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『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』読んだよ

谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』読みました。

なかなかすごいタイトルの書籍ですが、いきなり感想を言ってしまうと、これはめちゃくちゃ良かったですね。

著者は哲学者の谷川嘉浩氏。恥ずかしながらあまり具体的な活動は存じ上げないのですが、他ではこの『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』でも共著者の一人として登場されてますね。(こちらは江草は絶賛積読中)


で、今回の『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』。タイトルからも分かるように「衝動」がメインテーマです。

この「衝動とは何か」自体を一冊を通してとことん考え抜いてるのがこの本なので、ここで一言で「衝動はこういうものです」と解説することは到底不可能なのですが、それだと紹介にならないので、めちゃくちゃ不正確であるのを注記した上で、取り急ぎなんとかざっくりとその雰囲気をお伝えできたらと思います。

なんかこう、自分でも「何やってんだ俺」「全く賢明じゃない」と苦笑せざるを得ないけれど、それでもどうしてもついやってしまう物事、つい心が惹かれてしまう物事ってあるじゃないですか。

ただの単純で原始的な「生理的欲求」とも違うし、報酬や名声が得られるような「インセンティブ」に導かれてるわけでもない、それでいて内発的動機付けで説明されるような自分が主体的にコントロールしきれている「モチベーション」とも何かが違う。

まるで幽霊のように自分に取り憑いて自分を突き動かしてくる非合理的な「何か」。これが本書が追いかけている「衝動」のイメージです。


本書であった例ではないですけれど、江草の頭に浮かんだ「衝動」の例としては、ゲームでRTA(リアルタイムアタック)する人たちです。

RTAとはざっくり言うとゲームを最短時間でクリアするプレイです。YouTubeで調べてもらえれば大量に各ゲームのRTA動画が出てくるのでそれを見ていただければ一目瞭然なのですが、もうほんと一分一秒を削るがために、すさまじく効率的かつ奇妙なプレイ行動を取るのでハチャメチャで面白いんですよ。

自身がプレイした経験があるゲームでもRTAプレイヤーの手にかかると「ほんとこれ同じゲームか?」と信じられなくなるぐらい、とてつもなく練り上げられた素早い動きをするので圧倒されちゃうんですよね。もちろん、クリア時間削減のために必要とあればゲーム本来のストーリーやプロセスもガン無視で進むので、ゲーム内の本来すごく重要で感動的なシーンをすっとばしていきなりクリアしたりもするので、これがもう笑っちゃって面白いわけです。

で、このRTAのプレイスタイル、明らかにとてつもない熱量で研究されていて、明らかに何度も反復トライされてるのが伝わってくるんですが、言ってしまえばこれ「ただのゲーム」なんですよ。最短時間でクリアしたところで何か報酬が得られるわけでもない。まあ一応は素晴らしいパフォーマンスのプレイをした場合にはRTA界隈のローカルで名誉は得られるかもしれませんけれど、社会全般から見ればたかがしれていますし、彼らがそうした「名誉」を求めてRTAしているという感じも正直ありません。

でも、こんな「ゲームを最短時間でクリアする」という営みに非合理的なまでにとてつもない熱量を注いでる人たちが現にいるわけです。周りからすると「何でそんなことをそんな熱量で?」と驚かされますし、何なら本人たち自身ももしかすると周り以上に驚いてるかもしれない。「我ながら何の役にも立たないことやってるな」と苦笑しながらもでもやっぱりそれに挑んでしまう。そうしないといられなくなってる。いかに理にかなってない行動であっても、自分にとってはこれをやってるのが心地が良い。しっくりくる。

この感じが「衝動」のイメージです。

その影響の大小の差はあるかもしれませんが、おそらく誰もがこうした自分の中の「衝動」に出会った経験はあるのではないでしょうか。

この「衝動」とは何なのか。どうしたら見つけられるのか。

面白いでしょう。気になるでしょう。

これを、とても丁寧にひも解いていく知的営みが体験できるのが、本書『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』です。

日常の脇にふとあるこうした素朴な疑問を哲学的に解きほぐしていく読み物は江草は大好物です。以前読んで読書感想文を書いた平尾昌宏『人生はゲームなのだろうか?』にも似たジャンルと言えそうです。

こうしたジャンルの読み物が好きな人はぜひとも読んでいただきたい。そんな一冊に仕上がってます。新書ボリュームだし、難解な哲学用語を排して平易な文体で書いてくださってるので、万人にとっつきやすいものになってますし、誰にでも関連するテーマを扱ってるものなので、広くオススメできる書籍です。




さて、概要的な紹介は以上として、ここからは江草個人的な感想を交えながらダラダラ語っていきますよ。(なので以下の文は、本書読後に読まれた方が伝わるかもしれません)

「衝動」を追究していく上で、本書ではさまざまな作品や書籍が参照されていくのですが、これがまた江草もお気に入りのものがいっぱい出てきたので、なかなかうれしいんですね。

たとえば、書影の帯に使われてる『チ。』。
このマンガ作品の1コマが使われていたのが、江草が本書に目を留めたきっかけでした。『チ。』は江草的にクリティカルヒットなマンガで、感想文も以前書いてます。

弾圧されるし出世コースから外れる、全くもって賢明な道でないことが自分でも分かっていながらも、どうしても地動説を研究したい気持ちが抑えきれない人々の群像劇。この作品のテーマ自体がまさしく「衝動」と言えるものであり、本書『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』の導入や途中の論考でたびたび登場しています。


あるいは、書籍『Dark Horse』。

これも、江草的には殿堂入りレベルのお気に入り書籍なのですが、本書『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』において最重要書と言ってもいいぐらい頻繁に参照されています。それだけ、テーマや考え方が重なっているところがあるということですが、この『Dark Horse』の論考をさらに発展深化させる仕事を成し遂げてくれたという点で、江草的には本書『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』に大変感激しています。いやあ、素晴らしい。


けんすう氏による『物語思考』も、こちらはやや批判的な文脈ながら参照されていました。

これを読んだ時に刺激を受けて江草はこんな一万字レベルの論考を書いてたりします。

このように江草的な推し本とかなり関連が深いということからしても、本書『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』が江草にビビビッとフィットするのも自然なところだったのかなあと思います。


なんで、この流れで勝手に江草的に他の書籍とも結びつけていきますと。

内向きにひたすら内省していくことで「本当の自分のやりたいこと」を見つけようとするのではなく、好奇心をもって外にも関心を向けるべきだという本書の姿勢は、ラッセルの『幸福論』にも近いところを感じましたし、


本書が「衝動」のメタファーとして「幽霊に取り憑かれる」と表現したところは、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』における「とりさらわれる」という表現にも似たものを感じます。

このドゥルーズのエピソードなんて、まさしく本書が提案する「衝動に向き合う姿勢」に近いものがあるのではないでしょうか。

 当たり前のことだが、どんなにすばらしいものであっても、誰もがそれにとりさらわれるわけではない。ならば自分はいったい何にとりさらわれるのか? 人は楽しみながらそれを学んでいく。
 思考は強制されるものだと述べたジル・ドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。彼の著作には映画論や美術論がある。そのドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか? その努力はいったいどこから来ているのか?」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。
 ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。〈動物になること〉が発生する瞬間を待っている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。

國分功一郎. 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) (p.330). 新潮社. Kindle 版.

この両者が全く同じ意味と言えるかは、厳密な哲学的対照検討が必要とは思いますが、とりあえずざっくりした所感として、別の論考でありながら「取り憑かれる」「とりさらわれる」という似た感触の概念が重要視されていることは、非常に興味深いところかなと思います。

これだけ各所で言われてるということは、それだけこれらの「衝動」的な感覚が現代社会に欠けていて、みんなが求め憧れている感覚であるということなのでしょう。


また、本書の姿勢の特徴である「確固たる自分」あるいは「確固たる本当にやりたいこと」を想定する立場に対する批判。すなわち、巷にあふれる「永遠不変な独立した個人的欲望の存在」を前提としている「やりたいこと探し」にNOを突きつけてる感じは、なんとなく仏教的だなあと感じました。

すなわち、「衝動」の取りうる様相は永遠不変でもないし、外からの影響も受けて常にゆらぎうごめいているもので、決して独立ではない。世界とどうしたってつながっているもの。この感覚が、「わたし」などというものは、世の縁起によって一過性のものとして生々流転の中でたまたま生み出されてるものにすぎないとする仏教のイメージに近い気がしたんです。

これはちょっとチープな捉え方かもしれませんが、ここに西洋哲学に由来する近代的合理的な精神が拾い損ねた人間の非合理な「剰余」部分を、東洋哲学がカバーしてる感覚があるんですね。本書『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』は東洋的世界観に親しみがある内容になってる印象を覚えました。

「衝動」を見つけるには、ただ考えるだけでなく、行動したり感覚で取り込まないといけないという路線も、理性的知識すなわち座学だけでなく、瞑想したり禅を組んで感覚を研ぎ澄ます実践をも重んじる仏教にも似たところがあるかなと。

コラムにあった、自分を「善」と捉えることの危険性の指摘も、親鸞の悪人正機説の感触がありますし。

まあ、これはふとちょっと思っただけで、あんまり深く厳密な話ではないんですけど、そんな感じで仏教的なイメージも感じたわけです。


で、本書内で紹介されている、「多孔性の自己」の内外をつなぐやり方として「善なるもの」を取り込んでいこうという発想。

これは江草が(腐っても)医師なのもあってか、細胞とか人体をイメージしました。

外界とのやり取りが頻繁にあり独立した空間(cell)ではないけれど、何でも取り込んでるというわけでもない自己。できる限り自分に良いものを取り込もうと言う姿勢。これはまさに細胞や人体がやってることなんじゃないかなと。

細胞もイオンチャネルなりなんなりで細胞膜内外で物質のやり取りをやっているけれども、そのやり取りは繊細に選択的に調整されていて、内部環境がカオスに激変することを防いでいます。
あるいは、人体も色々食べるけれども、必要な栄養分をできるだけ選び摂っていて、悪いものは食べないようにするか、誤って体内に入ってきてしまった場合も免疫や排泄機構で速やかに追い出していく。そうやって生物は内部環境のホメオスタシスを保とうとている。

しかし、それでいて外界から独立しているわけではなく、どうしても影響は受けていく。不覚にも排泄できない毒素がたまってしまうこともあるし、悪いものを食べ過ぎて肉体の健康を害してしまうこともある。

この感じがまさに「多孔性の自己」のありように近いなあと思ったんですね。

だから、「衝動」に向き合うというのは、結局のところはもしかすると永遠不変でない有限性を持った生命体である「私たち人間」と出会おうとする試みなのかもしれないと、読んでて思ったのです。



……というわけで、最後の方はなんか読書メモみたいな脈絡のない感想文になりましたが、なんかよく分からないけど、江草はこういうあれこれ思いついたことをついつい書き殴りたくなってしまうんですよね。

だいたい自分でもどうしてこうまでして次々と本を読んでは感想文を書いて、あるいは毎日noteを更新するみたいなことをしてるのか、よく分からないのですが、なんかやっちゃうんですよ。冷静に考えたらまあまあ狂気なことをしてる。

でも、まさにここに江草の「衝動」の影があるような気はしますよね。

また、江草は「人生のレールを外れる」という点ではぶっちゃけすでに外れてる人間なので(院やめちゃったしパピートラック入りしてるし)、ほんと江草にぶっ刺さるのもうなずける書籍だなあと思います。

いやあ、良い読書経験でした。

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