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『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』読んだよ

しかし彼女は「あなたには価値がある、と確信を持って育てられたことは非常に幸運だった」と書いている。「働かない権利とは」と彼女は続け、「人の価値を労働者としての生産性や、雇用され得る能力、または給料で決めさせない権利だ」と主張する。

ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』


ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』読みました。

本書のテーマは「燃え尽き症候群」。いわゆる「バーンアウト」ですね。社会でしばしば観測される仕事で燃え尽きてしまうバーンアウト現象の実態と対策について考察した書籍になります。

結論から言うと、とても推せる本でした。著者と飲みに行って語り合いたいぐらいこの本好きです。


元神学教授によるバーンアウト論考

著者のジョナサン・マレシックはアメリカの元神学教授の方です。なぜ神学者がバーンアウトの話を?しかもなんで「元」?と疑問が湧くと思うのですが、実はこの著者自身がバーンアウトして終身教授の職を辞した経験の持ち主だからです。

教職に理想を持ち熱意を持って教壇に立ったはずの自分が燃え尽きてしまったのはなぜか、これはどういうことなのか。ご自身の経験から生まれた疑問の集大成がこの本になるわけです。

江草の勝手な印象では神学者の方ってあんまり燃え尽きるタイプではない気がして意外だったのですが、あまりに江草の人生経験上、神学者の方と交流がないために江草のイメージが貧困だったのでしょう。勝手に俗世を超越した存在かのように思ってしまっていただけだったようです。

むしろ、本書を読むと、そうした俗世を超えた理想を掲げたまま現実世界の実務に携わる人ほどバーンアウトの危険性が高まることを痛感させられました。(もっと言うと、神学者だからこういう人物のはずだというバイアスを持つことの問題をも感じられます)

そもそもバーンアウトとは?

まず、著者はバーンアウトという用語は世の中でよく語られはするけれど、その実態がよく定義されずに使われていると指摘します。ここをちゃんと整理しないと問題を問題としてちゃんと取り扱うことができないと。この辺の丁寧な感覚が、めっちゃ学者さんぽくていいですよね。

で、著者のバーンアウトの定義はこちらです。

この本のなかで私はバーンアウトを、仕事に対する「期待」と「現実」のギャップに引きずり込まれることと定義した。

ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』

めちゃシンプルで分かりやすいですね。しかし、これがまたシンプルでありながらなかなか奥深い定義となっています。

「期待」と「現実」のギャップなのだから、つまりアクターとしては「期待」と「現実」という二者がいるわけですね。

仕事を理想化しすぎている社会文化を批判

ところが、世の中でバーンアウト対策が語られる時、往々にして「現実」の方にばかり注目されがちです。過労を抑制しようとか、ハラスメントを無くそうとか。つまり労働環境の是正ですね。

それはそれで大事ではあるのですが、ここで見落とされてるのが「期待」の方です。「理想」と言い換えてもいいでしょう。著者は労働環境の悪化(「現実」の悪化)とともに、「理想」の高まり、すなわち仕事への期待感や依存度が強くなりすぎてることもバーンアウトが多発する原因となっているのだと主張します。

そしてこの五〇年で広がった文化的現象であるバーンアウトは、これまで長く信じられてきた考え方、すなわち仕事は報酬を受け取る手段というだけでなく、その人の尊厳や人格、目的意識を保つ手段である、という考え方に根ざしていると考えた。

ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』

私は本書が、仕事は私たちに尊厳を与えるものでもなければ、私たちの人格を形づくるものでも、生きる目的を与えるものでもない、ということを人々が理解する一助になってくれることを願っている。仕事に尊厳を与えるのは私たちであり、仕事の性格を形づくるのも、人生のなかで仕事をどう活かすかを決めるのも私たち自身だ。それに気づけば、仕事に入れ込みすぎなくなり、労働環境の改善を考えるようになり、賃金労働をしない人たちのことも尊重できるようになるはずだ。

ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』

私たちの社会文化では、仕事がアイデンティティとみなされ、社会貢献している印とみなされ、存在意義や地位を表すものとされてるけれど、そうした仕事に依存した文化から脱しようとしなければ、いくら労働環境の改善だけを図ってもバーンアウトはなくならないだろうと。

これが、本書のキモとなる論旨であり、そして慧眼な視点であると思います。

労働環境という「現実」の方だけ見ていてもダメで、仕事への過度な「理想」という社会文化の方も変えないと抜本的な対策にはならないのですよね。

なんなら、バーンアウトの対策として「自分に合った働き方や、自分に合った組織を見つけ、主体性を持って取り組みましょう」みたいなことも時に言われますけれど、著者も指摘の通り、これは全然仕事に対する過度な理想を捨てきれていないんですね。

それは、どこかに「白馬の王子様」的に自分を助け出してくれる完璧な仕事があるように思っているし、何より仕事がないと自分が完成し得ないという前提に立っています。そして、バーンアウトを実質的に労働者個人の責任として片付けてもいます。

これでは労働環境という「現実」がよくなったとしても、完璧主義的に「理想」もどんどん高めているようなもので、バーンアウトを引き起こす「現実」と「理想」のギャップを埋めることにはなりません。アクセルとブレーキを同時に踏んでるようなものですね。

仕事の有無や内容に関係なく人には尊厳がある

実際、「無職である」と聞くと私たちは負のイメージ(スティグマ)を抱きがちで、誰も彼もが「雇用の充実を」と叫び、無職の人たちが全員就職することが理想であるかのように扱います。障害がある方でも仕事ができるような環境を整えて仕事に就いてもらうことで尊厳を持ってもらおうという試みも多々なされます。

こうした仕事に就いてもらう試み自体が誤りとか悪であると言うわけではないのですが、忘れてはいけないのは、そもそも人は仕事がなかったとしても、尊厳ある人間として扱われるべきだろうということです。

「仕事で人としての尊厳を」と発想する時、それは無意識のうちに「仕事の有無」を人を判断する材料としています。仕事を絶対善として、人の尊厳の必要条件と考えてしまっています。

しかし、著者は、それこそ仕事に過度な期待を持ちすぎ、すなわち仕事を理想化しすぎなのであって、バーンアウトの元凶となる社会文化であるとして批判します。労働環境だけでなく、この社会文化を見直さないとバーンアウトで苦しむ労働者が後を絶たなくなるだろうというわけです。

なので、著者の結論は、先述の通り仕事の有無に関わらず人の尊厳があることを思い出すべきだということと、加えて、仕事外の人間の営みにもっと目を向けるべきだというものになります。仕事で人間の価値は決まらないし、仕事以外にも人生の豊かさは多々あるんだと。だから、余暇での活動を強化して仕事中心ではない生活をしようと提言されています。(内輪ネタで恐縮ですが、もはやヨカ教&アンチワークと言ってもいいかもしれないぐらいの提言ですね)

本稿冒頭の引用箇所にもよく表れている著者の主張は、江草のこの記事の主張ともかなり近く、共感の嵐でした。

そして、人の尊厳を取り戻すためとして、ベーシックインカムの導入にも支持的に触れられています。ベーシックインカムは仕事に関係なく入る不労所得を肯定するシステムですから、脱仕事主義と相性がとても良いんですよね。

もう、ほんとあちこちで「ベーシックインカムが必要」って主張が出てきて、とどまることをしらなくなっているなあと感じます。

本書の大雑把な流れ

さて、そうした結論に向けて、そもそもバーンアウト文化がどのような歴史的経緯を紐解いたり、バーンアウトの仕組みの分析をされたり、バーンアウト文化を脱出するためのヒントとして仕事中心でない生き方や働き方を実践してるコミュニティや個人を紹介していくというのが本書の全体の流れです。

さすが元教授だけあってか、綿密に骨太にバーンアウトを調査分析されていて、とても読ませます。

バーンアウトのパターン分類

特に面白かったのが、バーンアウトのパターン分類ですね。

バーンアウトと聞くと、一般には仕事を頑張りすぎて無理がたたって疲れ果てて鬱になって仕事を辞める、みたいなイメージしかないと思いますが、著者は実はもっと他のタイプのバーンアウトも社会に蔓延していると指摘します。「ここからがバーンアウト、ここまではバーンアウトではない」みたいな明確な線引きがあるわけではなく、人によって個別の進行段階や道筋があるよというスペクトラムがバーンアウトにはあるのだと。

この説明に用いられてる竹馬のたとえが大変わかりやすく秀逸でした。

人は「現実」の竿と「理想」の竿をそれぞれ片手ずつ握っているようなもの。両方の竿が綺麗に垂直に立っていてバランスが取れてる状態はバーンアウトではないのですが、2本の竿の位置が離れていくと、だんだん竹馬がハの字になってきてバランスを保つのが大変になってくるというイメージですね。

そこで人が取る対応の一つが、バランスが悪くなっても両方の竿を離さないように力を込めて握りしめるというパターン。無理やり握ってるので消耗感が出てきます。

2つ目のパターンが、「理想」の竿を捨てて「現実」の竿だけ持つことにするもの。現実に妥協するだけになって、客を客とも思わないシニカル(冷笑的)な態度になると。なんか、あまりこう言うとなんですが、こういう人は医師にもいるんですよね。でも、これもバーンアウトの一つの形なのだと思えば腑に落ちるところがあります。

3つ目のパターンが、「現実」を見ないようにして「理想」だけ持ち続けるもの。これはこれで理想に近づけないことに対して、無力感と失望感が出てくるわけです。

最後の4つ目のパターンが、いよいよ「現実」も「理想」も手放してしまうもの。竹馬から落馬した状態です。疲れ果て仕事に何の意義も見出せず、自分が空っぽに感じ、ほとんど何もできなくなる。これぞ一般にも知られるバーンアウトの最終形態なんですね。

こう考えると、人によって差はあるものの、かなり多くの人がバーンアウトのスペクトラムに乗ってると言え、広く蔓延した社会病理に見えてきます。

もちろん、人によっても、職種によっても、バーンアウトのしやすさは違ってくるわけですが、これは竹馬で言うところの足場の高さとしてたとえられていました。足場が高めでバランスを取るのが難しいキャラの個人や職種があるというわけです。面白い表現ですよね。

脱仕事中心社会のヒントを求めて修道院へ

また、神学者の著者だけあって、修道士の生活に脱仕事中心社会のヒントを求めて修道院に取材に行ったり、教皇の言説やキリスト教史から社会の仕事文化を紐解いていくなど、珍しい視点での仕事論が読めるのは非常に貴重な体験でした。

明言はされてはいませんでしたが、教皇や修道院に依拠した論考をしていくことから想像するに、おそらく著者はカトリック系の方なのかなと思われます。仕事を善とするプロテスタンティズム資本主義へのカトリック側からの反発として見ることもできそうです。(なお、共産主義も同様に労働中心のイデオロギーであるとして批判されています)

特に修道院での「祈り」という行為に注目されてるのは興味深いところでした。確かに「祈り」というのは生産性も何もなく、ただ純粋に「祈り」のためにしか存在しない行為であり時間です。こうした祈りの時間を仕事の時間よりも徹底して優先する生活に私たちが学べるところは多そうです。

隙間時間があるや否や、そこでもできる限り生産性があることをしようとして頑張ってしまう私たちに欠けてるのは祈りの時間のようなただその時間のためにこそ存在しているピュアな時間なのでしょう。

私たち人間はつい働きすぎてしまう、仕事に囚われてしまう存在だからこそ、宗教生活ではわざと「安息日」や「祈りの時間」が絶対的なものとして設けられているのだと。神に休めと強制されないと休まない(休めない)のが人間なんですね。こうした、仕事を「人間にとりつく悪霊」としてとらえる見方はなかなかに新鮮でした。

もっとも、本書は信仰に根ざしたような宗教的な話に突入するわけでもなく(全然入信しろとか修道院に入れという主張ではないです)、世俗世界に住む無信仰の一般人の私たちでも自然に納得できる論考となっています。著者はこの辺のバランス感覚が丁寧で、とても好感が持てます。

医療界はバーンアウトの温床

あと、医療界がバーンアウトの温床であることを指摘してくださったのは、よくぞ言ってくれたという想いですね。(まあ、何を隠そう江草もバーンアウトした一人なので)

先ほどのたとえで言うと、竹馬の足場が高くて不安定な業界が医療であると。

特に、人命を救うためという高い「理想」を持って医療界に入った人たちが、圧倒的な量のパソコンでのデスクワークや書類仕事ばかりの「現実」に汲々としている姿の説明はとても鋭いものがあります。

バーンアウトは、理想と現実の乖離によって起こるため、コンピューターの前で過ごす時間が長い医師がバーンアウトしやすいのはよくわかる。臨床医を目指す学生で、医学部の志望理由書に、「電子カルテが大好きだから」と書く人はまずいないだろう。ミシシッピ州の内科医、サムナー・エイブラハムは、研修医の指導をしていると、現実と理想のギャップに悩む新人医師をよく見ると言っていた。「思い描いていたことと現実が違いすぎて、自分はいったい何をやっているのか、と感じてしまうのです。彼らは、時間をかけて患者の話を聞き、安定した収入を得、週末は休める生活を期待していた。それなのに時給は九ドル。夜勤も休日出勤も多いうえに、ほとんどの時間をコンピューターの前で過ごさないといけない」。そうこうするうち、若い医師たちは疲れ果て、どんどん落ち込んでいく。しかしエイブラハムは、その疲労は過重労働によるものではないと言う。なぜなら医療界はこの二〇年間、研修医の長時間労働を削減してきたからだ。研修医たちが疲弊しているのはむしろ「自分が何をやっているのかわからなくなるからだ」とエイブラハムは言う。

ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』

「医師の働き方改革」が言われつつ、どうにも進んでおらず(というより規制を逃れる脱法行為が横行していて)大変な問題となっている日本の医療界でもまさしく当てはまる指摘かなと思います。

労働時間だけでなく、その仕事内容が理想と乖離している問題ももっと注目されないと、抜本的な働き方改革にはならないでしょう。

まとめ

とまあ、すでに色々書きましたが、本書ではまだまだ注目すべき論考が山ほどあります(もっと語りたいけどすでに長いのでここらで止めておきます)。江草の最近の読書生活でも、本書はハイライトを引いた数が群を抜いて多い一冊となりました。

『ブルシット・ジョブ』や『何もしない』に触れたり、『消費ミニマリズムと脱資本主義の精神』に近い話も出たり、『WORLD WITHOUT WORK』的にAIでの仕事置換による脱労働の未来像も語られたり、江草が過去紹介してきた書籍たちの議論をさらに引き継いだような内容になっていて、とても満足感がありました。

特に、バーンアウトという一般の方にも馴染みのある概念を切り口に、仕事中心社会の病理を鋭く指摘されたのは素晴らしい仕事だなと思います(「仕事」と表現するのはなんか皮肉な言い方になってしまいますが)。

『ブルシット・ジョブ』なんかはやっぱ一見では意味が取りにくい概念ですし、著者のグレーバーの独特の語り口かつ長大なボリュームでやっぱり普通の人にはなかなかスッと入ってこないと思うんですよね。

だから、こうやってとっつきやすい脱仕事論の書籍が出てくるのはとても嬉しいなあと思います。

現代の仕事文化に多少なりとも疑問を感じてる方にはきっと刺さるのでオススメです。

江草も今後とも折に触れて参照する可能性が高そうです。



【付録】関連書籍&関連記事

一部は本文中でも触れましたが、本書と関連が強そうな書籍や、江草が書いたnoteを付録としておいておきます。

本書の内容に関心がある方はこれらもきっと興味を引かれるかと思います。

『ブルシット・ジョブ』

『何もしない』

『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』

『WORLD WITHOUT WORK』

『労働なき世界』『働かない勇気』

※あ、こっちは書評書いてなかった

『働くことの哲学』


しかし、こう見ると我ながらいっぱい読んで書いてますなあ。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。