本当に太宰の文芸は自殺をまたねば成就を見ないのか? 檀一雄という人間

「太宰よ!45人の追悼文集:さよならの言葉に変えて」が届いた。

表紙に、檀一雄の「彼の文芸は、彼の自殺をまたねば成就を見ない。」という言葉が書いてある。

これを見た瞬間「そんなことないよ!」と言った。(言った)

酷すぎる。太宰の自殺が、文芸の為であったこと、まあわかる、けど、太宰が自殺をしなくっても、とっくに成就しておりましたし、よりによって檀一雄は、檀一雄だけはこんなこと言ってはだめ、じゃないですか?

檀一雄と太宰の関係性だからこそ言ったのだろう、けれど、檀一雄だからこそ言ってはだめだと思った。

しかし、もしかしたら檀一雄は、みんなの母親役をやることに疲れていたのではないか?太宰の死で、彼が彼の役割から少し解放された、ということはないか?

檀一雄的な人は、必ず檀一雄みたいになるけれど、いかんせん人間はままならないので、檀一雄的な人は常に檀一雄的であることに疲弊している。

こういうのは常識がどうとかそういう問題ではない。ペースの問題だ。

檀一雄は人にペースを合わせられる人間で、安吾や太宰のようなのは絶対に自分のペースを変えられないのだ。安吾が言うように、もしかしたら常識がある普通の人間なのは太宰や安吾なのかもしれない。檀一雄はそれこそ「そんなことない」とキレるでしょうが…

しかし、そう思うよ。ごめんなさい、檀一雄。「酷すぎる」なんて思った上に太宰や安吾の方が常識があるなどと言ってしまって…本当に、申し訳無い…

太宰や安吾側の人間か、檀一雄側の人間かどちらが良いかって言うと、きっとどちらにも各々の幸福が、そして各々の絶望があるのでそんなことはどうでも良くて、私はどちらかって言うと太宰側の人間なんですよ、自己愛の形がかなり似ている。だから、檀一雄のような人間を散々振り回した結果、死後に「太宰の文芸は自殺を以って完遂する」みたいなことを言われる羽目になるんだ。なんてことだ。でもこれは世の理だ。「世の理」なんかで片付けて良い話なのか???

そんなことを言い始めると、「無頼派」なんてそのものが抽象的テロ集団的な所があるので、やはり物語や、無頼派が言葉を紡ぐと言うこと自体が、危険行為だとも言える。

この文集にも掲載されている安吾の「不良少年とキリスト」は一文字残らず「それな」「激しく同意」としか思えなかった。

人間性の問題かもしれない…?



#文学 #太宰治 #檀一雄  


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