村上春樹「一人称単数」『謝肉祭』感想

村上春樹「一人称単数」では、『謝肉祭(Carnival)』が良かったのだけれど。

ネタバレ注意

シンプルに言うと全てにおいて「急に何?」という話。いつものセックスも無しに、とにかく見た目が醜い女と、無人島に一つ持っていくピアノソナタは何?という議題でシューマンの「謝肉祭」に決定して、「謝肉祭」友達になって、急に連絡が取れなくなったと思えば、ある日ニュースで彼女と彼女の夫が詐欺で逮捕されている様子を見て、夫が美形男性でビックリする……

という。本当に、他の短編を読み進めてからの『謝肉祭』が来て、急に何?というのがずっと続く。こういうのは村上春樹作品には珍しいかなと思う。村上春樹作品で「急に何?」なんて思ったことはほぼ無くて、基本的には「うん、うん。」と頷きながら読み進めていくくらいに我々は村上春樹慣れをしていて、それがワールドスタンダードになっているのだ。別にハルキストで無くっても。
作中に出てくるピアノソナタに対する2人の評価がめちゃくちゃに見えるけれどあまりに説得力があって笑ってしまった。本当に、無人島に持っていくべきピアノソナタは「謝肉祭」かもしれない。田村由美『7 SEEDS』にユキという音楽を奏でることが出来るキャラが居たことや、渡瀬悠宇『ふしぎ遊戯』に笛吹きの亢宿が居たことは、NO MUSIC NO LIFEの根拠になるのだけれど(?)、それを思い出した。

村上春樹の女性の外見描写はいつもわりと酷いけれど、今回は特に酷い。「知り合った中で最も醜い女性」決して憎い人を傷つけるために言っているわけではない(多分)、というのが怖い。こういう表現は、日本の近代小説じみている。小説の中で、男性が女性という生物をまるで特別なものみたいに書く姿勢自体令和ではもう違和感がある。(ちなみに私はよく「ファムファタールなど居ない」論を主張している。女性を特別視したがる気持ちもわかるけど、女性側は普通に生きてるだけなんですよね。社交辞令もボディタッチも嘘も露出も上目遣いもアヒル口も彼氏の乗り換えも、全部「ただ、生きている」の内なのですよ…)更に見た目の欠点を詳しく書く、というのは太宰がよくやる表象だ。別に違和感の無い表現をしろという話ではなくて、フェミニズムやルッキズムにおける問題提起の為にこれをわざとやっていると言うことが、全読者わかっていないと、問題が前に進まないという危険を孕んでいる。これは何度も言うけれど、物語を紡ぐこと自体かなりの危険を孕んだ作業なので、読者側もそういう意識で読まなければダメだし、紡ぐ側には特別な、皆が知らない資格が要るのだ。こういう本音をあるルールに従って言っても良い人、というのは居るかもしれないけれどほんの少しの限られた人間なのだ。大いなる自由の為に、人の外見の欠点について自由に論ずることは、基本的には公の場ではしてはならないのだ。『謝肉祭』では女性の見た目の醜さ・社会との関わり方の醜さを描くことによって、美しいとは、何か?という疑問もついでに投げかけて来ている。

よく純文学ってセックスしか描いてないじゃんとか、現代アートって何が芸術なのとか、何が美しいの?なーんて言われがちだけれど、

全ての芸術は、エロスに繋がっている。その中でも現実をありありと描くことに注視してきた現代日本文学は、表面だけ掬い上げれば何も見えてこないので、奥の奥まで探る必要がある。本当はね…

ただ美しいものを見たいだけの人間は、そりゃ浅田真央の『仮面舞踏会』とか、吉田都の『金平糖』とか、モネやルノアールとか、宮沢賢治とか泉鏡花とかショパンのピアノソナタだけに触れていれば良いのでは無いですか…と思うね。私は全然それらだけに触れて終わる1日もたくさんあるよ。そこはシューマンのピアノソナタではない。無人島にただ美しいものは持っていかない。持っていけない。本当に、ただ美しいものだけを見ていて、正気を保てるか?というのがある。ただ美しいものを見ていると、あまりの美しさに心が苦しく細くなって、涙が出て、気が狂いそうになるんですよね。そういう時のための、救いとなる芸術も、なきゃね。



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