見出し画像

焼き芋屋さん/ 歴史と変遷



■琉球からサツマイモが伝播※

※伝播(でんぱ):  伝わり広がって行くこと。

サツマイモが琉球に来たのが1605年、1697年に琉球王より種子島へ琉球芋が譲渡されましたが試作で終わったようです。

1705年に薩摩の船乗りが琉球より琉球芋を持ち帰り試作したのが成功して、薩摩内に普及していきます。

1735年に青木昆陽が江戸でサツマイモの試作に成功し、1751年には埼玉でもサツマイモの試作が成功して後に川越いもと呼ばれるようになりました。


■焼き芋屋さんはいつごろからあるのか


1719年には京都郊外にて焼き芋を売ってお金を稼いだと記録が残されています。

この頃が焼き芋屋の元祖のようです。 1789年に大阪でサツマイモ料理集が出されています。その中でも塩焼き芋や塩蒸焼き芋が大阪の市民に人気でした。

同年に江戸に蒸し芋屋が登場してきました。焼き芋ではなく蒸し芋だったせいか、騒がれるほど人気はありませんでした。

ところが、1793年に焼き芋屋が登場すると瞬く間に人気を呼び、江戸のあちこちに焼き芋屋が登場しました。

江戸に住む人々の心をつかみ、冬のおやつは焼き芋が定着したようです。

江戸で焼き芋が大人気となった理由は、甘くて美味しいだけではなく値段が安かったのも理由です。江戸時代は最も安い食べ物が焼き芋でした。

江戸時代が終わり明治の世になる頃には、芋を焼く大きなかまどをいくつも用意して大量の焼き芋を作る大型の店が多く出店しました。

その当時は米が高騰していて、低所得者層は米を買いにくい状況でした。

ところが、サツマイモの価格は米の価格が高騰しても大して変化はありませんでした。 そのため、焼き芋を米の代わりに食べる人が急増したようです。


■大戦後の焼き芋屋さん

太平洋戦争が起きた直後は、サツマイモが国の統括する品となってしまい、自由な売買ができなくなり焼き芋屋は営業できませんでした。

サツマイモを自由に扱えるようになるのは1950年からです。 この頃から、芋を焼く道具をリヤカーにのせた石焼き芋屋が出てきます。

初期の頃もあちこちに移動して営業をするスタイルが顧客に好評でよく売れたそうです。

石焼き芋屋には親方と売り子がいました。売り子は東北や新潟の農家の方達の出稼ぎが多くいました。

季節が冬になれば必ずやってくるという人も多くいました。東京に売り子40人を持つという親方もいたようです。

石焼き芋屋は東京では大好評で、リヤカーを使うとどこへ行ってもお客に巡り合えました。普通のリヤカーでは重すぎるので、鉄工所へ特別発注して作ってもらったリヤカーを使っていたそうです。

ところが、1970年代になると石焼き芋は、海外企業の日本国内への進出、外食産業の発展、コンビニの登場などで落ち目になっていきます。

廃業を余儀なくされる人も出てきました。時代は再び変化して平成の世の中になっていきます。


■現在の焼き芋屋さん

石焼き芋屋さんは、現在も無くなったわけではありません。店の数は少ないですが、いまも存在しています。冬になれば石焼き芋と鳴らす音は今でも各地で健在です。

その石焼き芋屋さんに、安納芋(あんのういも)の登場で変化が起きます。 安納芋が登場したのは2000年に入ってからです。

安納芋はサツマイモの改良研究で生み出されました。甘さは芋の中でも高いですがカロリーは他のどの芋よりも低いです。

安納芋は、食物繊維も豊富に含まれておりダイエットにも最適な食べ物です。女性の方にも人気の芋です。

安納芋の名前の由来は、種子島の安納地域で栽培が始まり、日本各地に拡大していったので安納の名前を取って安納芋と呼ばれるようになったそうです。

焼き芋の種類も時代の変化で様変わりしました。安納芋は美味しい焼き芋として東京などで人気があります。

冬に甘くて美味しい焼き芋を食べる習慣は、現在になっても生き続けています。


参照元:  「むらさきマート」Webサイト

以上


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?