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二児の父は腐女子に掘られる夢を見るか


久しぶりに夜道を散歩していた、旧友と電話しながら。風もなんとなく気持ちよく、春めていてきたなぁなんて話しながら、街灯もほとんどない田舎の夜道を歩く。星空がすごく綺麗で、星座といえばオリオン座くらいしか知らないけども、オリオン座が無数の星に混じってどこにあるのか見分けにくいくらい星が出てた。

相変わらず田舎道ではみんな車を飛ばす、それは、一台のトラックが猛スピードで後ろから走ってきて僕の横を通り過ぎると思った瞬間だった。
何かが道路に転がり出て、だかんっと音を立てた、トラックはうるさかった分だけ去ったあとは静かで、道路に何か杉の枝の塊みたいなのが静かな暗い道の真ん中に残されて落ちていた。

嫌な予感がした、何かが飛び散ったように見えたから、、

近づいていくと、あぁ、やっぱりだ、近くには羽毛のような綿毛が散乱していて、まだ地面に落ちる前のものも宙を漂っていた、そこには獣のようなものがあった。。

もう少し近づくと、うさぎだった、目を薄く開いて、少しひどい有様だった、、
お腹から遠くまで内臓を散らしていた、かわいそうだった。

けど、当人にとっては、おそらく一瞬のことだったと思う、あられもない姿を晒すことを知ることもなく意識を失ったのだと思う。大きく開いたお腹の中で何かが動いていた、心臓かな、僕は躊躇した。

かわいそうに思うけど、体がなかなか動かない。一旦離れて家に帰った、けども僕は、勇気を出して、袋を持って引き返した、そしてその、うさぎさんが完全に絶命し、お腹の中も動いていないのを確認し、手を合わせて持ち上げて袋に入れた。

うさぎにしては、ずっしり重たかった。
家まで袋を持ち帰って、袋を見つめた。
呼吸を整えて、よし、、と僕は決意した。

ナイフとハサミを持ち出してきて、2リットルのペットボトルにお湯を2本用意した、うさぎを入れた袋を切ってシートにした。

もう一度しっかり手を合わせる、そして僕は取り掛かった。

うさぎはまだ暖かく、目は薄く開いていて、虚空を見つめていた、刃先に緊張が宿る、覚悟を決めて刃を入れた、うさぎの皮は驚くほど柔らかく、すんなりと肉から離れていく、服を脱がすように。

獣から毛皮の衣服を脱がす時、僕はいつも考えたくないことを考える。

けどその考えたくないことは考えなくちゃいけないことなんだと思う。

それは毛皮を剥いだら、人間に似ている、ということだ。

ちゃんと肩甲骨があって、小さい背中がある、しかも暖かい、肋骨があってその中には人間と同じものが詰まっている、僕は緊張に手を硬らせながらも慎重に作業を進める、感動すら覚える、自分自身を解体している気分になる、どこか厳かな気分になる。

トラックに轢かれて、かなり傷んでいるけども、綺麗に解体することができた、足はしっかりとしていて、かなりの肉が取れた。肉についた毛を綺麗に洗い流し、毛皮もしっかり取れた、出稼ぎが終わったら、自宅に持ち帰ってなめそうと思う。

毛皮は洗剤で洗って塩に漬けて冷蔵しておく。肉は冷蔵庫で2、3日寝かすとさらにうまくなる。

喪に服すということ、あの時、国道で死んでいたうさぎさんをそのまま見送ることもありえたと思う、そして、もう一つの可能性、食べて僕のカロリーになってもらうこと。

頭や内臓の多くは、翌日、僕が仕事で山に木を植えている現場に、埋めた。

別の獣が荒らすかもしれないけどもそれはそれでいいと思う。
そこの僕の植えた苗木たちはこのうさぎさんの亡骸を栄養の一部に林を作るだろう、そして、うさぎさんのお肉は僕の未来へと動員されるだろう、死ぬということ、誰かの生に利用されるということ。

良し悪しなどない、ただ、食べてみようという気になっただけだ。
そういう、「かわいそうだから」もあってもいいんじゃないか、ちなみにうさぎさんはめちゃくちゃ美味いと思う、本当に普通食ったことないくらい美味いはずだ。

その美味しいと喜ぶ気持ちと、死を憐れむ気持ちが、現代では各別されてしまっている気がする、その気持ちは本当は矛盾していないはずだ、かわいそう、うまい。共に行こう。。


解体が終わったら夜中の1時半、僕はどこか放心状態だった。

生き物にナイフを入れるというのはそういうことなんだろう、体力とは別の疲れがあるものだ。
魂の会話をしたような気分で、どこか疲れと一緒に昂る気持ちも抑えられず、眠気がなかなかやってこなかった。

ふと、気が向いてスマホで最近ハマっているツイキャスというライブ配信アプリを覗いてみた、そして新着のところの初めて聴く人の部屋に入ってみた。

何やらコメントと喋ってる人がにぎわっている、おまんこー、とか、ちんこーとか叫んでる。全員ヘベレケに酔っ払っているらしい。

これは、何やらとんでもない部屋に入ってしまったと感じた。話は男同士のセックスの下ネタで大盛り上がりで、これは、、僕は間違ってハッテン場のような部屋に入ってしまったのだと思った。

けど、どうやらよくよく話を聞いていると、なるほど、僕が今まで触れたことのない人たちだとわかった。

腐女子という、人種らしい。女の子たちが、男同士の絡み合いを熱く語っているようだ、そこに何故か僕は転がり込んでしまった、彼女らの熱心な語り合いに僕の中の現実がひどく揺らいだ。

すると彼女らが僕に噛み付いてきた、アカウントの僕の画像を見て。
チョキさんは受け顔ですね??男になって掘りたい!なんて言われる。
二児の父なんですけど、、
いや、二児の父だけに!
胸板がゴツい!
はぁはぁ!縛りがいありそうだ!

僕は彼女らに掘られ、開発され、縛られるらしい。

ふっと冷静に考えてみる、複数の腐女子に掘られることは浮気になるんだろうか←命題
彼女らの妄想の中で僕がもみくちゃにされている。

掘られ、縛られ、いぢられる。

さっきまで荘厳な気持ちで、うさぎを捌いていて、手を石鹸で洗ったところなのだが。

現実の落差がジェットコースターのようだ、けどもなんだこの部屋は、どこまでもジェットコースターが落ちる瞬間のふわっと感が続いていくようだ。

腐女子の部屋に迷い込んだ挙句、性玩具にされてみた。

僕は彼女らの性のドライブに共感を覚えた、とにかく正直に自分の衝動を即、口に出し、レスポンスする彼女らの獣の如き欲望の爆発に吹き飛ばされたいような気持ちになった。

そこでは男というものが完全に無化されていた、漂白されていた、彼女らの愛読するBL本の男たちは現実の男ではない、現実の男から現実の男のいやらしさ、キモさ、体臭、全てをこし取って、漂白する、そして彼女らのイメージ通りに再構成された男たち、それはもはや男でもなんでもない、新たな性を持つものだった、両性具有のようなものかもしれない。

男と男の娘の前戯。それを語る女子たち、この現場だけでいくつの性があるのだろう。
BLの男とは女性化された男であり、さらに男の娘においては女性化された男が女になるという転身を遂げている。

そして腐女子らのイメージは止まらない、男の娘を亀甲縛りにくくりつけ、いたぶる、そこで突然参加してきた僕もまた、彼女らにとって漂白された男性としてイメージの餌となって、そこではむしろ二児の父であることすら、ラノベ的萌え要素の一部に加算されている。もはや現実の僕など関係がないかのようだ。

僕は彼女らの妄想の性の自由なる暴走に、酔わされた。

彼女らはドライブしていた、性をドライブしていた、男なんておもちゃの一つだった、女であることだっておもちゃんの一つだった。
そこでは男、女の、二分法を超えたN個の性が暴走していた。そうだ、ドゥルーズとガタリは共著である「アンチオイディプス」の中でこう書いたのだった。

<ひとつの性が存在するのでもなければ、ふたつの性が存在するのでもない。そうではなくてn個の性が存在する>

関係の数だけ、性は存在するのだろうか、、

翌日。僕は相変わらず山に行き、木を植えていた、しかしどうも体がうまく動かない、捗らないのは前日の現実の落差、衝撃の余韻と寝不足のせいだ。

昼飯時、土埃まう陽の強い土場の端っこでくぬぎの丸太を枕に、寝転んで空を見上げながらコーヒーを飲んで、半分眠るように前日の余韻を噛み締めていた、半睡の中、僕は無数の過去を思い出していた、無数の過去に見た夢を思い出した、なぜ僕が腐女子たちに共感を覚えたのか、無意識の僕が過去を手繰り寄せ、思い出させた、さまざまな想いは連動し、半睡の中、思考が止まらなくなった。

半睡の中、僕は彼女ら腐女子の言動の中で自分の中にもすでに存在していたであろう無数の性に気付かされることになった。そういえば、僕は格闘技をしていたのだが、どこか同性愛的な感覚を持っていたのではないか。。

僕は確か19くらいの時、オナ禁していたことがあった、数年の間。その時の僕は、性から距離をおくことによって、むしろ逆に性的快楽のただ中にあったように思う。友人に、ようオナ禁できんなぁ、俺無理やわぁと言われ、僕はこう返したのを覚えている。

「それが不思議やねんな、きもちいねん、オナ禁が、なんか1日かけてゆっくり射精してる気分やねん」

そうなのだ、僕は気持ちが良いからという理由でオナ禁してたのだ。

それは新しい一つの性的快楽の形だった、そして今思えば当時の自分は、そのようにまだ不定形な性的快楽の形を、さまざまな回路を構築しつつ、また別の道を模索する単細胞のような僕の不定形で偶然的な快楽を、愛おしく育んでいた時期だったように思う。毎日がお花畑にいるようで、お釈迦さんのようにラリった目をしていたように思う。

そんな時期に僕はある経験をした。1週間連続で夢精したのだ。

今思えば僕はあの時、性のドライブを性の道そのものを作りながら疾走していたようだった。あの時僕は、普段夢を見ない人間なのに、毎晩のように性的な夢を見た、エロいとは書かずに性的と書くのは、それはエロいかどうかすらわからない不定形な性の形だったからだ。

書くのもためらわれるような内容だが、ここまで書いて、開発されてしまったのだから後戻りもできないだろう。

まずひとつめの夢が強烈だった。
夢の中でそこは朝のベッドの上だった、白いシーツに白いフカフカの布団、けれど何やら僕は動けない、それは誰かが僕の上にまたがってるからだった、よく見ればそれはニコニコ愛くるしく笑う広末涼子だった(別にファンだったわけじゃない)自分の上に広末涼子がのっていることに幸福感を覚えた。

すると突然、広末涼子の笑顔は鈍器に変わった、笑顔は突然頭頂部に変わり、猛烈な勢いで僕の顔面に突っ込んできた、そう、僕は上にまたがった広末涼子に猛烈な勢いで頭突きをかまされたのだ、一発目で、鼻っ柱をやられ、目の奥が猛烈にツーンとした。

もう一発目がきた、目の奥のツーンは、もはやなく、世界が痺れ、脊髄が痙攣するのを感じた、笑顔のイメージを残した広末はボーリングの球のような鈍器となって、幾度となく僕の顔面にめり込んだ。

最後の一発で僕の頭蓋骨は粉砕した。全てが真っ白になった。割れる白い骨から溢れる血液になって僕はロックマンのように飛び散った。

僕は夢から目覚めた、強烈なイメージだけが残されていて唖然とした、何より驚いたのは、湿ったパンツの中を覗いたら自分が夢精していることに気づいたこと。

自分にそのような性癖を感じたこともなかっただけにうろたえた。。

捉えようのないものをしまう記憶の引き出しにそんな夢の記憶がしまいっぱなしになっていることを、クヌギの丸太を枕にしながらの半睡の中、鮮烈に思い出した。

もう一つの夢は、幾分か仕掛けが施されていた。

僕はレンガ壁に両手左右を広げられて縛られていた、身動きが取れない、裸だった。
すると前方から音が近づいてくる

ピーッピーッピーッ

聞き覚えのある音だと思ったら、それは軽トラがバックしてくる音だった。
その軽トラの後ろの荷台に何かが乗っかっていた。

近づいてきて分かったのだけれど、裸の女性が荷台に上半身を預けるようにして、お尻をこちらに突き出していることがわかった。

そしてその女性を乗せたままバックで下がってくる軽トラ、、

それは身動きの取れない、僕に突っ込んできた、そして案の定、僕とその女性は連結される。

そこでクラッチを切る、ガチャガチャという音、そしてまた女性を積んだ軽トラは前に走り出した、そしてまたクラッチを切る音が聞こえ、ピーッピーッっと下がってきて、僕と女性は連結する、それを幾度か繰り返した。

すると、軽トラは前方ずーっと遠くまで行ってしまった、っと思ったら猛スピードで下がってくる、これは、死ぬな。っと思った。

ものすごいスピードで軽トラは僕と彼女をサンドイッチに僕の背中のレンガ壁ごと吹っ飛ばして、真っ白になった、砕けるレンガの一つになった気分だった。

はっと僕は目を覚ました、そしてまたズボンをめくれば、夢精していた。

次の日の夢の中では、僕は紙面に挟まれた同人エロ漫画の一枚になっていた、女性と性交しているのだけど、アニメの世界の一員というわけではなく、ペラペラな自分だった、ペラペラな女性と同人っぽい性交をしている、あくまでも本当に二次元的で、そこでの僕の主観的視点や、どうやって動いたのかなど、全く今ではわからない、わかったとしても文字に起こすことはほとんど不可能だろう、案の定、目覚めると夢精していた。

この頃の僕はとにかくおかしかった、悟りを開いているようでいて、享楽の中にあった、毎日が気持ちよく快楽として流れていく、山で呼吸をし、木と対話し、友人と暴れ回り、夜に夢精した、何か性器が別の用途、よくわからない道具のようなものになっている感じがした、っというのも、大便をする時に、うんと気張った時、射精したりすることがあって、笑ってしまった、もはや僕は自分の性のメカニズムを理解できなさすぎて笑ってしまったのだ。

まるで性そのものが意思を持ち、僕を利用して実験しているかのような毎日だった。

土場で寝転んで、僕はそういう不定形な性の形、単細胞的な性につきうごかされ、流動していた自分の過去の一時期を腐女子たちに重ね合わせていた、彼女たちに決まったスタイルはなかった、、

BLの作品群が示すように、それは性の脈絡を新たに作り出すという冒険のようだった。彼女たちは決まったポジションを持たず、掘る側で居続けることもない、時に縛り、時にいぢわるをし、触れないことによってまたそれを高めた。そこではもはや性は便宜的なシルシ、座標のようなものにすぎず、その座標の上を彼女らは大胆にもトランスしていく。。

昔、ブラフマとヴィシュヌが喧嘩してた、すると目の前に火炎のように立ち上る壁が現れた、、なんじゃこれは、とブラフマとヴィシュヌは喧嘩を中断して、それが何か測ることにした、互いに上下に分かれ、上昇と下降を1000年の間続けたが、その果てはついぞ現れなかった、それこそがリンガ。シヴァのペニスだったという。

この果てなしに突き抜けた屹立するファルスの物語は僕の心をうつ、それは男性性の極限のようにも思える、しかし実際の男性性はどうだろう、それはまさにこのファルスの細切れの分子の一つでしかなく、切り縮められている、果てがないどころかすぐに果てる。

すぐに果てるということを反復する記号に踊らされる、現代の男性性の貧困。

だから空海はチベットにまで旅に出たのではないかと勝手に妄想している、空海は性を賞賛していたし、禁欲的な仏教に密教という性的エネルギーを注入するためにこそ経典を持ち帰ったのではなかったか。

けれども、それがこの国に持ち込まれるとともに、密教はインポにされた、壮大なファルスは切り分けられ、一回性の取るに足らない反復に堕落した。

現代の男性性は、一回性のインポテンツなものであり、反復的で、性的記号そのものも貧困化している。

x videoをどのように利用するか、それを性の多様性のために活用するか、それを性的記号と身体的反復という堕落のために利用するか、また、くたびれるために。。

それにひきかえ腐女子の猛進は止まらない、もはやインポテンツで、記号によって反復のダンスを踊らされる、くたびれた男なんていらない、女に果てはない、ならばそのお相手に果てなしの異性を築き上げようじゃないか、宗教でもなんでもいい、一回性ではない永遠に上下1000年にわたっても汲み尽くせぬ火柱のようなファルスを彼女らは築き上げようとしてるようにも思えた。

例えば宝塚歌劇団の演者たちの男性。女性の永遠の享楽に支えられた男性性の突き抜けた音声を前にして、もはや男に居場所はあるのかとすら思ってしまう。このような事態にあって、男たちは猛烈に焦らなくてはいけない。

しかし、オタク萌え文化としてのアニメキャラや無数のファッション、メイク、表情が、今の女性によって演じられ、まとうことによって男たちを誘惑するように、女性の提示するB L男子の風情は、すでにKーPOPや男の娘によって先取りされている、男は記号にぶら下がり、反復している場合ではないのではないか、そして性の喜びとはいったいなんなのか。

それは、腐女子たちの話とそのステップにヒントがあるような気がしている、掘る掘られる縛る、いぢる、それは一つの文学、描くこと、書くこと、ラインを延長していくこと、移り変わり、さまざまな主体、性そのものをトランスしていくこと、生成変化すること、ピンクパンサーになること、さまざまなものになりゆくいきほい。

永遠に童貞を失い続けるように生きなくてはいけない、そのために毎回童貞にならなければならない、すべての同じファックに別の性を生きなくてはいけない。

僕らはあくまでも切り縮められている、性的記号商品に踊らされるな、一回性の徒労にくたびれさせられるな、本当の性とは何か、オナ禁の享楽、本当の気持ちよさとは何か、自由を感じる気持ちよさ、道から外れていく気持ちよさ、お馴染みの同じ道に咲く花を見つける気持ちよさ、反復と差異、トランスしていくこと。

意味があれば書き換え続けること、生きること、リビドーとして生きること。

僕にとって格闘技は広末の頭突きだった、頭部を顔面に挿入されること、笑顔を顔面に挿入されること、そして拳を顔面に挿入されること、格闘技は性的だ、暴力はセクシーでなくてはならない、ボクシングのナジームハメドやMMAの山本キッドや<ファイトクラブ>のタイラーダーデンや新井英樹による<シュガー>石川凛や松本大洋による、<ZERO>の五島雅のように。


そこにはSもMもある、それだけではないN個の性がある。

シヴァのように生きろ。そこには、あらゆる文学がある、女になって風呂に入り、アカで作った息子を門番に立たせ、父親役になって帰宅しようとして息子に邪魔をされ、息子と知らずに首を切り落とし、女に叱られ、次に道を通る者の首をつけて復活するから許してくれと言い、象役になって通りかかり、首を切り落とされ、息子にくっつけられる、ガネーシャのお話、その全てがシヴァの1人芝居であること。1人で何をやっとるんだ、文学をしとるんだ、遊びだ。

世界を書き換えて遊ぶ遊びをしとるんだ。

多重人格的神、これは僕にとって最も説得力を持った主の力だ。

日本が誇る精神分析学医、中井久夫氏は、精神の健康についてこう書いた。

「精神の健康とは、潜在的超多重人格者であるということです」と。

どういうことか、普通人は、無数の関係を持つ、家族、身内、親戚、同僚、親友、犬、鳥、先生、そしてその関係ごとに別の自分で向き合っている。それぞれの関係に応じた仮面を被り接している、精神的健康を持つ人はこれを難なくやれてしまうというのだ。

だから、二重人格や多重人格の問題は、その人格の少なさにあるという、無数の関係があるのに関わらず二つしか人格を持ち得ないことが障害なのだと。

僕はこの話に触れて、トランスジェンダーやフェミニズムへの問題に通じるものがあるように思う、そこで議論される性の少なさ、ドゥルーズや熊楠が指摘するようにN個あるはず、(関係の数だけあるはず)の性がLGBTといった有数の性で括られること、この文字列は止まることを知らないが、それをベクトルとして捉えるような、性はトランスするということそのものを想定しないといけない、そしてそれを健康に位置付け直すこと。性のありようもまた、健康であればこそ、潜在的超多重な性を持つことと考えるべきだ。

これはそもそも無理筋である一夫一妻性を存続させたいのなら、こう考えるしかないという提案に過ぎない、後をたたない不倫や浮気、そこでは一元的な性のありようが反復されているに過ぎない、別の人と同じセックスをするくらいなら、同じ人と別のセックスをしてはどうか、それを変態性愛と呼ぶから、別の人とセックスするという安易な道を選んでしまうのではないか。

AFやSMは幸せ家族計画に参入させるべきだ。このような性の多様性を健康の一部に組み込むことを許容できる社会であればどれだけ健全だろうか。

リビドーはシヴァのリンガに繋がっている、一回で終わるものなどない、それは道を作る、リビドーは欲求そのものを作る、アイスを作ることによって、アイス食べたいという欲望を作るように、気持ち良さを享楽することは回路を作ることだ、過去の夢精を腐女子にぶっかけることは、そういう回路を作ることだ、格闘技をしていた過去の自分から男性性を引っこ抜いて拳を挿入される女性になること、そしてこちらもまた相手への愛によって破壊しようとすること、そこには無限の恋愛がある。思いつく限り無限の、回路がある。

そして思考する、ドゥルーズやガタリやラカンや熊楠や樋口一葉のように、リビドーを書くことによって未来にわだちを引くこと。

そのわだちは過去の反復では決してない、それはカタパルト、助走するための滑走路なのだ、より高く、より早く、別の道、別の枯れない道を模索するための幾つもの水脈。はやく はやく はやく 美しく リズミカルであれ。無限に果てても果てきれないリビドーであれ。

腐女子たちよ立ち上がれ!全ての現実の男を捨て去り、果てない泉を見出す旅に出る!全ての男を掘ってメス堕ちさせてしまえ!
男は開発されるべきだ、概念の卵からもう一度産まれるために、原理主義的バイブルをスルーしてリビドーのドクドクと共に脈打ち続けるために。

実際に一冊の書物になること、そのリビドーの脈絡を文体に装備し、身を挺して文字を穿ちまくる、遺伝子をロードするように生きるためだ、僕の遺伝子にはこのように書かれていた、僕は遺伝子をロードするかのように生きている。

目前でひかれるうさぎは、誰だ?熊楠なら、これを翠点と呼ぶだろう、さまざまな縁は出来事として、錯雑とした因果の交差点において現れる。

腐女子の部屋に解体した血もそのままに転がり込んだのはなぜだ?

必然とは、偶然を意思の力によって自分の脈絡にねじ伏せることをいう。

こんな風にして俺の人生という文脈は進んでいる、起承転々 転々 転々の転のおむすびころりんネズミの穴はまだか!
そんなホールインワンを望むより、このローリングストーンズを楽しもう。
ナウローディング、現在遺伝子読み込み中、あらゆる錯雑した因果のジャングルを行き、翠点の地雷を踏みまくり、その爆風でまた偶然の胞子になって別の大地に降り立つために。。

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