生意気なことに本読みですが、読書垢界隈があまり好きじゃないんです。

○○の○✕、読了。非常に美しく今でも余韻が抜けない…特にヒロインが優美だった。私も紙越しに彼女に触れた気がした。素晴らしい作品だった。

↑例え話

とかを書く人に、私はなりたくないからです。私はそういうの苦手だからです。

ここでは書いていないけれど物語テラーなので、他の方の作品で感想イッツマイフィールをやるのは違和感があるんですよね。
だったら自我を書きたい。私は。



大切な感情は私だけのものにしたい。

2023/10/21の私


でも哲学系ならいいかな?と最近思うのです。

物事を深く深く推敲して潜っていく思考の中に、サラサラストレートヘアーのうら若きおなごもおのこも出てこないでしょう?


普段卑屈なロック魂で未来へCarry Onザ鬱!

を気ままに書いてはいるけど、勿論自分による自分のための吐き出しを曲げる気は無いけれど、他人をバッサバッサと拒絶して行くやり方ってどうなのだろうか。


私は生い立ちだか性来のものだか知らないが孤独なれしている方で、耐性が人よりあるんですね。

僭越な例えになってしまいますが、ゾルディック家に生まれたキルア・ゾルディックが毒耐性を持っているのと同じように。


でも「私は他人を必要としていませんし、あなた達がそれで幸せになるのなら私のことを勝手に評論すれば良いでしょ。馴れ合いを上手くできないのが悩みなんです。ぐずぐずうちわで話ししてるの飽きちゃうんです煽りじゃなくて。あと、勝手にしろと言ったけれど、一線を超える中傷は普通に現代人として当然の手段で対応します。いちいち言いません。当たり前ですよね?」

という全力姿勢って読む側の人にも覚悟を強いてるみたいに取られてしまうじゃないですか。
読み手に期待する!とか、そんなの疲れてしまうじゃないですか。多様な解釈があっていいのだし…。

自己と他者は別だから、私が覚悟してれば貴方は別に覚悟しなくていいんだよ?

といつも思いますが、そんなの他の人は分からないですよね。

ネトネト馴れ合うことに関しては不干渉を貫くけれど、何かの縁でノートを見つけてくれた人が

(なんかこの人容赦ないなぁ…下手に刺激したらダメそう…)って思ってモヤモヤや不安を抱えて帰っちゃうとしたら

私のやってることは不機嫌や暴言で他者を見下し威圧しているヒトと同じじゃないか。
とも思ったんですよね。

なのでぶれない意志を起きつつ、広義で啓蒙的な書籍をたまに紹介したりして、皆で深淵を思考してみましょう!私はそんなに怖い人じゃないよ!ニンゲンだよ!ってアピールしてみるのいいんじゃない?

と、いう思考。

自分の感情をほどほど小出しにしつつ、薄いベールを隔てた他人との共存ってすごく難しいと思うのですが、チャレンジしてみても良いのかも知れない。

何年も鬱屈とした記事やブログや何やらを書いたり休んだり繰り返しながら定期的に続けていたのにやり方がずっと


《ここ、わたくしこく! ぜんいん こっこう、だんぜつ! ぜんいん だーれも とおさない!》


という拒絶のスタンスだったんですよね。

振り返るとある意味凄いです。

他noteユーザーさんの動向は知りませんが、なんかまぁ、模索しながらやっていこうと思います。

オシマイ!


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