見出し画像

『私たちはどう学んでいるのか』読んだよ

皆さまゴールデンウィークいかがお過ごしだったでしょうか。
江草のゴールデンウィークは書きものよりも読書が優位の日々になったために随分と読了図書が溜まってしまいました。
読んだきりだと学びが薄まってしまうので、簡単にでもちょこちょこっとそれぞれ読書感想文を記していきたいなと思います。

というわけで、今日の一冊はこちら。
鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』読みました。

先日の江草のnoteでも紹介した荒木博行さんの『独学の地図』や、Podcast「ブックカタリスト」で絶賛されていた本でして、江草も「こりゃ読まにゃあきまへんな」と思って購入したものです。


著者の鈴木宏昭は教育学教授の方。
テーマはタイトル通り、私たちの学びの仕組みに迫る本なのですが、とにかく私たちの一般常識的な学習観、教育観を覆す驚きの指摘に満ちていて、噂に違わず大変刺激的な良書でした。

本書はまず冒頭からして衝撃的で、いきなり鈴木は私たちが当たり前のように使っている「能力」の概念を否定します。

能力というのはアブダクションから生まれた仮説である。そこに不適切なメタファーが加わることで、誤った能力観が広まっている。それは能力の安定性、内在性という見方である。なぜこれらが誤っているかと言えば、人の認知にほぼ普遍的に見られる文脈依存性を説明できないからである。よって認知的変化を考えるときに、能力という仮説は不要である。

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』

今どき本屋に行けば「○○力を鍛えよう」みたいなノウハウ本が満ち溢れていますし、「個人の能力に応じた報酬を与えるべき」なんて能力主義的感覚は社会的にも広く普及していますが、鈴木は「能力?そんなものは幻だ」と一蹴してしまうのです。

私たちが「能力」という語句を用いる場面では、個人の中に内在的に存在し常に安定して発揮される「力」があるかのようにイメージされていますが、実在しないものを実在してるかのように勝手に想像してしまった誤ったイメージに過ぎないというわけです。

たとえば「論理的思考力」。この「能力」が個人の中に本当に存在するならば、同じ構造の論理問題を人はいつでも同じように解けるはずですが、全く同じ構造の論理問題であっても出題の文脈が変わった途端に正解率が変わるという現象が知られているそうです(具体例の詳細は本書をあたっていただくとして、ここでは割愛します)。
実際、江草もこの文脈依存性の問題は他書でも指摘されてるのを読んだことがあります(とくに自身の信念や価値観を左右するような文脈の問いだと一気に人は非合理な頑固者になるそうです)。

確かに、こう見てみると「能力」とはあまりにも不安定な代物だなと思わされます。にもかかわらず、個人の中にそうした測定可能で比較可能な固有の「力」が存在するとして、それで優劣を付けたり、報酬の多寡を決めたりする私たちの社会は、いくぶん乱暴なことをしてしまっているかもしれません。
昔から定番の例で言えば、テスト問題という「極めて特殊な文脈」にだけ最適化された人材ばかりが「この人は能力が高いから高収入に値する(もしくは高収入職に就くチャンスを与える)」とみなされうるわけですから。

他にも、本書では「知識とは何か」「上達するとは何か」「発達するとは何か」「ひらめくとは何か」と学びの仕組みについて紐解いていきますが、どれもこれも非常に興味深い指摘で山盛りです。

とはいえ、それぞれを説明すると大変に長くなるので、大変失礼ながらここで本書の要点を江草的に雑にまとめてしまいましょう。

つまるところ、わたしたちの学びとその発揮は、個々の要素に還元できるようなものでなく、その人が置かれてる環境・これまで得た情報・これまでの経験といった多様なリソースが複雑に連関して組み合わさって「創発」される極めてユニークな現象であるというのが、著者の鈴木のイメージするところと言えそうです。

それゆえに、先ほどの個々人に紐付けられるような「能力」というイメージや、あるいは何かを学ぶ時に「○○ができるようになったら次は△△を行う」というような「スモールステップ的」「チェックリスト的」な画一的教育訓練手法を鈴木は厳しく批判しています。

笑ってしまったのが、そうした「悪い教育法」の一例として、江草も属する我らが医療界の教育法が紹介されてしまっていることです。

私の研究室には、看護教育の教員、理学療法士がいるが、こういう医療系の人材養成機関ではチェックリスト方式というのが大流行だそうだ。つまり学習すべきことを分解し、細分化し、それを表にする。教員、学生はこれを用いることで、学習済み、経験済みのこと、これからやらねばならないことを簡単に把握できるという。その数は膨大だ。ある看護師養成機関のチェックリストを数えると、 150を超す項目が並んでいたりする。だが、これまでのことから考えれば、こうした教育は近接項に特化されすぎて、遠隔項である患者の姿、患者の生活を不可視にしている危険性が高い。実際、臨地実習であるチェックリスト項目をクリアするために患者のところに行った学生はそれに集中し、布団がずり落ちそうになっていてもまったく気にかけないという。本書の観点から言えば、人の敷いたレールの上を、揺らぎなく、単一の方法でクリアしていくという、創発とはまるで正反対の学習が生み出されているということになる。
チェックリストなどの「きちんと教える」教育は、やっている方も受けている方もなんとなく満足する。「ここまでやった」、「ここをクリア」、「次の課題はなんだ」などという雰囲気に浸れる。しかし、これは「教育ごっこ」に陥る危険性は高いと思う。

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』

ここではあくまでコメディカルの話ですが、医師の臨床研修や専攻医研修でもこういう画一的なチェックリスト型の教育方式がちゃっかり取り入れられているので、苦笑する他ありません。これでは表面的な模倣に過ぎず真の目的に寄与する深い学びにつながらないという鈴木の指摘は大変に耳が痛いところです。

もっとも、おそらくですが、こうした還元主義に基づいた「個人の能力」の存在を前提とした画一的なチェックリスト方式の教育は管理がしやすいので、それが誤りであってもなおつい選ばれてしまうのでしょう。
鈴木の言うような多様で個性的で潜在的で遅効性のホールネス的「学び」というのは、それが本質的であったとしても社会がそれをどう扱っていいものやら困ってしまうということなのだと思います。

たとえば、鈴木は本書でチェックリスト方式と対照的な「完成形を総合的に経験的に学ぶ方法」として徒弟制を肯定的に提示されています。実際、本書の指摘からすれば確かに徒弟制が理想的な学びの方式に近いと考えることには説得力があります。
ただ、徒弟制は良くも悪くも外部からの監視や管理が困難なスタイルであるがゆえに、パワハラや贔屓、差別の温床にもなってきたことも否定できないでしょう。
その教育の閉鎖性への反省から体系的なチェックリスト式の教育が発展した可能性も考えるとなかなかのジレンマを感じます。

本書のような学びと教育の本質に迫った知見を活かして、もうちょっと画一的でない社会や教育体制になれたらいいのになあと江草ももちろん思うのですが、この辺の問題がネックでなかなか普及しないのかなあと悩ましいところです。

何かいい方法ありませんかね。


というわけで、「学び」に関する衝撃的かつ興味深い知見にあふれた本書。
新書ゆえボリュームもたいしたことないですし、各章の冒頭に「要約」もつけてくださるという親切ぶりで、すごく読みやすいです。
世の中の「学び」をより良くするために広く読まれて欲しい一冊でした。

この記事が参加している募集

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。