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同じ場所に立ち、自分の変化に気付く

今住んでいる所は、偶然にも会社員時代、出張で度々訪れていた場所でもある。

週末、駅前を歩いていると、その日はもう初夏の暑さで、その暑さが出張で訪れていた頃の記憶とリンクして、パラレルワールドよろしく、当時同じ場所に立っていた自分自身がすぐ側に感じられる気がした。

出張で訪れていた頃、新幹線を降りてバス停留所まで向かうまでの道のりは、会社があった場所よりも何倍も暑く感じられて、それだけで随分遠い所へやって来た感覚があった。

アスファルトの上に透明の歪みが見える位暑い日もあった。スーツの中に汗をかきながら、目的地へのバスの乗降場所を間違えないようにと気を付けて、バスに無事に乗れても、なんとなく落ち着かない。

地理が全く分からないので、流れていく車窓の変化が正しいものなのか確信が持てないし、見たことのない学生服の女子生徒達が笑い合っていることも、会話の端々に聞いたことのない方言が混ざっていることにも、自分が知らない土地に居ることを思い知らされた。

今はといえば、当時の各目的地の位置がぱっと頭の中の市内地図と結び付くし、どこもかしこも車を運転する時に横目に見ることが多々ある。当時、毎回アポイント時間に間に合うか、無事に着くかと、都度緊張していた私に「大丈夫だよ」と言ってあげたい。

あの頃と同じ駅前で、同じ目的地の前で、私はもう居ない過去の私と出会う。あの時の漠然とした不安感とアウェイ感の中で見つめた場所、空気感と、いま何のプレッシャーもなく目の前にするそれらは全くの別物だ。

これと同じ感じを最近感じたのを思い出して、よくよく紐解けばそれは今の勤め先の薬局のことで、最初に面接と合わせて見学させてもらって「見た」内部と今日々仕事をしていて目にするものは殆ど同じ筈なのに、何かもう違う。

それから娘に「きりんさんはどれ?」と聞いて、調子が良い時は「きりんさん」を指差すけれど、眠たい時や集中力が切れてくると「ぞうさん」を指差すことも思い出した。

娘にとって、「きりんさん」はまだ確定事項ではなくて、「きりんさん」と「ぞうさん」の境界は曖昧だ。

それでも日々「きりんさん」が首の長い黄色の動物であることを知り、「きりんさん」を指差す確率は上がっている。

私はもう「きりん」と言われて、「きりん」か「ぞう」か迷うことはないと思うけれど、それはいつの日か自分の中で固定されたものなんだなと改めて感じる。

同じ人間でも、日々見聞きして、知って、考えて、変わってゆく。そして、目の前のものに対する見方、感じ方も然り。

同時に、「慣れる」ことで、見えなくなるもの、見えてくるものもある気がする。

同じ場所に立ち、自分の変化に気付く。
最近、そんな経験をした。

サポート頂けましたら、自分へのご褒美スイーツを買いたいです!そして次なるパワーに変えて、もっと良い文章を書きます(^-^)/