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御田寺圭『ただしさに殺されないために』読んだよ

御田寺圭『ただしさに殺されないために』読みました。

常に論争を呼ぶネット論客「白饅頭」として知られる著者の久々の新著です。

とりあえず他の積ん読本もあるし手を出さずにいたのですが、フォローしてる方々も次々に読まれてる様子なのと、特にデビット・ライス氏が辛辣な批判をされてるのを見て、やっぱどんなものか読んでみようかしらと思い立ったのでした。



「不快な思考実験」的ケーススタディ本

読んだ率直な感想としては、まず「不快な思考実験」的な本だなと思いました。

有名な「トロッコ問題」を始めとして、倫理の議論では「思考実験」というのがしばしば登場します。思考実験というのは大抵の場合、どうしたものか途方にくれさせる不愉快というか意地悪な設定が施されています。
「正しくあろう」としても「正しくなれない」。人はそのジレンマを突きつけられると、モヤモヤし、不快感を覚えます。

この手の「思考実験」は特に「自分は絶対に正しい」もしくは「正しくないといけない」と信じてる人には劇薬です。(飲茶氏の小説『正義の教室』で、正義感にあふれる徳川倫理というキャラクターが思考実験に触れてどうなってしまったかが象徴的でしょう)


本書もいわばそういった「不快な思考実験」的感覚を読者に呼び起こす一冊と言えます。
思考実験と違うのは、「コロナ禍」やら「親ガチャ」、「排除アート」などの実際の時事ネタを題材に用いてるところで、そういう意味ではケーススタディ的な本でもあります。
時事ネタを扱うケーススタディであることで思考実験よりもより現実感が増しています。

「ただしさ」に挑戦するケーススタディ本。
不快でないわけがないわけです。


意外と強い主張はされてない

本の大筋としては、普段の御田寺氏の言動通り、「反ポリティカル・コレクトネス」、「反リベラリズム」的思想が通底しています。

リベラリズムが喧伝する「付き合う人間」を選別する自由によって、誰からも選ばれず社会から疎外される者が出てきただとか。
人権に配慮した結果、先進国が難民を送りつけられる戦法が登場しただとか。

世の中で第一の「ただしい」価値としてみなされている「自由」や「平等」に対する皮肉めいたケースがギッシリ詰まっています。

ただ、そのように基本的に「ポリティカル・コレクトネス」や「リベラリズム」に都合の悪い文脈での「ケーススタディ」を列挙していくだけの構成で、氏自身が強い主張をするところは意外とありません。(タイトルにもなってる「ただしさに殺されないためにどうすればいいか」もちょっと曖昧な印象)


この辺の「淡々と不快なケーススタディを挙げていくだけの構成」がライス氏が批判するところの「前向きな解決策が提示されてない」「解釈のもとになる理論が明確化されてない」につながるのでしょう。


 Amazonレビューにもある通り、「身もふたもない現実」や「不都合な真実」、世の中に存在する残酷さや不条理さを指摘するだけであり、その現実や不条理さについて社会はどう向き合うべきか、個人はどうやって対処するべきか、といった前向きな提言や解決策はほぼない。

「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』)

 また、『ただしさに殺されないために』のなかでは、社会の状況や人々の行動を解釈するうえで何らかの理論を用いられることがほとんどないし、価値判断の基準もまったく明らかにされていない。だから、著者が提示している現実についての解釈や価値判断に疑問を抱いたとしても、その論拠を問うて反論することがほとんどできない。

「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』)


つまり、「何を根拠にどうすべきと言いたいのか」が不明であると。
確かに、そういうところが本書にはあります。


「ただしさ」に対する否定神学的構成

ただ、一応、わずかながら終章にて著者自身が本書の役割を語ってる箇所はあります。

私たちが美しいと信じていたものが、実は醜い。ただしいと信じていたものが、間違っている。高潔だと信じていたものが汚く、重要だと思っていたものが些末である。

私たちは物語を信じたがる。物語は往々にして、だれからも喜ばれるようにと、心からの善意が込められ、丁寧に編まれている。物語は雄弁であるがゆえに、なにも語らない。

私は物語を否定するために、この本を書いた。

穏やかな夜に身を任せてはならない。

私は物語を否定する。

―『ただしさに殺されないために~声なき者への社会論』御田寺圭著


「物語の否定」――これが本書の目的であると。

ひたすらに不快なケーススタディを列挙し、「ただしさ」という物語を否定する。

おそらくここに御田寺氏の否定神学的な狙いがあるように思われます。


「否定神学的」というのは、恥ずかしながら最近読んだ『現代思想入門』からのにわか受け売りなので、その説明を引用しておくとこういう感じです。


この捉えられないXというのは、二項対立を逃れる何か、グレーで、いわく言いがたいものです。人間はなんとかそれを捉えるために新たな二項対立を設定して、だがまた取り逃し……というように生きていく。
このような Xに牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。否定神学とは、「神とは何々である」と積極的に特徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、何々でもなく……」と、決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。

—『現代思想入門 (講談社現代新書)』千葉雅也著


つまり、あえて「これがただしい」とは決して自分からは述べずに、

「これはただしいのだろうか?(いや、ただしくないだろう)」
「これはただしいのだろうか?(いや、ただしくないだろう)」
「これはただしいのだろうか?(いや、ただしくないだろう)」
……

とただひたすらに反語的意味を含有する否定形で問い続けることで、「ポリティカル・コレクトネス」などが謳う「ただしさ」を、「決してまだ完成していないもの」あるいは「永遠に到達できないもの」として描き出そうとしてるのが本書なのではないでしょうか。


不快なケーススタディの列挙は扇動的か

確かに、こうしたやり方は卑怯なのかもしれません。
「正しさ」を掲げないことで「正しさ」と対峙するゲリラ的なやり方ですから。
正規戦では抗えないから非正規戦を用いるゲリラになったと。

そういう意味で、「やるならちゃんとやれ」と言うデビット・ライス氏の批判は的を射ています。
特に、日々「正しさ」に真正面から真摯に格闘されてるライス氏からすれば受け入れがたい暴虐なのでしょう。


ただ、御田寺氏のターゲットは、あくまでライス氏のような、いまだ到達してない「真の正しさ」を諦めずに追求してる人ではないはずです。

どちらかといえば、社会のキレイな側で「コレが正しい」と無邪気に思考停止してる人々こそがターゲットであるでしょう。(成功するかどうかは別として)そうした人たちに「不快なケーススタディ」を提示して矛盾を痛感させたいというのが御田寺氏の意図と思われます。



その意味でいうと、問題意識のターゲット自体はライス氏も御田寺氏も共通してるところはあるのでしょう。
ただ、それに対して選ぶ手法についての価値観の相違がある。
ライス氏からすれば、御田寺氏の手法は分断を煽るばかりで有害であると。

ここはほんとに難しい議論で、悩みます。


ただ、個人的には、本書を読んだ限り、ライス氏が言うほどそこまで扇動的な内容には思いませんでした。

先ほど述べた通り、本書は「こうすべき」みたいな主張は希薄で、「誰が悪い」というよりは「皆が善人だからこそ起きる」というある種の皮肉めいた諦観の方が強い印象です。

そして、「どうしてほしい」というよりは「知ってほしい」「認知してほしい」ということに主眼が置かれています。


ただその一方で、まぶしいスポットライトを浴びる善人の影にいる人びとの犠牲や献身にも、同時に思いを馳せたい。慈善家として称賛を浴びる人を否定するのではなく、かれらに向けられる光や喝采が強すぎてその姿が見えなくなってしまった善行の陰にいる人びとのことを忘れないように。

—『ただしさに殺されないために~声なき者への社会論』御田寺圭著


書籍ということであえてトーンを抑えてるところもあるのかもしれませんが、これぐらいのテンションであると、(普段のnoteやtwitterはどうあれ)本書のみで扇動的とまで言うのはいささか難しいかなと感じます。

もちろん、この辺の印象は個人差があるので「甘すぎる」と言われるかもしれませんが。


感想のまとめと注意したい点

というわけで、改めてまとめておきますと、本書は「ただしさ」に対し否定神学的にアプローチするケーススタディ本であるというのが江草のとらえ方になります。

倫理の議論における「思考実験」が多くの場合に不快であるのは、自分たちの「ただしさ」の基盤がいかに脆弱で矛盾に満ちてるかを突きつけられるからです。
普段は現実の複雑さをもとにいくらでも言い訳ができるけれど、設定が鋭く整理された「思考実験」ではその逃げ道が封じられてしまう。
これにより、自分たちの倫理的根拠に真正面から向き合うことになるわけです。

同様に、不快なケーススタディを集めた本書は、まさしく私たちの「ただしさ」を真正面から問うものです。

ライス氏の批判もあるように本書や御田寺氏本人に疑念や問題点はあるにせよ、これからも社会を良くしていきたいと思うならば――私たちが「ただしくありたい」のならば――(仮に本書では過度に誇張されていたとしても)結局は避けられない課題ばかりではあると言えます。

だから、御田寺氏の持ち前の洞察力を活かした、現行主流となってる「ただしさ」に対する問題点の指摘、あるいはバグの指摘として捉えるのであれば、有意義な一冊ではあると思います。


気になった点①根拠の提示が甘いところが時々ある

とはいえ、本書を読んで気になった点は最後に触れておきます。

まず、これはライス氏も指摘の通り、さらりと事実のように提示されてるけれど、ところどころ根拠が不明な部分はあります。

たとえば、

パンデミックの中心地となり、人命にも社会経済にも深刻な打撃を受けたのは主として、イスラエルとは対照的に民主主義的で、自由主義的で、人権主義的な手続きや社会制度を尊重し、これをどうにか維持しようと努める西欧文明圏の国々であったことはけっして偶然ではない。

—『ただしさに殺されないために~声なき者への社会論』御田寺圭著

この「政治体制とパンデミック制御能の関係」は、たびたび議論になる難しいポイントと思うのですが、根拠となるデータの付記がないのですよね。

江草も別に詳しくないところなので、本書の見解をただちに誤りと断じるわけではないのですが、中国も上海で苦戦したり、ロシアやあるいは北朝鮮もパンデミックは制御できてなかったように思うので、そう一概に言えるものなのかとは思います。
少なくとも、イスラエルの一例だけで「自由民主主義国家がパンデミックに弱い」と一般化して述べるには根拠が弱いように思います。

他にも、時々「それ、この論拠だけでそこまで一般化して言えるかなぁ」と疑問に思う箇所はありましたので、事実確認には注意しながら読みたいところかと思います。(とはいえ世の多くの本で正直徹底されてるとは言い難いポイントでもありますので本書のみの注意というわけではないですが)


気になった点②「強者」が何不自由なく暮らしてるとは限らない

本書は「不可視化された弱者」の惨状にフォーカスを当てる一方で、日なたの道を歩いているマジョリティ(とくに知的エリート層)を「強者」として描いています。

「なに不自由なく暮らしているマジョリティは、なぜかれらがそのような祈りを捧げるようになったのか想像してもよいはずだ。」

—『ただしさに殺されないために~声なき者への社会論』御田寺圭著


「不可視化された弱者」が確かに相対的に厳しい状況にあるにせよ、そうでないマジョリティが本当に「強者」とまで言えるでしょうか。少なくとも「なに不自由なく」とまでは言えないように思います。

たとえば、マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』においても能力主義社会に疲弊する知的エリート層の記述がなされています。
デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』でも高給な知的エリート層にこそ人間の尊厳を毀損するブルシットな仕事が多々あることが指摘されています。

つまり、知的エリート層が社会においてメリットだけを享受しているわけではないのです。それはそれで別種の苦労をしているわけです。

確かに社会経済的にエリート層は間違いなく恵まれています。しかしながら、「彼らには彼らの地獄がある」。そういうものではないでしょうか。

それがいかに贅沢な悩みであろうとも、だからこそ彼らも引くに引けないところがあるわけですから、彼らの「弱者性」にもまたスポットを当てる必要があるでしょう。


また、本書で加害性のある「強者」として扱われがちな「女性」についても同様で、長い抑圧の歴史を無視するわけにもいきません。

たとえば、歴史上、ホロコーストという惨劇からイスラエル建国の悲願に執着したユダヤ人の行動が、その一方でパレスチナのアラブ人の排除をもたらしもしました。その経緯を踏まえれば、ここでアラブの人の悲劇だけをもってして、ユダヤ人を「強者」と扱うのも乱暴なわけです。

同様に、抑圧の経緯がある「女性」をただの「強者」として扱うのも、彼女たちの「弱者性」を不可視化するもので、「弱者の可視化」にこだわる本書のスタイルからすればフェアではないように思われます。


気になった点③問題があるからといって「自由主義」や「民主主義」を捨てるべきとも言えない

あと、本書が指摘する通り「自由主義」や「民主主義」に問題点が残っているからと言って、それが直ちに「自由主義」や「民主主義」を捨てる理由にはならないことも注意が必要でしょう。

なんであれ、世の中には完璧ということはなく、問題というのは残るものです。

たとえば、「自由主義」や「民主主義」というものがいかに「良い薬」であっても、副作用はやはり起きますし、治らない人もいます。
ここで「副作用」や「治らない人」を無視するな、というのが本書の主旨と言えますが、だからといって、副作用があるから、治らない人がいるからというだけで、「良い薬ではない」「使うべきではない」というのは拙速な結論になります。

むしろ、副作用や治らない人という「不都合な現実」が残っていることを知った上で、さらにそれをどう減らしていけるかを考え続けるのが、真にただしくありたい人たちの責務と言えるでしょう。

つまり、まだ改善の余地や課題がある「良い薬」でしかないのに「完璧な薬」と信じ込んでる人に対する警鐘までが本書の役割であり、「使うべきでない薬である」とまでは論証できてないことに注意が必要です。

「使うべきでない薬である」と言うためには、メリットとデメリットの比較など、様々な議論が必要ですが、あくまでケーススタディを提示している構成なのもあり、そこまでの議論には本書は至れていません。(むしろそこは御田寺氏自身も分かって書いているように思います)


もちろん、本書の指摘を踏まえた上で、本当に「自由主義」や「民主主義」で良いのかというのは今後議論を進めることはできると思います。
これだけの「不都合な現実」があるのだから「今の世の中はただしくなんかないんだ」と主張することも可能です。

ただ、それと同時に、本書の指摘を糧として、「自由主義」や「民主主義」などの「ただしさ」を修正して改善進歩させていくという方向性で考えることも可能でしょう。

本書が諦観するようにそれは全くもって簡単なことではありませんが、改善は不可能だと確実に証明されたわけでもありません。
過去に到底不可能に思われていたことを可能にしてきたのが人類の進歩の歴史でもあるからです。


だから、本書の指摘を受けて、諦めるのでなく改善の道を考え続けるのが「ただしい側」の闘いのあり方なのでしょう。

すなわち、難しい課題だからと目を背けずに解決のために可能な限り努めること、それが本書が提示した「ただしさ」という物語への挑戦に対する応答になるように思います。


参考書籍

付録として、本稿でちょこっとだけですが触れた本のリンクも置いておきます。


あと、御田寺氏のスタンスとは逆に、社会の進歩や民主化などをガッツリ擁護する「ただしさ側」の骨太本として『21世紀の啓蒙』もオススメです。
こちらも読むとバランスが取れるかもしれないです。

(これを書いたスティーブン・ピンカーがまさにポリコレ的な「キャンセル・カルチャー」のターゲットとなってしまったのが皮肉な話なのですが)

(2022/06/26付記)

思いがけず多くの方に読まれているようで恐縮です。
あくまで一人の読者の視点ですので、もっと違う読み方もいっぱいあると思います。
読者のみなさんから色んな意見が出て、さらに議論が深まるといいなと思っています。

せっかくなので、後日談というか感想戦的な話を付記しておきます。


ライス氏からの言及

なんと、本稿は御田寺氏との対比で登場いただいたライス氏からも言及いただきました。

色々と非礼なところがあったかと思いますが、怒ることなく丁寧に受け取ってくださったことに感謝いたします。

しかしながら、このライス氏の記事を読む限り、ライス氏と御田寺氏の間の溝はさらに深まってしまったようで残念です。

手法や姿勢は違えど、「反ポリコレ」とか「反キャンセルカルチャー」などと、方向性に共通する部分は少なからずあるように見えるので、お二人が部分的に共闘できるとよかったのですが。
こうなってくるとなかなか難しそうで悲しい限りです。

そして、大変失礼なことに肝心のデビット・ライス氏(ベンジャミン・クリッツァー氏)の著書のリンクを貼ってなかったことに気づきました。

ライス氏の社会や道徳の見方が色濃く表出された熱い書ですので、とくに今回の「ただころ」論争でライス氏が「どうしてこんなに怒ってるのか」が気になられた方は、ぜひ読まれるべきかと思います。

ちなみに江草としては、本書の内容は是々非々といったところ(だいたいの本はそうなるのですが)。
とくにデイヴィッド・グレーバー推しの江草的にはライス氏による「ブルシット・ジョブ」関係の解釈は正直納得できないところもありました。今後機会があればそのあたりの個人的な意見も書けたらと思います。


御田寺氏(白饅頭氏)からのエアリプ(?)

あと、なんと『ただしさに殺されないために』の著者ご自身である御田寺氏からもなんとなく言及された(エアリプされた)感じがありました。

「民主主義や自由主義を捨てよう」という言い回しが本稿と一致してるので、多分お読みになられたのかなと思います。
恐縮すぎて、なんかほんとすみません。

それで、あたかも御田寺氏が「民主主義や自由主義を捨てよう」と言ってるかのように受け取られたとすれば、完全に江草の文章力の無さによるもので申し訳なかったです。

あくまで、御田寺氏が「民主主義や自由主義を捨てよう」などと言ってないからこそ、本書の内容だけで「民主主義や自由主義を捨てよう」という解釈(新反動主義的な解釈)に飛躍しないように注意が必要だよね、と江草は言おうとしただけでして、大変失礼いたしました。

しかし、実際、こうやってご本人さえ「民主主義や自由主義を捨てようなんて言ってない」と改めておっしゃってるわけですから、なおのこと反民主主義、反自由主義に急進的に振れないように読者は注意をする必要があるとは言えるでしょう(補足いただきありがとうございました)。

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