、この陰陽の配分もまた信仰の必須要素なのではないか、信心と疑心、魂の値踏み。

罪悪感とその成仏、忘却と共感、わざわざ考えなくてもいいことを考え感じなくてもいいことを感じてしまうこの壊れたラジオみたいな体の謎と生きること、けれども僕は思うんだ、いつだってこの実存がしっくりこない、だからこの世にいたくないなどとは一度も思ったことがない、ここは僕の世であることは間違いない、僕が生涯おもうのは何かこの世には実存が必要だということだ、その実存はどの宗教か?どの文化か?どの社会か?どの国か?どの民族か?ではなくおそらくこれからつくらなくてはいけない実存なのだと考えている。つくられるべき実存を考えるためにあらゆる人間の実存を生きなくてはいけないと多分僕はかんがえて生きてる。

人間だけがきもちいい社会は安心を前借りした不安の黒い復讐心渦巻く社会になってしまうだろうし、あるいは人間はあらゆる実存から手を引いてこのテキストみたいにネットの藻屑に消え去るのが適当なのか、人間の実存について考えて生きてる人はどれほどいるだろうか、人間を生きながら人間の実存のカクテルの調合を実験しまくるまだ行ったことのない雑踏、未踏の隘路、岩陰、山頂、地面を舐める日々、家族と共に過ごす日々、どの悪魔に魂を売りたいかどんな神と契約したいか魂を小銭に両替して少しずつベットしていく。

Twitter筆頭に言葉から魂を引っこ抜くSNS装置が蔓延している、あらゆる情報が言葉から魂を奪っていく、リツイート、拡散、悪魔のようなアテンションブリーダーズたちの参入によって言論は無意味の極地に至るまで意味を吸い取られた、これは人々の素朴なつぶやきそのものの虐殺に等しい、民衆から労働のため息すら奪おうという何か恐ろしい力の流れに人々は関心と共に意識そのものを刈り取られようとしている。

神社には杜がある、息吹が通る、空間がある空白がある、そこにはアイコンがない情報もない、これは素晴らしいことだ、山はおそろしいが僕を10数年引き離さない魅力なのか引力なのかがある、何か運命的なものを含めた文脈にはめこまれているかのように感じる、神道には反宗教的な空気がある、宗教になろうとする力に反対する力のようなものがある、日本の通底にはこのような力があるような気がする、Twitterの真逆のような、言葉から情報を引き抜き魂を吹き込むような沈黙と空白の呪術的な力があるのではないか。

無機質なハゲ山の荒野でポツリ居る僕が畏れる山の空気はきっと死の匂いではなく、デイダラボッチがぶっ倒れたあとの有機的な芽吹きの生のプロローグ、花咲かじいさんの走り来る足音、生の息吹。これは土の力、国土の力、きっとこの緯度経度と天候とあらゆる条件が揃うからこそ、刈れども枯れども再び訪れる春の力。

反宗教的な八百万産土のすがたなき信仰。反国家的なマルチチュード、グレーヴァーのアナーキズム、カオスのコスモス。あらゆる上書きをゆるす御神体としての国土、依代を育む力。

今回の現場から、山神様に挨拶するグッツを持参するようになった、酒と米と塩、そして簡単な祝詞、あいさつ。氏神参り、努めて合理化して生業に背を向けることで営為を潤滑にしつつ、いいわけかもしれないけど挨拶をする、矛盾してるように思うけども、そうやって実存のカクテルを塩梅していく、まったく何の努力かもわからんし、自分でも何をやってるのかワカランので文章にしてみた。

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