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「アナキズム」ブームが示唆するもの

最近、世の中でアナキズムの見直しが進んでいて、ちょっとしたブームになっています。


このアナキズムという思想は「無政府主義」と訳されて解釈されるのが一般的です。記事でも指摘されてますが、この訳語だとちょっと不穏な感じの言葉なんですよね。「打倒政府!」「革命だ!」とかいう怒号が聞こえてきそうな。

でも、それが急に見直されてきている。別にアナキズム思想に被れる必要はないですが、社会の世相を見る上でこれはどういうことなのかというのは考える意義はあると思うんですよ。

記事では「相互扶助」や「自由」という解釈でアナキズムをマイルドに捉え直そうとしてらっしゃいます。江草としてもその解釈に特別異論があるわけではないのですが、ちょっとイメージ的に分かりにくい気もしています。綺麗にフィット感を持って捉えられてない印象です。

だって、たとえば自由が大事なんだとしたらアナキズムじゃなくても自由主義って考え方も既に世の中にありますしね。

相互扶助だって、普通の人がこの言葉を聞いたら、どちらかというと「自助・共助・公助」のように保守的な発想に感じられるでしょう。打倒政府どころか政府自身が言ってることに従ってるような感覚すら覚えられるでしょう。

この辺の違和感を江草的に勝手に補完すると、アナキズムが示唆する本質的な要素は「ボトムアップ」「自律」「脱分化」ではないかと考えています。一言で言うと「脱秩序」なんでしょうけれど、「脱秩序」はやっぱり分かりにくい言葉なので、この3要素で捉えるのがいいんじゃないかなと。

ボトムアップ

「ボトムアップ」と言うのは、文字通り、「トップダウン」の反対語ですね。

「ボトムアップ」志向では、上から「こうしなさい」と言われたり、「あなたはこういう役割ですよ、こういう立場ですよ」などと整理されたり規定されたりするのを嫌います。「あの偉い奴らは現場のことを何もわかってない、何勝手に決めてるんだ」みたいな愚痴が出る時に感じられるような、現場主義感覚がここにあります。

『くらしのアナキズム』のように「くらし」という日常風景がアナキズムで想起されるのは、まさにこの「現場感」を大事にしているということなんだと思います。

自律

「現場のことは現場の人間がよく分かっている」というボトムアップ感覚をもとにすると自然に出てくるのが「自律」の志向です。「自分たちのことは自分たちで決めさせてくれ」というそういう感覚ですね。「自治」とも言えるでしょうか。

地方自治体が日本社会に自然と受け入れられてるように、こうした「自律」「自治」という感覚は必ずしも政府の存在の撤廃を志向する「無政府主義」とは言えないものです。

「上からなんでも決めるのをやめろ」と言っている仕草は確かに政府の権力の緩和を促すものではありますが、これはあくまで「上からの権力の緩和」「自治権の強化」という方向性を示すものであって、「政府が無い状態」という最終目的地を意味してるものではないと思うのです。

例えるなら、「ちょっとルートがそれてるから北向きに針路を変えた方がいい」と主張する時に、必ずしも最北の「北極点」を目指しているわけではないのと同じです。

だから「政府の支配を緩和しよう」というのがすなわち「無政府主義だな」というのはやはり乱暴な解釈と思います。おそらく、もっと穏和な「自律」を目指しているだけなのです。

「自律」というのは無論「自由」という概念とも親和性が高くて、その点で「アナキズムとは自由な状態を追求する思想」とも評されるのは自然なことなのですが、巷で優勢な解釈である「無政府主義」との意味的な関連を示すためには、自分たちをどう治めるかの意味も含まれた「自律」というキーワードの方がわかりやすいのではと感じています。

脱分化

で、最後の「脱分化」。これはぶっちゃけわかりにくいワードと思いますが、江草が医者なのでどうしてもカッコつけて言いたかった生物学的専門用語になります(すみません)。

「脱分化」とは、成熟して高機能な能力を獲得した細胞が、また何にでもなれる未熟な細胞に戻ることを言います。

めっちゃ生物の話ですね。でも、実際アナキズムが示唆する発想をうまく示してるとも思うのですよ。

これは、もっと一般的に通じる今風の言い方で言えば「アンラーニング」です。

人は生きていると、いろんな常識を身につけたり、いろんな肩書きを身につけたりします。そうやって高度な専門知識や専門技能を得た「大人」になっていく。

でも、そうやって色々と身につけていくと、体が重くなって身動きがとりにくくもなるんですよね。常識に縛られたり、立場に縛られたりして、自分の自由に動けないモヤモヤが溜まっていく。

実際、社会の側が変化していってる時に、今まで自分が人生で積み重ねたものが重石となって対応できなくなるというのはよく言われますよね。自分のスキルが陳腐化しているのを薄々分かっていても、苦労した分だけそれを捨てきれなくてしがみついてしまうような。あるいは、そうでなくとも自分の立場があるために、自分の立場を捨てたくないがために、本心を押し殺して無難な言動だけをするというのもアルアルでしょう。

こういう時に何が起きてるかというと、自分が得た知識や経験、肩書きが、結果的には自分をトップダウン的に支配してるわけです。「本当は自分はこうしたい」というボトムアップ(本心)から生まれる自律的な欲求を抑圧しています。

今まで見てきたことからお分かりの通り、これは当然アナキズム的にはよくないことだとなりますよね。だから、アナキズムとしては、知識や肩書きを一旦脱ぎ捨てる、そういう動作を奨励することになります。もっと生身の自分に立ち返ることを促そうとします。

そう考えた時に、誰でも生身の自分に立ち返れるうってつけの場面があるわけです。それが「くらし」という言葉に象徴される日常生活ですね。あるいは「遊び」もそうでしょう。

「くらしのアナキズム」とか「日々のアナキズム」とか「はたらかないで」などのワードがアナキズム本に出てくるのはこのことが理由なんだと思います。「専門職としてのアナキズム」「エリートとしてのアナキズム」などと高度専門分化した状態をイメージしてアナキズムが語られることはおそらくありません。

「くらし」や「遊び」の中でなら、専門知識や専門技能、あるいは肩書きなどを(スーツや作業着と共に)脱ぎ捨てて、より未熟で素朴な状態での自分に戻ることができる。自分の本心のままに自律的に自由に動ける。そういう意識がアナキズム思想には見てとれるわけです。

「アナキズム」ブームが示唆するもの

こうしてアナキズムのイメージをより掘り下げると、「アナキズム」がブームになるというのはどういうことかが見えてきます。

つまり、こうした「アナキズム」の発想と逆のことが社会に起きていて、それでみんなが疲れ果ててるということがうかがえるわけです。「トップダウン」で「他律的」で「専門分化キャリア意識しすぎ」な社会、そうなってきていることに対する反動が「アナキズム」ブームなのでしょう。

エリートから「こうするのが正しい」と常識を押し付けられたり、「お金のために」と外発的動機付けの活動ばかり強要されたり、自身の学びやキャリアで寄り道や後戻りが許されない雰囲気だったり、そうしたものに皆が辟易してきている。

それで急に見直されてるのがアナキズム思想というところなんじゃないかと思います。


ここで面白いのが、だからといって「そうだ、社会が間違っている!アナキズムが正しいんだ!」と怒号を上げ始めたり、政府打倒のために革命活動を始めるのもまた「アナキズム的ではない」ということです。

「アナキズムが正しい!」という断言的感覚は、すなわち「アナキズム」に自分の言動を支配されているのと同義です。自分が学んだ「アナキズム」という思想がトップダウン的に自分を他律してしまっている状態です。これはとてもアナキズム的ではないわけです。

どちらかというと、アナキズムはそのように身を捧げて信奉するような思想ではなく、ちょっと今の自分の人生や社会の窮屈さを解く助けのようなもの、補助線のようなものとして扱うべきなのでしょう。

アナキズムが主役になった時、それはその時点でアナキズムではないのです。アナキズムが志向しているのは人間本人自身が主役になることで、あくまでアナキズムという思想そのものは常に人生の脇役ではなくてはならないんですね。

この辺が他の思想とは一線を画しているというか、メタ思想的であって、アナキズム思想の面白い特徴だと思っています。こうしたゆるいなんとも言えないふわふわした感じ。この掴みどころのない曖昧さがアナキズムの「脱秩序」的な感覚とも言えるでしょう。

だから人が「アナキズムを理解した」と言う時、残念ながらその人はアナキズムを理解できてない。そんなパラドックスがあるのです。

とにもかくにも、そうした面白い特徴から、社会の世相を読み解く補助線として「アナキズム」に注目するのは良いのではないかと思っています。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。