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自由と旅、そのフリーウェイト


 社会性とは何かっていうと要するに自分への命令力なんだよ、自分を調教して調合して良い感じで他者との摩擦と自分との軋轢の中でブレンドしていくことだ。

ニートになってもフリーターなっても1人暮らししても旅人になっても個人事業主になっても自給自足しても、社会との接点を失うほどに直面するのは自分のバランス力だ、これは解放感とはむしろ真反対のものだ。

バーベルの動線にレールをひいた、スミスマシーンとバーベルだけのフリーウェイト、フリーと名がついてる分自由かといえばこれまた真反対であり、担いだバーベルに重たいプレートの重みを自分の足、腰で地面に反発し、腰は曲がらないよう、バーベルが旋回したり傾かないように腹回り体幹の筋肉や筋膜を全部緊張させて姿勢を維持する。スミスマシンとちがって姿勢を維持するだけですごく繊細で複雑な筋群に力を入れないといけない。

フリーとは宇宙的無重力ではない、てか船外活動中のアストロノーツを見て自由だと思えるだろうか、地球から切り抜いてきた体一個分の空気や気圧、まるで手荷物の中にすっぽり収まってしまったように、ルイスマンフォードが皮肉を込めて「人類は宇宙にパッキングされて運搬される手荷物のように進化を遂げた」という風にたしか書いてたが、この皮肉はフリーダムの新天地を目指す人間の直面する不自由のフリーウェイトに言及している。

旅の醍醐味は放物線を描くことである、放り投げられた石ころのように最初放物線のピークに至るまでの出発の地点から遠ざかる様、故郷や我が家が遠ざかる痛快さ、触れるものことごとくが新鮮で風景に対してもまだそれを観る観光客としての自分が存在する。

ところがその日にでも腹が減り、寝床を探し、体温の確保などを考えないといけなくなる(僕の無計画でほとんど小学生の家出レベルの旅はいつもそんなだ)すると背筋に走る緊張、まぁなんだかんだで3日くらいは大丈夫だ、テキトーで、もらってきたダンボールで横になる、なんとなく寝付きにくい寒さ、暑さ、まぁいい。蚊に大量に刺される、うーんまぁいい、目をつむり、夢へと急ぎたいのだが体温や虫や人の気配などが僕を夜に引きとめる。

それでも無理矢理朝に滑り込む、けだるい朝日に目の窪みに汗が湖になってることもある、寒さに5時に目覚めたりもする。目覚め最悪だ、まぁいい。そして無計画で野放図で暴力的なフリーが視野に広がる、手持ち無沙汰になり足に力が入らない、まず足を動かすほどの「意味」をありかなきかの草葉の隙間から拾い集め手繰り寄せて自分の所有とし、それで初めて一歩動ける、遍路や目的のある旅が1番楽だけれど、旅の醍醐味であるフリーウェイトをより味わうには無目的な歩き旅に勝るものはない、これはほんの数日、家から出て100キロにも満たない距離の中で自由の残虐性を骨身に沁みて感じさせてくれるだろう。

計画的旅、チケットからチケットの綱渡り、寺から寺の遍路まわり、立ち止まることなく目的に垂れ流れる旅路はまさに自分を運搬物的進化に適応したものかのように扱う、何十年または年に数回や日々の隙間に、そんな旅と親しい人たちというのは旅を自分の中の日常ルーティンのちょっとした組み替えとして人生に活かすことができる。

僕のように矢印そのものののような、病的なまでのアホからすればちょっとムカつく上手に生きてる人に思える、けれども前者が正しいのは目に見えてるし誰が考えてもそうなんだ、一体誰がご丁寧にロープをほどいてからバンジージャンプする?

けれど自由への憧れが強かった僕は、家を飛び出して放物線を描き伸び上がって高き空のクリアな空気の喉ごしを味わった分、高いところからまた放物線を描き滑空し、心臓が浮き、金玉が縮み上がり地面に叩きつけられて1週間ほどで見るも無惨な捨て犬になってる。

しかし、それに応じて僕の中で誇りは積み重なるんだ、のたうちまわる孤独と不快、不潔と空腹と弱気、それらを潜り抜けて、僕を無視して通り過ぎていく夕陽や朝日、話を聞いてくれない月に語りかけ、黒幕に空いた針穴のように人類に無関心な星々の輝きの中で僕は自分の宇宙を知る。

真に無重力で全ての感情や環境のバイアスから解放されて、自分を縛る自分へのこだわりや、一切の過去というバイアスが解きほぐれた時、僕のまんなかはどこに漂うのか、訳も分からず歩き続け、訳もわからず飲み食いし、有り余る時間の中で、何の命令も与えられない手持ち無沙汰な全身の筋肉たちが仕事をさせろと意味を与えろとやかましいのだけれど、脳みそがストライキを起こしている、そんな暇と退屈のどん詰まりのふとした瞬間。神なのか自然なのか、自分を超えたバイアスに出会う、何かに引っ張られている。

砂漠の台地に不時着したサン=テグジュペリが夜を過ごし背中を大地につけて無駄に豪華すぎる星空を世界で独り占めしている時、星々の間の黒に向かって落ちていく自分を感じたように、感情と思考の無重力のなかでどこかに墜落していく自分と出会う。

思い出すことなく、自然と流れ去っていく友人たちの笑顔、家族の優しさ、2週間ほど歩き続けた石垣島歩き旅、誰1人いない夜の岬を歩いていた時、僕は闇夜でひとり爆笑していた、過去が溢れて見知った人々の愛が、笑顔が、溢れた、その時思った。一生、孤独など存在しないと、それら笑顔や愛はかつての話なんかではなく、一緒に在る、共に歩いているんだと。

小学校の教師は時折、授業を取りやめて自由時間にしてくれた、その時いつも言うのだ「自由とは責任だ」と。自由を与える代わりにその責任を負えと、その言葉がいまだに僕から離れない、確かにそうなのかもしれない、責任とは負わされた重みだ、フリーウェイト。

いずれより良き社会戦士になる旅人もいる、俺はやりたいことやってきたから、とのたまう人もいる。卒業旅行の延長で来るべくサラリーの日々に備えて最後の放埒を味わう者もいる、だがぜひ放物線の滑空を味わってもらいたい、安吾は「堕ちぬくためには人は弱すぎる」と書いたが、それは高く飛ばないからだと僕は思う。

高く飛び放物線を描かなくては人はしっかり堕ちることができないだろう、この荷物としての体の重みだけではフリーのウェイトを味わえない、高く放り投げその高さを落ちなくては地面に穴は開かあかない。

自分を操る糸を切れるだけ切ってみないことには、ほんとの自分を操る糸の存在には出会えない、その糸がどこにつながっているのか、その引力を確かめるように生きたいのだ。


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