なぜ人は太宰に熱狂するのか

小6で太宰に出逢い、大学で近代日本文学を勉強して、社会人になった今でも辛い時は太宰の短編集を手にする私が、太宰治って何が凄いのか、書きたいと思います。n回目?

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まず、メンヘラホイホイなんでしょ、みたいな見方がされがちですが、それはそうです。けれど、太宰の本当に怖い所は、メンヘラじゃない人もホイホイな所です。まず私はメンヘラという言葉が嫌いで、それは人の繊細さを「弄る」なんて本来あってはならないことだと思うからです。あと人によって定義が違う言葉を共通言語みたいに使うことに違和感があるので、「メンヘラ」という言葉を使うことにも本当は抵抗があります。だいたい何だよメンヘラって。人類全員メンヘラだし全員メンヘラじゃないとも言えるだろ。と思います。太宰を読んでいると、特に。しかしここでは「太宰の恋愛フィロソフィーに共感出来得ると思っている人」のことをメンヘラと定義します。しかし只のメンヘラホイホイならば人はそんなに熱狂はしないのです。太宰作品の、「堕ちる美学」「斜陽」「ダメ男に貢献する美人」みたいなパブリックイメージ。それはそう、って感じ。でもそれはそうとして、別にそれだけだったらこんなに売れないし、偉い学者たちがわざわざ研究しないんですよね。芸術を売れる売れないで書くのも憚られるのですが…

近代日本の文壇という所は、今よりもっと社会と密接に関わりのあった場所でした。近代文学論争と言えば「内容的価値論争」ですが、菊池寛はこう言いました。

私の理想の作品と云へば、内容的価値と芸術的価値とを共有した作品である。語を換へて云へば、われ々の芸術的評価に及第するとともに、われ々の内容的評価に及第する作品である。

つまり、菊池寛は、小説には、芸術的表現価値と、作品の素材、題材に基づく内容的価値があるとした上で、「理想の作品」とは、「表現」「内容」そのどちらもを携えたものであると言っているのです。大論争の口火を切った菊池!様々な持論を述べる文豪たち!
芥川は「話らしい話のない」小説こそ純粋な小説ではないかと論じ(それだけが至高なんてことは言ってないが)、それに対して谷崎が「話の筋の面白さ、構造性こそ小説の持つ芸術的価値だ!(要約)」と言ったり、お互いまた反論したりしているうちに芥川が自殺してしまって断ち切れになったり、プロ文勢や小林秀雄なんかも参戦してきたりして、とにかく近代に於いて、「小説における芸術価値とは結局、表現か内容か?」という問題は議論の中心であり、文芸の永遠のテーマとなりました。

現代日本における純文学では、「話らしい話のない」小説が多いです。だから、純文学=「よくわからない話」っていうイメージが付いてしまっていて、とっつき辛いと思います。近代にこういう大論争を経た末の、現代文学なのです。

私は、(私は)この、内容的価値論争に1つの終止符を打った天才こそが太宰であると思います。

太宰の作品は、面白いのです。谷崎の言う所の、話の筋が面白い。『斜陽』『葉桜と魔笛』『メリイクリスマス』『燈篭』なんかのシナリオの面白さは秀逸だと思います。『斜陽』なんか、一章毎にジャンプ漫画さながらの「次どうなっちゃうの?!」感。その上、勿論表現の美しさも唯一無二。

人間は、みな、同じものだ。
 これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。
ー『斜陽』

芥川は志賀を評価しましたが、志賀は、太宰の作品を「年の若い人には好いだろうが僕は嫌いだ。とぼけて居るね。あのポーズが好きになれない。」と評します。(それに大反発したのが『如是我聞』)
この文章は美しいのか?退廃的なだけ?どういう感想を抱くでしょうか?

どおん、どおん、と春の土の底の底から、まるで十万億土から響いて来るように、幽かな、けれども、おそろしく幅のひろい、まるで地獄の底で大きな大きな太鼓でも打ち鳴らしているような、おどろおどろした物音が、絶え間なく響いて来て、私には、その恐しい物音が、なんであるか、わからず、ほんとうにもう自分が狂ってしまったのではないか、と思い、そのまま、からだが凝結して立ちすくみ、突然わあっ! と大声が出て、立って居られずぺたんと草原に坐って、思い切って泣いてしまいました。
ー『葉桜と魔笛』

私は、(こんな一文がありますか?)と思います。村上春樹の文体が発明であるのと同じように、この文体は太宰の発明です。
・細かい読点で繋ぐ長い一文
・一人称単数視点の敬語
どの太宰作品にも割と共通する文体です。漱石や芥川や志賀には出来ないけど太宰には出来た、クリエイターとしての個性です。

表現も内容もどちらも網羅した小説という点に於いて、太宰は近代の文豪の中では抜きん出ていると私は思います。只どうしようもなく精神を病んで、只どうしようもなく女好きになったわけじゃない。彼は誰よりも自分が残酷に傷付けてきた女性たちの気持ちを、弱き者の気持ちを理解しようとして、描き続けた。先人たちが激論してきた小説論の先へ行く気概が、何なら文壇を背負う気概があったとさえ思います。そのために、小説のために、「わざと」太宰らしさをオーバーに演じて、そしたら坂から転げ落ちるように「そうなった」だけ。太宰の芸術論を読んでいると、小説と比べてあまりに冷静なので、芥川の『地獄変』に通ずる芸術至上主義者だということが、研究すればするほどわかってきます。

でも、だからと言って、妻を泣かせて傷付けたり、女性と一緒に心中したりすることが、太宰の言う弱者の救済になるかというと、それもきっと違いますね。檀一雄は「彼の文芸は、彼の自殺をまたねば成就を見ない。」と言いました。(それに対して反論?しているのがこのnote)よく考えると、そんなことはないはずなのに。誰よりも弱き者の理解者でありたいと思っているのに、小説のために人生に劇的な事件を起こさねばならない。この強迫観念が、彼自身の首を絞めてしまったのだと思います。矛盾が、太宰と彼の作品には凝縮されています。というか抑も、人生は、理路整然としていない。彼の人生には性暴力・父性、母性の渇望・同性愛・芥川の自殺・革命思想・キリスト教思想・階級問題・実家からの勘当・文壇からの批判・薬物依存・アルコール依存…の要素があったのではと言われています。自然発生的なものも、そうでないものも、それらがぐちゃぐちゃに混ざって、そのカルマの中から生まれたものこそ、彼の小説だと思います。
なのに、文体は理路整然としている。このギャップこそ、天才の所業。


色々言ってきましたが、まあ太宰本人がこの文章を読んだところで「いや違う。全く違う。僕の小説は…」などと言われそうでウケるね

現代の日本は、太宰が望んだような世界には全くなっていないけれど、太宰が残した作品は現代人を救い続けています。ありがとう。




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