見出し画像

昭和の新幹線と田舎への長旅 ロスジェネ氷河期世代が語るノスタルジアと特別感


ロスジェネ氷河期世代の私たちは、昭和から平成、そして令和までの大きな時代の移り変わりを目の当たりにしてきた世代です。その中でも、昭和の時代の「新幹線の思い出」は、私たちの成長と共に深く心に刻まれている特別なものです。今では当たり前のように感じられる新幹線のスピードや快適さも、当時は特別な体験であり、まさに「未来を体験する」瞬間でした。

私が小さい頃、毎年夏休みになると東京から父親と一緒に田舎の徳島まで電車で帰省していました。飛行機は早いし楽ではありましたが、私たちにとっては「新幹線に乗ること」自体が旅の一部であり、楽しみでもありました。特に父親が飛行機を嫌っていたため、車と鉄道だけで移動するのが恒例でした。そのため、新幹線で岡山までの道のりは、ワクワクしながらも長い道のりのスタートでした。

新幹線のワクワク感と時折の退屈

東京から岡山までの新幹線は、確かに早い。特に昭和の時代には、「夢の超特急」という肩書が誇らしく、乗ること自体がイベントでした。窓から見える景色がどんどん流れ去り、まるで未来に向かって突き進んでいるような感覚。しかし、そのスピード感に興奮するのも最初のうちだけで、岡山までの長時間、座席にじっとしていると、さすがに飽きてくることもありました。

それでも、当時の新幹線には「食堂車」や「ビュッフェ」、車内販売など、今ではすっかり懐かしいと思えるサービスが充実していました。食堂車に足を運んで、特別なランチを食べたり、ビュッフェでアイスクリームを買ったりするのは、退屈を紛らわすだけでなく、旅の醍醐味そのものでした。特に「冷凍みかん」は、私たちの世代にとって新幹線の代名詞のような存在で、今でもその冷たさと甘さを思い出すと、当時の旅の楽しさがよみがえります。

岡山からの「普通電車」と宇高連絡船の旅

新幹線の特別感は岡山で一旦途切れ、そこからは「普通電車」に乗り換えて宇野へ向かいます。新幹線とは一転して、ローカル感溢れる普通電車の旅は、子供心に「これからまだまだ道のりは長いんだな」と思わせるものでした。そこからさらに宇高連絡船に乗り換え、瀬戸内海を渡る。まだ瀬戸大橋がなかった時代だ。この船旅も、今ではすっかりなくなってしまったものですが、当時は「連絡船」に乗ること自体が非日常で、またひとつ旅の楽しみのひとつでした。

高松に到着しても、旅はまだ終わりません。そこから再び電車に乗り、電化されていない線路をひたすら走る列車で目的地の海南まで向かう。この部分が、私にとっては「永遠に続くのではないか」と感じるほどの長さでした。のどかな風景が続く車窓の景色は、現代のスピード感覚からすればまさに「時が止まっている」かのような静けさと遅さでした。

特別感としての新幹線

こうして振り返ってみると、当時の私にとって「新幹線」は、旅の中で最もスピーディーで未来的な乗り物でした。岡山から先の旅がどれだけ長く感じられたかを考えると、新幹線の速さがいかに際立っていたかがわかります。あの当時、車窓から次々と流れ去っていく景色の中で感じたのは、昭和の「最先端技術」に触れているという誇らしさと、夏休みという特別な時間の中での非日常感でした。

今では、新幹線に乗ることは日常の一部となり、スピードも快適さも当然のものとなっています。しかし、私たちロスジェネ氷河期世代にとって、あの時代の新幹線には特別な意味がありました。未来へと加速する日本の象徴であり、また、田舎へと続く長い旅路の中での唯一の「特別な瞬間」だったのです。

昭和から令和へ—変わりゆく時代と変わらぬ思い出

私たちが子供の頃に感じた「新幹線の特別感」は、今では失われつつあります。食堂車もビュッフェもなくなり、車内販売ですら少なくなりました。しかし、昭和の新幹線に乗って旅をした思い出は、私たちロスジェネ世代にとって、今でも色褪せることはありません。飛行機よりも時間がかかったかもしれませんが、その時間の中で感じた「旅の風情」や「ワクワク感」は、私たちの心に深く刻まれています。

時代が変わり、技術が進化し、移動が便利になる中でも、あの時代の新幹線に乗った思い出は、私たちにとって「昭和の夏」を象徴するものとして永遠に輝いています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?