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修験道とはなにか(山伏/山岳信仰)



〈目次〉
1.修験道(しゅげんどう)とは
2.修験道の歴史 
3.現在の修験道

1.修験道(しゅげんどう)とは
修験道は、山を聖域と見、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得、その力によって自他の救済を目指そうとする山岳信仰の宗教です。

このようなことから、修験(※)を「山伏(やまぶし)」と言うこともあります。修験との名称は、その字の如く、「修行して験力を顕す道※」であるということから名づけられたものです。

※ 修験(しゅげん):  山野や霊山・霊地で苦行 を積み、霊験のある法力を身につけること。

※ 験力(げんりき):  功徳のしるしが現れること。 

※ 顕す(あらわす):  何かの形で、善行などを広く世間に知らせる。

修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきました。

修験道の教義や世界観、修行方法は、ほとんどの場合、仏教、とりわけ密教のものが取り入れられており、そのため仏教や密教についての知識がなければ、まず修験道を理解することは出来ません。しかし、では「修験道=仏教」かというと、そうとは言えません。

これは、中世より修験道を伝えたのが、役行者※のような在俗※の者だけではなく、仏教僧のなかでもとりわけ密教僧が主体であったためです。よって、「修験道は仏教の一部」と見なされる場合が多く、修験道を仏教の修行法の一つとして考えられています。

※役行者(えんのぎょうしゃ):  奈良時代の山岳呪術者。修験道の祖。

※在欲(ざいよく):  出家しないで俗人(※)のままでいること。

※俗人(ぞくじん): 僧に対して、世間一般の人

修験道とは、日本古来のきわめて漠然とした宗教的心情を、主に仏教の思想体系によって整理し、さらにその他の宗教をも換骨奪胎(※)して形成されてきた「日本独自の宗教」である、と捉えるのが妥当かもしれません。

※換骨奪胎(かんこつだったい):   《骨を取り換え、胎こぶくろを取ってわが物として使う意》先人の詩や文章などの着想・形式などを借用し、新味を加えて独自の作品にすること。


2.修験道の歴史

修験道は、7~8世紀に大和葛城山で活動していた呪術者、「役小角(えんのおづの)」によって開創されたと伝承されています。

もっとも、現実には、役小角が当初、具体的にどのような思想を持ち、どのような修行を行っていたかは、ただ葛城山の中に住んで呪術を駆使していることが知られているだけで、詳しいことはわかっていません。
そして、そのような役小角は、弟子の讒言(※)より島流しに処されたことが伝えられています(『続日本記』※)。

※讒言(ざんげん):  事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。「讒言されて不遇の身となる」。

※続日本記:  『日本書紀』に次いで編修された勅撰国史(天皇の命令で記された国史)。

又、奈良中期から末期にかけて、仏教僧の中に山林修行を行う者が多数現れました。

平安期初頭に密教が日本に伝えられると、修験道は、主に密教の僧侶による主導のもと、仏教のなかでも特に密教の体系的な思想と修行法を導入した、「仏教の一派」「仏教の修行法の一つ」とも言い得るものになっていきました。

現在、修験道の当山派と本山派という二大流派の派祖として崇められている聖宝と増誉は、それぞれ真言密教僧と天台密教僧です。

奈良時代には、山林修行は国家から危険視されて規制の対象となり、山林修行者は社会からも賤民※として扱われていました。

賤民(せんみん):  社会的に最下層に置かれて差別された人々。

しかし、真言密教を初めて日本に伝えた空海や、天台宗の密教を伝えるために唐に渡った、円仁(えんにん)・円珍(えんちん)などによって、密教が隆盛を迎えるようになった平安期になると、貴族達などから、むしろその験力、呪力などによる現世利益が期待される存在となり、ある程度の社会的地位が約束されるようになりました

鎌倉初期には、必ずしも僧侶でない一般の山林修行者達が、修験道独自の集団を形成していき、次第に神道や陰陽道(※)などさまざまな宗教の思想を取り込みつつ、民衆の支持を集めていくようになりました。

陰陽道(おんようどう):  中国伝来の陰陽五行説に基づき、天文・暦数・卜筮ぼくぜいなどの知識を用いて吉凶・禍福を占う方術。朝廷は早くからこれを採用、陰陽寮を設け、平安時代には全盛を極めた。

そして、その修行や活動拠点は、葛城山・大峰山・金峯山・熊野三山だけでなく、富士山・羽黒山・彦山・御嶽山・大山・白山など全国各地に広がりを見せ、それぞれが独自の教義や一定の組織を持つに至りました。

しかし、江戸幕府が開かれると、幕府の意向によって、それら全国各地に展開していた修験者たちは、一部を除いて、真言系の当山派か天台系の本山派の、何れかの派に所属させられることになりました。

明治維新を迎えると、国家神道の(「神道とは宗教のような低俗なものでなく、より普遍的科学的な人の道」とする)建前上、神道を含んだ様々な宗教の混淆(※)ある修験道は、容認できるものでなかったため、明治元年(1868)から明治5年(1872)にかけての太政官達によって、公式には廃止されます。

※混淆(こんこう):  さまざまの違うものがいりまじること。また、いりまぜること。

しかし、それまで修験道を支持していた人々の信仰や、祭祀などの慣習まで廃することは出来ず、また修験道側も、組織として真言宗醍醐派や天台宗寺門派に属してその命脈を保とうとするなど、なんらかの形で存続しました。

そして、昭和の大戦後、修験道諸流は、それぞれが宗教法人格を取得するなどして、一個の独立した宗教として復活することになりました。

3.現在の修験道
平成16年7月1日に、大峯山・熊野三山・高野山の三つの霊場と、大峯奥駆道・熊野古道・高野山町石道の三つの参詣道が、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。


修験道は、日本古来の、そして現代にも息づく宗教であり、日本文化の一端を担う大きな存在なのです。


参照元: 「役行者霊蹟札所会」ホームページ

以上

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