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甲南医療センター専攻医自殺問題の報道特集を見たよ

甲南医療センターの専攻医自殺問題の報道特集を見ました。

(↑アップ後に詳細な記事が出てるのに気づきリンク追記)

たまたまテレビをつけたらやってた、という感じで全然狙って見たわけではないのですが、Xでも話題になった事件でもあり、ついつい見入ってしまいました。

総じて、番組としては、秘匿されていた第三者委員会の調査報告書を暴露したり、遺族側のインタビューは密にあったりと、黙秘を続ける病院側に批判的かつ遺族側に同情的なスタンスで取り上げられていた印象です。まあ、病院側が取材をシャットアウトしていたのであれば、そもそも番組は病院側に立ちようもないので、遺族側に寄り添う構成になるのは当然と言えば当然です。

争点は「自殺した専攻医が実際に過労であったか」です。

過労死ラインを大幅に超える過労であった(月200時間の残業)と認定している調査報告書や労基の労災認定に対し、病院側は自殺した専攻医が病院に残っていた時間はほとんどが自己研鑽(自主的な勉強のため)であり残業は月30時間であると主張しているとのこと。両者の主張には、なんと月170時間という大きな差があるわけです。

番組や一般視聴者の方は、遺族側に同情的な立場に立ちつつも、一応は「真実はどっちなんだ」という態度でこの事件を見ているのかなと推測します。しかし、こと同業である医療従事者たち(特に医師)がこの事件を見た場合に抱く印象は「ぶっちゃけ確実にクロだね」というものでしょう。

長時間残業していても「月50時間までしか残業申請するなよ」とお達しが出たりとか、「自己研鑽で病院に残ってるだけだよな?医師は常に勉強するのが当たり前なんだから」という無言の圧力は、あまりに医療界で普遍的に見られる現象すぎて、もはや「真実はどうか」とかいうレベルじゃないんですよね。

例えて言うなら、医療者にとってはこれは犯人がすでに分かってるタイプのミステリーみたいなものです。一般的な「誰が犯人なんだ?」というタイプではなく、『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』みたいな、いきなり冒頭で犯人と犯行の内容が開示されちゃうタイプのアレです。視聴者は犯人を知った上でどうやってそれを刑事が追い詰めるのか、果たして追い詰めることができるのかに注目するわけです。

件の専攻医が過労死なのは、医療者たちは99.99%確信していて、むしろ、それは分かった上で、本当にこれを追い詰めることができるのか、立証できるかどうかにハラハラしているんですね。

番組では「遺族の方々は真実を知りたいだけなんです」という解説コメントがありましたけど、遺族の方々も医師家庭なので正直言って真実は十分承知の上かと思います。クロなのが分かりきってるのに病院側がしらばっくれてるから憤って訴訟に挑む、という自然な話なんです。


つまり、これも番組で指摘されてたことなんですけど、この過労死事件は全然「この病院だけの問題ではない」のですよね。過労とそのゴマカシが業界内にありふれすぎてるからこそ、普段は問題にならないところがあります。

今回のように若者が過労死するような最悪の事態にまでなって、ようやく問題として取り上げられる。電通の過労死自殺事件の時と同じですね。この国は残念ながら人が死なないと問題にならないんです。非常に嘆かわしいことですが。

それぐらい医療界の津々浦々に根強くある過労文化なので、今回番組でもほとんど悪玉として描かれていた甲南医療センターの院長も「なんで俺が責められるんだ」と正直思ってるんじゃないかと推測します。「俺が若い時には医師がそれぐらい働くのは当たり前だったし、今でもどこの病院でもやってることじゃないか。なんで俺だけが」と。

実際、こう言うとなんですが、おそらく別に院長が「働け働けー!」と命令していたわけでもないんですよね。院長がそんな命令を施す必要もなく、過労圧力が蔓延しているのが医療界という世界なので。

せいぜい下から過労に対する不平や不満が上がってきた時に「まあそうは言っても生涯勉強なのが医師という仕事なのだから、そんな甘えたことを言ってると患者の命は救えないぞ」と説教する感じであって、「命令した」というよりは「叱咤激励した」という感覚でいたんじゃないかというのが実際に近いんじゃないかと思われます。

番組でも、院長でない上級医が専攻医からの業務負担軽減の訴えを退けている記録を紹介されてましたしね。院長がつべこべ言わなくても、医療界の労働文化的に自然と「業務負担を削減したいなどという甘えた言葉」には各所から抑圧がかかるようになっているわけです。

そもそも、一般的な企業と違って(まあ企業も色々でしょうけれど)、病院という組織は院長に別にそんな権力が集中してるわけでもないんですよね。院長一人が「そうだな過労は良くないな」と改心したところで、各臨床科の主任部長クラスが「は?何言ってんだ?それでどうやって現場回すんだ」と反発して言うことを聞かないのが落ちでしょう。

院長というのは、形式的には諸侯の上に立ってる立場だけれど別に好きに命令するような実権を握ってるわけではない神聖ローマ帝国皇帝みたいなものです。戦国時代の室町幕府将軍と言った方が分かりやすいでしょうか。諸侯や大名のような猛者(各科主任部長)がひしめく院内にあって、院長が右を向けと命令したら一斉に右を向くとかそういう世界ではないんですよね。各科がそれぞれ独立して力を持って科内を運営してるのが病院という組織なのです。

要するに病院内は縦割りってことなんですが、通常、各診療科は病院内の組織というだけでなく、医局や学会といった外部組織にも所属している多重支配構造であることも医療界特異な世界観です。事実上の人事権を握ってる大学医局や、個々の医師の専門医資格や学問的業績を担保する場である学会から強く影響を受けているので、病院組織のヒエラルキーの指揮系統だけで医師をコントロールできないんですよね。

つまり、院長とは、あくまで外部組織であるはずのカトリック教会になぜか国内の人事権(叙任権)を握られてる皇帝のような存在です(またマニアックな例えですみません)。自身以外にも外部に他に人事を左右できる権力者(組織)がいるわけです。

だから、業界内に普遍的に見られる強固な過労文化と、多重支配かつ縦割りの人事構造によって、院長が何も言わなくても各所で構成員には過労を強迫する圧力がかかってるし、院長一人が改善を言ったところでその程度の権力ではそうそう現場が変わることはないという状況です。

しかも、おそらくは院長自身はこれまで過労を耐え抜いてきたサバイバーなので、生存者バイアス的に「これが過労?そんなの普通だろう」と思って問題にも思わないと。

だから、ほんと、甲南医療センターという単独の医療機関の問題でもないし、ましてやこの院長一人の問題でもないのが、この過労死事件が突きつけてる問題なんですね。


あ、ちょっと、院長擁護的に取られそうな話をしてきましたが、とはいえもちろん、別に院長の責任がないとかそういう話ではないんですよ。院長が何もしなくても過労が蔓延していたとしても、院長が何かを言ったとしても状況が変わらなかった可能性が強くても(院長にそんな権限が実際にはなかったとしても)、院長に責任がないことにはなりません。

ビッグモーターの不正事件でもそうなんですけど、問題が発覚した時によく管理者の方が「現場でそんなことが行われていたなんて知らなかった」って言い訳をするじゃないですか。でも、あれって全然言い訳になってないんですよね。だって、現場でそんなことが行われていたことを知らなかったこと自体が管理者としての責務を十分に果たせてなかったってことなんですから。現場を管理監督するのが管理者の仕事なのですから、「知らなかった」は十分過ぎるほどの落ち度なんです。

だから、極論、現実の現象面的な意味で管理者個人に責任がなかったとしても、それでも責任を取るのが管理者の仕事なんです。本当に知らなかろうが、管理者個人ではどうにもできなかった事態であろうが、それでもことが起きたら責任を取る。それが管理者というものです。

自分のせいでないものでさえ責任を取らされるというのは、すっごい恐ろしい仕事ですけれど、だからこそ管理者には裁量権と名誉と高待遇が付与されてるわけですから、いざという時に「知らなかった」で済まそうなんて虫が良過ぎる話です。(もっとも、そういう虫が良い管理者が山のように居るのがこの世の中の辛いところですが)

だから、院長としては「これがなんで俺のせいになるんだ」と思うだろうなとその心中は察するものの、それでも責任を取るのが貴方の仕事ですと言わざるを得ません。これまで同様に過労を容認する態度でありながら日々無風で過ごして任期を満了した院長なんて無数に居るはずですが、だからと言って貴方の責任が問われなくなるわけではないのです。

フランス革命でもバスティーユ監獄の管理者は革命側にとっ捕まっていきなり首をはねられたそうです。正直言って絶対王政の矛盾の責任は監獄の管理者になんかなかったはずですが、それでも彼は不運にも革命によって責任を取らされる側になったわけです。さすがにもちろんここまでの血みどろの責任追及はどうかと思いますが、管理者というのはそうやって自分個人だけのせいでない大きな文化(パラダイム)の責任を取らされることもあるものなんですよ。

今までの医療界の労働文化の歪みのツケが急に回ってきたことにはいくらか同情はしますけれど、それでも責任を取るのが、この労働文化の悪しきトレンドに一石を投じるため、運命が院長に与えた重大な仕事です。

逃げ隠れせず、誤魔化さず、きっちり責任を取られることを望みます。


あと、最後にツッコんでおきたいのは、番組解説者の「医師の過労を防ぐために軽症者は病院に気軽に受診しないようにしましょう」的なコメントです(うろ覚え)。

そもそも「患者自身で自身の病状の重軽を判断できるのか」という疑問はさておき、仮に軽症者が受診しなくなったら過労問題が落ち着くかと言ったら、そんな単純な話ではないでしょうと思います。

番組内でも、病院の経営が苦しいために残業申請時間の上限を定める文化があったことを指摘されていましたけれど、つまりこの問題の背景には経営の問題があるんですよ。

軽症者が受診しなくなったら、当然ですが病院は収入が減ります。そうするとすでにカツカツ経営の病院としても困るので、少しでも収入を確保しようと「医師各位 外来からなるべく入院させてください」と院内にお触れが出たりして(実際にある話です)、医療行為が歪みがちです。そして、もし収入が本気で減ったら、医師なり他の人員なりを削減して人件費カットで耐えようとするのが自然な帰結です。

苦しくなったらリストラするというのは一般企業でもあるあるな話とは思うのですが、医療機関においては保険診療という公定価格制度で経営されてるのもあって、価格決定権がないんですよね。加算を取ったりするなどして単価を上げる方法が全くないわけではないんですが、それをやろうとすると加算の要件が往々にして医師の業務負荷を上げるものなので、結局過労になりますし、だからといって単価をあげれないと、リストラに迫られ、人員が減って、結局残された者は過労になるわけです。どっちにしても過労ですわね。

つまり、診療報酬制度でカツカツに管理されてる病院経営においては「受診患者さんが減れば医師の過労は緩和するよね」なんて簡単な話にはならないんです。もちろん、夜間救急のコンビニ受診が減ると幾ばくか医師も寝られる時間が確保できる可能性はあるので、全く無意味ということはないのですが、経営視点での収入と人件費の問題を無視して決定的な効果が得られると考えるのは楽観的過ぎるだろうと思われます。


「じゃあどうしたらええの」という話は、もちろんめっちゃ難しくて一筋縄に行かないとこです。様々な人が様々な意見を言っていて百家争鳴の状況です。

江草までここで持論を語り出すともっともっと長くなるので、今回は割愛しますけれど、少なくとも、この専攻医過労死事件一つを分析するだけでも、えらく根深い問題だということがお分かりいただけたのではないでしょうか。

医療界の過労文化は、これだけ大きく根深い問題で、すべての医療者が気づいていたと言っても過言でない問題です。

でも、大きすぎたためか、表立って問題だと指摘する人は少なかったし、「もうどうしようもない」と諦める人も多い問題でもありました。

典型的な「部屋の中の象」問題です。

でも、そうしてこの問題を放置していた結果、ついにまた新たに若い命が失われてしまったわけです。

いや、もうね、そろそろ象を倒さないといけないでしょう。

せめて、象を見ることぐらいはしないといけないでしょう。

もうどうしたって失われた命は帰ってきませんが、残された私たち全員が負うべき責任はここにあるのだと思います。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。