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論語の「学び」とは。

論語をテーマ別に紹介するシリーズも第四弾。

今回も野中根太郎さんの訳本を基に学んでいきます。

人からよく学びつつ、自分でもよく考える


教わるばかりで、自分で考えることが少ないと力がつかない。自分で考えてばかりで、人に学ばないようだと、考えが偏るので危険このうえない。

為政第二・三十一

バランス感覚を保つ。偏りはよくないというのが論語の根底にあると僕は思う。特に学びは狭窄した視野では考えが上書きされず、時代に取り残された使えない知識に留まってしまう。

論語読みの論語知らずとはよく言ったものだ。

流行ばかりを追わず、基本を無視しないこと


基本を無視して、本質とは違う偏ったものばかりを学んでも、弊害になるだけだ。

為政第二・三十二

理解していることと理解していないことを区別する


孔子先生が由(弟子)に向かって言われた。

お前に『知る』ということの正しい意味を教えよう。知っていることを知っているとし、知らないことを『知らない』とはっきり区別できることが『知る』ということだ。

為政第二・三十三

本をよく読み、自分を高め、礼を忘れない人は正しく成長する


君子は、広く書物を読んで学び(こうして他者、先人に教養と学問をよく学び)、それを実生活で礼を失わないように実践していけば、正しい道(人生)を歩んでいけるだろう。

雍也第六・百四十四 及び 顔淵・第十二

幅広く学ぶ


孔子先生はとくに四つのことを教えられた。
1.古典の実践
2.徳の実践
3.誠実な心の持ち方
4.人を欺かない信義の大切さ

述而第七・百七十一

まず何のために学ぶかというと、それは自分を高めるためである


昔の学ぶ人は、自分を高めていくために日々がんばって修養した。

今の学ぶ人の多くは、人に知られ、うまく用いられようとがんばっているようだ。

憲問第十四・三百五十七

少しずれるかもしれないが、最近の若い人には教養を手軽に手に入れようとする風潮があるらしい。

自分で学んだものならどのようにでも加工できる。しかし、誰かの受け売りから学んだつもりになっているものは、ギニュー隊長が悟空の体と取り替えてうまく使いこなせないようなものだ。

自分で確かめる


大勢の人が悪く言っていても、必ず自分でよく調べなくてはいけない。

大勢の人が良いと言っていても、必ず自分でよく調べなくてはならない。

衛霊公第十五・四百五

自分で考えて答えを出す。とりあえずでもいい。その積み重ねがその人を造る。自己修養のために学ぶのは損得からではない。

ふと『自助論』の一節が浮かんだので紹介する。

莫大な資産価値を持つ土地は、親から譲り受けられるかもしれない。しかし、知識や分別はそうはいかない。

金持ちは、他人に金を払って自分のために働かせることはできても、他人から自分のためになる思慮分別を買い取れはしないのだ。

自助論・竹内均訳

指先一つで誰でも知ることができる知識は知っておいて損は無いかもしれない。しかし、僕はその人にしかない考えにこそ知性を感じる。知識の整頓はAI技術がなし得る時代。論語に何が書いてあるかは検索すれば出てくるが、それをどう自分の人生に活かすか、それこそが古典から学ぶことではないだろうか。

先達や他人に学んで進歩する


私はかつて一日中食事もとらず、一晩中寝ずに思索に励んだことがあるが、大して得ることがなかった。やはり、先達の人に学んで手本とすることには及ばないようだ。

衛霊公第十五・四百八

どんな学問や研究も、それ自体をどう使えばいいかについては教えてくれない。その一方、現実生活をよく観察すれば、学問によらずとも学問にまさる知恵を身につけることができる。

人間は読書ではなく労働によって自己を完成させる。つまり、人間を向上させるのは文学ではなく生活であり、学問ではなく行動であり、そして伝記ではなくその人の人間性なのである。

(中略)極めて貧しい境遇にも関わらず最高の地位に上りつめた人物の例を見れば、どんなに厳しく克服しがたいような困難さえ、人間が成功する上での障害とはならないと、はっきり分かる。多くの場合このような困難は逆に人を助ける。

自助論

教育で人は違ってくる


人は教育、学習によっては違いは出るが、生まれつきによる類別、差などはない。

衛霊公第十五・四百十九 及び 陽貨第十七・四百三十五

環境や経済力により受けられる教育もあるのは確か。それは才能か実力か。

しかし、せっかく恵まれた環境があっても本人のやる気が無ければどうしようもない。このことは論語ではこう書かれている。

学ばない人は変わりようがない


人は生まれつきの本性と才能自体に大して差はないが、教育、学習で違いが出る。ただ生まれながらに道を知る聖人と、困っても学んで向上しようとしない者は、移り変わりようがない。

陽貨第十七・四百三十六

原文は「上知と下愚とは移らず」という短文。野中さんの注釈によると、

上知(じょうち)とは、生まれながらに道を知っている聖人
下愚(かぐ)とは、困っても苦しんでも学ぼうとしない者

とある。少し分かりづらい気もするので、同じ箇所を他の訳本から紹介してみる。

最上の知者は、どんな境遇にいても堕落することなく、最下の愚者は、習慣・教育によっても向上しない。この二つの種類の人間は変わらない。

吉川幸次郎訳

人は学びによって変化するものだ。ただし、とび抜けて賢い者と極端に愚かな者は変わらない。

斎藤孝訳

人間の天性には差がない。生まれてからの学びや習慣によって、立派な人とそうでない人との違いが出てくるのだ。

田口佳史訳

誰でも境遇と教育によって良くも悪くもなるが、最上の天才と最低の愚か者だけは変わりようがない。

森哲郎訳

人間の中身は変わらない、ただ境遇で変わるだけなんだ、とさっき言いました。でも、正確に言うなら、少し違います。すごい天才はどんな境遇においてもその能力を発揮できるし、反対に根っからのバカ者は、どこにいてもバカなままです。残念ながら」(センセイ、けっこうキツいこと言いますね・・・)

高橋源一郎訳

論語の訳本を読み比べてみるとニュアンスが違って面白い。まずは自分にしっくりくる本を選んで一冊読み通してみるのもいいと思う。解釈は思考の補助輪に過ぎない。渋沢栄一さんの『論語と算盤』もお薦めだ。

どうあっても学ぼうとしない人は手がつけられない


生まれながらに道理を知り、徳を備えたものは最上の人物で、聖人といわれるような人だろう。

志を立てて学ぶことによって道理を知り、徳を修める人というのは、この次だろう。

苦しんで困ってから発憤して学ぶ人は、その次の人だ。

しかし、苦しみ困ろうとも、学ぼうとしない者は最下級の人で、これはどうにも手がつけられない。

李氏第十六・四百二十八

学問好きは日々の向上心と復習を忘れない


子夏(弟子)は言った。

日ごとに新しいことを学び、月ごとに学んだことを忘れないように復習をする。こういう人が学問好きと言えるのだ。

子張第十九・四百七十五

学びは学問だけではなく、読書だけでもなく、人から学ぶだけでもなく、日常の風景からも学ぼうと思えば学べる。向上心があれば、全ては学びのきっかけ。僕はそう思っている。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

あなたにとっての論語があれば、今すぐ手にとってみてくださいね。


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