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「日本橋の問屋街」の歴史

江戸期、水陸の交通の要衝であった日本橋は、問屋街としても発展した



江戸期、水陸の交通の要衝であった日本橋は、問屋街としても発展した。


特に「日光・奥州道中」沿いは、繊維、薬などの問屋街が発展し、その歴史は現在に至るまで引き継がれている。

古くから木綿を中心に扱う商人であった「伊勢商人」は、江戸でも多くの木綿問屋を開き、大伝馬町には「木綿店(もめんだな)」とも呼ばれる問屋街が形成された。




〈目次〉
1.木綿問屋が軒を連ねた大伝馬町
2.『くすりの街』として発展した日本橋本町
3. 江戸最大の旅館街として発展した馬喰町

1.木綿問屋が軒を連ねた大伝馬町

1843(天保14)年~1847(弘化4)年に描かれた、
歌川広重の『東都大伝馬街繁栄之図』


徳川家康の江戸入府以降、運送を担う「伝馬役」が暮らす地区は「江戸城」内に置かれたが、1606(慶長11)年に移転となり、日本橋の北側には大伝馬町が開かれた。

大伝馬町は、五街道のうちの二つ、「日光・奥州道中」が町を貫く陸運の拠点でもあり、次第に問屋や商店が立地し、商業地として賑わいを見せるようになった。

特に、大伝馬町一丁目(現・日本橋本町二・三丁目)には、主に伊勢・松阪出身の商人が経営する木綿問屋が集まり、「木綿店」とも呼ばれる問屋街として発展した。

図は1843(天保14)年~1847(弘化4)年に描かれた、歌川広重の『東都大伝馬街繁栄之図』。

中央の道が「日光・奥州道中」で、道沿いに木綿問屋が軒を連ねている。

右奥付近に描かれている店は1653(承応2)年創業の「小津屋」で、当時は紙・木綿の問屋であった。

享保年間頃から呉服店も木綿問屋に進出するようになり、1805(文化2)年には尾張出身の「伊藤屋(松坂屋)」(図では右から3番目の店舗)も出店している。

現在の日本橋大伝馬町


1904(明治37)年、「日光・奥州道中」の北側に並行する、現在の「江戸通り」に路面電車が開通すると、徐々に人の流れが変わり、大伝馬町の賑わいは失われていった。

「太平洋戦争」中の「東京大空襲」で一帯は全焼したが、戦後には繊維問屋などが集まる街として復興、現在も多くの繊維問屋が営業している。

写真は現在の同地点付近の様子。『東都大伝馬街繁栄之図』に描かれていた「小津屋」は、現在も同じ場所で和紙専門店「小津和紙」として営業を続けている。


2. 『くすりの街』として発展した日本橋本町

江戸末期に長谷川雪旦が描いた
『江戸名所図会 本町薬種店』


日本橋の本町は、1590(天正18)年、徳川家康の江戸入国後、最初に開かれた町人地。 

「常盤橋」から本町、大伝馬町を通り「浅草橋」を結ぶ「本町筋」(前述の「日光・奥州道中」の一部でもある)は江戸を代表する通りでもあった。

江戸開府後、幕府は全国から集まった商工業者に対して同職集住を求め、「薬種商」は当時の本町三丁目(現・日本橋本町二・三丁目)付近に集められたため、薬の商取引の中心地として発展した。

図は江戸末期に長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 本町薬種店』。

「いわしや 松本市左衛門」の店頭が描かれている。「いわしや」は江戸期の江戸に多かった「薬種店」の屋号で、由来は堺(現・大阪府堺市)の鰯の網元でもあった松本市左衛門が江戸に出店したためともいわれている。

現在の日本橋本町
中央のビルには「武田薬品工業」の
グローバル本社が入っている



明治期に入ると、本町の「薬種問屋」は西洋の薬を扱ったり、医療器械の製造に転換するなど、時代の変化に対応した。

一帯は1923(大正12)年の「関東大震災」では大きな被害を受け、昭和初期には震災復興の区画整理も行われたが、復興後も引き続きの『くすりの街』として発展した。

写真は現在の日本橋本町。江戸期のような賑わいはないが、現在も江戸期からの老舗、日本を代表する製薬会社など、多くの製薬会社・問屋や医療関連の会社が集まる。

『江戸名所図会』で描かれた「いわしや 松本市左衛門」があった場所は写真中央のビル付近と推定される。

現在、このビルには日本最大の製薬会社である「武田薬品工業」のグローバル本社が入っている。

「薬祖神社」



「東京薬種貿易商同業組合(現「東京薬事協会」)は1908(明治41)年に上野の「五條天神社」から「薬祖神」を勧請、1929(昭和4)年に初代社殿を造営し「薬祖神社」とした。

1983(昭和58)年に二代目社殿へ遷座したのち、2016(平成28)年に「福徳の森」の一画に造営された三代目社殿(写真)へ遷座している。写真左後方の高層ビルが前述の「武田グローバル本社」。



3.江戸最大の旅館街として発展した馬喰町

江戸末期に長谷川雪旦が描いた
『江戸名所図会 馬喰町馬場』


馬喰町は、江戸初期より馬市が開かれた町で、「博労」(ばくろう、馬の仲買人)が住んでおり、当初は博労町と呼ばれた。

江戸で唯一、馬の売買が認められた場所で、江戸で最古の馬場「初音の馬場」(図中央)もあった。

この馬場は、1657(明暦3)年の「明暦の大火」以降縮小され、明治期に取り壊された。

図は江戸末期に長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 馬喰町馬場』。

「明暦の大火」後、関東一円にあった幕府の直轄地の管理を行う「関東郡代」の役宅が、「江戸城」の「常盤橋門」内から「浅草橋」の南詰付近(図左奥付近)へ移転してきた。

ここでは「公事」(くじ、現在の民事訴訟に相当)などが行われたため、関東の各地から訴訟のため上京する人が集まるようになった。

馬喰町の通り沿いには、「公事」で上京した人が投宿する「公事宿」(図右端付近にあった)が発展、江戸最大の旅館街となり、江戸後期になると、一帯は江戸土産として小間物、化粧品、煙草などを扱う商店・問屋も軒を並べるようになっていた。

「関東郡代」は1806(文化3)年に廃止、跡地は「馬喰町御用屋敷」(幕府の公金貸付の役所、馬場の左奥の建物)となった。 

日本橋馬喰町一丁目付近


馬喰町一帯は、明治期に入っても、多くの旅人が訪れる町であったが、「公事」の廃止や、交通手段の変化などから次第に旅館業は衰退、その一方で問屋業は発展し、特に衣料品の問屋が増え、隣接する「横山町」ともに、東京有数の問屋街となった。

写真は現在の日本橋馬喰町一丁目付近。江戸期には右手に「初音の馬場」、左手奥に「馬喰町御用屋敷」があった。


4.横山町の問屋街

1930(昭和5)年頃の横山町の問屋街


横山町は「日光・奥州道中」沿いの町で、江戸初期には南に「浅草御堂」(「明暦の大火」で築地へ移転、現「築地本願寺」)もあったことから、江戸有数の商業地として発展した。

明治期以降は、隣接する馬喰町とともに、特に衣料品の問屋街として発展した。写真は1930(昭和5)年頃の横山町の問屋街。

1959(昭和34)年頃の「横山町問屋街」


写真は1959(昭和34)年頃の「横山町問屋街」。戦前の写真とほぼ同じ場所から撮影されている。

現在の「横山町問屋街」


現在も、横山町は隣接する馬喰町とともに、問屋街として賑わうほか、オフィス街としても発展している。写真は現在の「横山町問屋街」。

1945(昭和20)年、「太平洋戦争」の終戦間際の頃の
横山町・馬喰町一帯



横山町・馬喰町一帯は「関東大震災」で、さらに「太平洋戦争」中の空襲で大きな被害を受けた。

写真は1945(昭和20)年、「太平洋戦争」の終戦間際の頃の様子。左下の橋が、旧「日光・奥州道中」の「緑橋」で、この通り沿い一帯に問屋街が広がっていた。

現在の「緑橋」跡地付近
奥が横山町方面



「緑橋」が架けられていた「浜町川」は、江戸初期から前期に開削された運河であったが、戦後、空襲の残土で埋立てられた。写真は「緑橋」跡地付近の現在の様子で、奥が横山町方面。



引用元: 「三井住友不動産」webサイト

以上

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