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大津秀一先生の「隠れ優生思想」記事は何が問題か

先日はむっち先生がある記事に大変激昂してらっしゃいまして。

その記事というのがこちらの大津秀一先生のBuzzFeed記事。
何事かと思い読んでみました。

なるほど。


言わんとすることは分からないでもないので、はむっち先生ほど反発心はわかないですが、正直なところ確かに問題含みの記事と感じました。

非常に社会的にも大事なテーマの話でもあり、いい機会なので大津先生の記事の批判的レビューをしてみたいと思います。


正直なところ、丁寧にレビューするのは時間もかかるし骨も折れます。
ただ、一応doctor's doctorの端くれでもあり、臨床の先生方の意見が対立してる時や臨床の先生が危険な行為に及びそうな時に意見を出すのは責務のうち。
そして多分江草が書かないと、こういうことをちゃんと指摘する人はいなさそうとあって、ちょっと久々にdevil’s adovocate張らせていただきました。

なお、一応先に明記しておきますと、江草は、大津先生の「高齢者志向」の主張や、一方のはむっち先生の「若者志向」の主張のどちらにも中立的というか、保留の立場です。
どっちもおかしいなどと思ってるわけではなく、単純に江草の知識不足、考察不足、勇気不足により立場を決めかねてるだけです。
自身でできる限りは考えてはいるのですが、なにせ簡単な議論ではないので。


大津先生の主張の概要

さて、記事における大津先生のメインの主張を一言でいえば、
「コロナ禍における議論でよく見られる高齢者の命を選別するような意見は間違っている」
というところでしょう。(江草による勝手なまとめなので誤ってたらすみません)


高齢者の命を選別するような意見とは

その「高齢者の命を選別するような意見」とは何か。

具体例として

  • 「高齢者がコロナで死ぬのは寿命だ」

  • 「高齢者に人工呼吸器を使うから不足する」

  • 「高齢者やハイリスクな人より、若者の生活を考えろ」

などが挙げられています。


高齢者の命を選別するような意見が誤ってる理由

そしてそれらの意見が誤ってる理由として、大津先生は

  • コロナ禍で積極的な治療対象となった高齢者は必ずしも広義の終末期の高齢者ではなく、したがって言われてるほど無益な医療行為とは言えないこと

  • 感染対策を積極的に行った方が社会経済的にもかえって被害が少なく、むしろ若者にも有益であること

などを、数字や参考文献を添えて主張しています。


ここまでの議論はおかしくない

で、実を言えばここまでの議論はおかしくありません。

対立意見に対し根拠を添えて反論し、自分の主張の正しさを論証する。

適切な議論の流れです。

大津先生の掲げる主張はなんだかんだ言って一理あります。心情的にも受け入れたくはなります、おそらく社会でも主流の立場でしょうし広く支持も集めるでしょう。
有力な立場の1つとしてこうして議論で掲げるのは妥当なところかと思います。

ただし、それぞれの根拠の十分性や妥当性はもっと吟味する必要があるので、これでただちに大津先生の主張が正しいと言えるわけではありません。今のところ議論の流れとしておかしくないという意味です。

はむっち先生ら対立論者がこれに反対するためには、大津先生の挙げた根拠が不十分であることを示すことが必要になります。
そういうやり取りであれば、互いに丁寧に批判的吟味をしあう合理的かつ理想的な議論の形態と言えるでしょう。


問題の「隠れ優生思想」論

しかし、問題なのは記事のタイトルにもなってる「隠れ優生思想」論です。

大津先生は、先ほどのような「高齢者の命を選別するような意見」を主張する方々に対して「隠れ優生思想」を持つ人間だとして非難しています。
これを高齢者の終末期医療の自己決定権を侵害する危険な思想として、節々でダーティーに描写しているのです。

世の中の不満を代弁するかのような「感染対策が過剰」「若者が高齢者の犠牲になっている」という見解は一定の支持を得た。実際に識者も、そして私自身も交流があった医療者が何人もその主張に手を染めるようになった。

大津秀一 コロナ禍で医療者にも広がる「隠れ優生思想」
(太字は引用者)

SNSが発達した現在、世間と反対の主張である逆張りを唱えたり、社会のある一部の層の代弁をしたりする行為が、フォロワーと支持者を増やし、ビジネスや自己承認欲求の充足につながるのはすでに指摘されてきた通りだ。実際それをうまく活用してメディアに露出している識者も少なくない。

大津秀一 コロナ禍で医療者にも広がる「隠れ優生思想」
(太字は引用者)

こうした言説を気軽に拡散する人がいるために、「隠れ優生思想」がはびこる側面は否めない。

大津秀一 コロナ禍で医療者にも広がる「隠れ優生思想」
(太字は引用者)

「手を染める」「ビジネス」「気軽に」「はびこる」など、対立論者のモラルや動機を軽薄かつ悪徳であると勝手にみなしています。

議論が熱くなると誰もがついついやりがちで(江草も時々ついやります)、気持ちは分からないでもないものの、これらはいわゆる人身攻撃や悪魔化であり、議論のマナー違反、ルール違反にあたります。


人身攻撃は、ある論証や事実の主張に対して、その主張自体に具体的に反論するのではなく、主張した人の個性や信念を攻撃すること、またそのような論法。論点をすりかえる作用をもたらす。人格攻撃論法ともいわれる。論理性や合理性を持って判断するクリティカル・シンキングにおける論理的な誤りである誤謬のひとつ。

 Wikipedia 人身攻撃

そして、大津先生は最終的に対立意見に「優生思想」のレッテルを貼り、それを「主張すること自体」を否定しています。(ここで「主張の内容」ではなく「その主張をすること自体」を大津先生が批判していることに注意してください)


そして、そのような論を、一部の専門家や医療者がもし発信した時は「それは隠れ優生思想ではないか」と指摘することも大切だ。
(中略)
専門家や医療者がそのような言説を主張するのは良くないことであるという認識が広く持たれることが重要だろう。

大津秀一 コロナ禍で医療者にも広がる「隠れ優生思想」
(太字は引用者)


「隠れ優生思想」、記事タイトルにも入れてますし、記事の締めでも何度となく強調する力の入れようで、「隠れ優生思想許すまじ」という大津先生の気概が伝わってきます。

しかし、この「隠れ優生思想」論が大津先生の記事における最大の問題で、そもそもその「隠れ優生思想」のレッテルが適切ではない上に、コロナ禍という未曾有の危機に対応するための有益な議論の妨げになるばかりか、思想と討論の自由の文化をも脅かす極めて危険なやり方です。


大津先生の「隠れ優生思想」論を批判する

では大津先生の「隠れ優生思想」論の何が問題か。具体的に個々のポイントについて説明していきます。


そもそも優生思想とのレッテルは適切ではない

まず、「高齢者の命の選別をするような意見」を指して優生思想とレッテルを貼ることが適切ではありません。

優生思想とは「優れた遺伝子を選別して残していくべき」という遺伝子プールの改良の思想であり、基本的に出生や生殖に関して出てくる思想です。
今回のような高齢者の終末期医療の議論では遺伝子プールの改良の話にそもそもつながりえず、優生思想の対象にはなりません。

もちろん、「命の選別」という意味では優生思想と同根のところはあるでしょう。ただ、それならそれで「命の選別」とだけ指摘すればいいのであって、対象が合致しない優生思想をわざわざ引き合いに出す必要はないはずです。あくまでそれらは似て非なるものなのです。


ではなぜ唐突に「優生思想」が出てきたのか。

ここからはあくまで推測になるのですが、大津先生が「優生思想」をわざわざ持ち出したのは、無意識的に「ナチスカード」を切る狙いがあったのではないかと疑わしく見えてなりません。

「ナチスカードを切る」とは論敵を「ナチスに似ている」と断じて貶める詭弁の一つです。
医療倫理の入門書でも、定番の誤謬として紹介されています。


幇助死を批判する議論で、「ナチスのカードを切る」 と呼ばれる議論は、よく使われるものの、論理的に妥当ではない。このカードが用いられるのは、幇助死の反対者が、幇助死の支持者に対してこう述べる場合である。 「あなたの見解はナチスとそっくりだ」。つまり、 反対者はこのレトリックによって、「したがってあなたの見解は不道徳きわまる」と言っているのである。

『医療倫理超入門』岩波書店 15p


もっとも、大津先生の記事には一切ナチスやナチズムの言葉は出てきていません。
しかしながら、現実、優生思想はナチズムと結び付けられて絶対悪としてみなされている歴史的経緯があります。論敵を「隠れ優生思想」と呼ぶやり方は実質的に「ナチスカードを切る」のと同等の行為と言えます。


このようにして成立したナチズム=優生社会=悪の極北という図式は、研究や技術使用の場面にナチス優生政策との類似点を見つけ出し、そこに危険が含まれることを喚起する機能を果たすことになった。このような機能をもった優生学を「危機イメージとしての優生学」と呼ぶことにする。
ここでは、「おぞましい」ナチス優生学がどのように危険かという設問は不必要とみなされた。 また、ナチズムの優生政策だけが問題にされ、他の優生政策はあたかも存在しないもののように扱われてきた。他の優生政策を見えなくさせた、この作用は重要である。

『優生学と人間社会』 講談社現代新書 p239-240


また、大津先生は記事の中で、再三「患者の自己決定権」を肯定しています。このことからも、社会のために強制的に個人を犠牲とするナチズムのような「全体主義」への反発心が、大津先生が優生思想のレッテル貼りを企図した遠因となった可能性は十分にありえるでしょう。

つまり、
「高齢者の自己決定権を阻害する意見」→「命の選別」→「優生思想」→「全体主義」→「絶対悪」
という図式を大津先生は暗に想定されてるように思えるのです。


しかし、そうだとすれば、これは古く浅い想定と言わざるを得ません。

なぜなら、皮肉なことに今や自己決定権の追求こそが優生思想の本丸だからです。
現代の優生思想を巡る議論は、社会による強制ではなく、まさに大津先生が肯定するところの自己決定権の発露としての優生思想をどう制御するかの議論に至っています。


その典型例が、ペンシルベニア大学のバイオエシックス・センターのA・キャプランらが書いた「優生学の何が非倫理的なのか」 (British Medical Journal, 第三一九巻、一九九九年一一月一三日号)という評論である。 このなかで彼らはこう主張している。

過去に起こったことと未来に起こるであろうことは決定的に違う。ある集団の遺伝的改善を構想すれば、必ず個人とは別の権威が存在し強制力が伴 うことになる。しかし個々人の生殖の自決権として考えれば、事態はまったく違ってくる。親は、それぞれの宗教的信念や職業や習慣に従って、教育を介して、子供を自身の理想に合致させてきた。また、これまでアメリカ社会では、美容外科や心理分析やスポーツ医学の専門家がさまざまに肉体に手を加えてきた。ならば、なぜ親が自身の理想像に従って子供の遺伝的質を求めることをしてはならないのか。個人的な優生学的追求を非難する倫理原則は見当たらないようにみえる......。

優生学の悪を強制的であるか否かで区分するのは、歴史的にも意味がない。むしろここでは、アメリカ流の個人主義や自由主義が技術使用の場で貫徹されれば、必然的にこのような結論になってしまうという、単純な事実を認めるべきであろう。

『優生学と人間社会』 講談社現代新書 p265-266
(太字は引用者)


つまり、自分の子どもを選ぶのは自己決定権であるとして命の選別が行われているのが現代であり、今や自己決定権は優生思想と強くつながっています。
にもかかわらず、大津先生は自己決定権を強く肯定しながら、同じ記事で優生思想を糾弾しているのです。
これはなんとも収まりが悪く、整合性が取れてるとは言い難いでしょう。

現代の優生思想議論との兼ね合いをどのように考えて「隠れ優生思想」との概念を提起されたのか、はたまたナチズム的な優生思想しか想定に入れてなかったのか、少なくとも説明が不十分ではあるとは思います。


論点が散逸したので一度まとめますと。

  • そもそも高齢者医療という優生思想の定義に当てはまらない場面でわざわざ「優生思想」をレッテルとして持ち出している

  • 「優生思想」のレッテルを「ナチスカード」的に人身攻撃の道具として用いる誤謬を犯している

  • その一方で現代的優生思想と関連している自己決定権をむしろ強く肯定している

と問題や矛盾が多く、大津先生の「隠れ優生思想」論はいささか精彩を欠いているように思います。


命の選別の議論はむしろ倫理的見地からこそ必要である

でも、たとえ大津先生が「優生思想」というレッテルを持ち出したのは適切でなかったとしても、命の選別は命の選別なのだからやっぱり良くないのではないかと思われるかもしれません。

実際、今回の議論で大津先生が批判の矛先を向けている「高齢者診療を抑制せよという意見」が、命の選別に当たることは間違いないでしょう。
「命の選別」は「優生思想」に負けず劣らず強いスティグマとして社会から否定的に受け止められていることから、「優生思想」というレッテルを用いようが用いまいがそもそも大筋に影響がないとも見ることができるかもしれません。


しかしその上でなお「命の選別」の議論は求められるのです。むしろ倫理的見地からこそ必要なのです。

なぜなら議論をいくら避けたとしても、現実に社会や医療現場のリソースが限られている以上、命の選別はどこかで必要になってしまうからです。


治療技術や治療薬がないならまだしも、多くの医療資源を必要とするという理由だけで、治療を受けられない患者を選別するというのは考えただけでもゾッとする。にもかかわらず我々は、誰も議論したくないような問題をあえてオープンに議論すべきだと考える。これには二つの理由がある。第一に、臭いものに蓋をしても臭いものはそこに存在する。つまり、医療資源の人為的配分の決定に関する議論を回避したところで、現実にはどこかで誰かがその決定を行っている。それならば、いっそのことすべて表に出して意思決定の公正性をみんなでチェックする方が望ましい。我々はこれに対して反論できる倫理的理由は存在しないと考える。第二に、医療資源配分の決定は丸く収まることは絶対なく、異なるタイプの患者間の利益の対立を裁定するには明確かつ不偏的な判断基準が示されなければならない。究極的に患者の生死につながるかもしれない問題について、明確かつ不偏的な判断基準がないということがそもそもおかしい。
(中略)
これに対し、次のような批判をすぐさま受けるのは予想がつく。その批判とは、医療資源の配分は「患者の切り捨て」だというものである。この批判に対しては、短い返答と長い返答がある。短い返答は「まさにそのとおり」である。医療資源の配分および優先順位設定とは、究極には断腸の思いで患者を切り捨てることにほかならない。長い返答は 「患者の切り捨てが倫理的に不正であるという結論に至るための正当な理由が示されなければならな い」である。「患者の切り捨てが不正だ」というのは結論であり、なぜそれが不正なのかの倫理的理由が示されなければならない。さもなければ「患者の切り捨ては不正だ」という主張は、単なる政治的スローガンにすぎない。

『誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学』岩波書店 p vi vii
(太字は引用者)


トリアージが良い例ですが、リソースが限られている時に優先順位を考えるのは医療でも不可欠です。もちろん誰だって命の選別などしたくない。それでもせざるをえない時がある。だからちゃんと一番妥当な方法を議論しようと言うのが倫理的な態度なのです。

「選別は良くない」と言って議論を拒絶するのは、むしろ社会にとっての最善の方法の模索を阻害する非倫理的態度と言えるでしょう。
「嫌だ」といえば問題が消えてなくなるならハナから問題になりえないのですから。

特に、今回は平時でなく、コロナ禍という世界的に見ても未曾有の危機の中での議論です。医療逼迫を報道だけでなく医療者や医療系団体自身さえもが訴えていました。それだけの危機的状況下において広く社会的なトリアージとしての命の選別の議論が無い方がおかしいでしょう。

もちろん、有事だからと言って、それに乗じて悪巧みを通そうとする輩が出現しうるのは注意しなくてはなりません。歴史的にもそういう悲劇は多くあります。
ただ、その懸念があるからと言って全く議論を許さないのもまたおかしいのではないでしょうか。


対立意見の主張そのものを封じるのは思想と討論の自由を脅かす「隠れ言論弾圧思想」

また、「優生思想」とか「命の選別」などといった具体的な内容に関係なく、「○○と主張するのは良くない」と意見の表出自体を封じようとする姿勢もそれだけで問題です。

ちょうどタイムリーにベンジャミン・クリッツァー氏が「思想と討論の自由」に関する優れた論考を出されています。


しかし、昨今のアカデミアで起こっているキャンセル・カルチャーで問題となっているのは、学者たちが他の学者を糾弾するという「横」からの制限、または学部生や院生などの学生たちが学者に対して集団的に抗議するという「下」からの制限によって、学問の自由が危機に晒されることだ。

ベンジャミン・クリッツァー II-5「思想と討論の自由」が守られなければならない理由


今、いわゆる「キャンセルカルチャー」「ノープラットフォーム」として、不正義である、もしくは異端であると見なした意見を持つ者を表舞台から排除しようという運動が世界的に問題とされつつあります。
しかも、それが政府などの上からの権力による弾圧でなく、同業者などの相互監視によるものであることが特徴です。

大津先生の「隠れ優生思想」を持つ医師を見張り、主張を封じようとする態度もまたその範疇に踏み込んでいないでしょうか。


なぜこうした異端論者の排除や、意見の封殺が問題になるかと言えば、ミルやクリッツァー氏が指摘するように、言論弾圧は「絶対に自分たちは間違ってない」という独善的、教条主義的な態度を生み、真理の追求の営みを阻害するからです。


ある意見が誤りだと自分たちは確信しているからという理由で、その意見に耳を傾けようとしないのは、自分たちの確信を絶対的確信と同じものだと想定することである。討論を沈黙させることは、すべての場合において、無謬性を想定することなのである。

『自由論』 岩波文庫 p44-45

自分の意見がどれほど真理をとらえていても、十分に、頻繁に、また忌憚なく議論されていなければ、その意見は、生き生きとした真理としてではなく、死んだドグマとして信奉されてしまうだろう。

『自由論』 岩波文庫 p81


もちろん、クリッツァー氏も言うように、SNSでの扇動的な活動や不毛な議論を防ぐ意味ではSNSでの発信を全般的に控えさせることについては一定の理はあるかもしれません。

しかし、大津先生は別にみんなでSNSでの発信をやめようと言ってるわけではなく(ご自身もSNSを活用されてるようですし)、ただ専門家や医療者が「隠れ優生思想」を主張することが良くないとしています。


そして、そのような論を、一部の専門家や医療者がもし発信した時は「それは隠れ優生思想ではないか」と指摘することも大切だ。
(中略)
専門家や医療者がそのような言説を主張するのは良くないことであるという認識が広く持たれることが重要だろう。

大津秀一 コロナ禍で医療者にも広がる「隠れ優生思想」
(再掲)(太字は引用者)


これは同じ専門職であり科学の徒である人々に対して、一方的に思想や討論の自由を阻害しようとしていると言わざるを得ません。これはまさしく「キャンセル・カルチャー」の一端に触れているのではないでしょうか。

あえて大津先生の言葉を借りて批判させていただくと、もはやこれは「隠れ言論弾圧思想」のように思われるのです。


もちろん、たとえ専門家や医療者であっても、ひどい発言や主張をする者が少なくないのは知っています。今回の「高齢者の命を選別するような意見」にも、相当に乱暴なものがあったであろうことは想像に難くありません。おそらくそうした意見に対する義憤から大津先生も今回の記事の執筆に至ったのであろうと思います。その心中は察するにあまりあります。

しかし、だからといって一括して対立意見の主張そのものを封殺するのは、それこそ大津先生ご自身が大事にしようとしている「個別性」を無視するものではないでしょうか。

面倒であっても、個別に粛々とそして丁寧に批判と訂正を繰り返していく。
それが本当に真理と正義を追求する者の役目ではないでしょうか。
これはとても大変なことですが仕方がありません。
なにせ大津先生ご自身が言う通り、そもそもからして「簡単なことではない」のですから。


【まとめ】大事な議論だからこそ不毛な対立にならないよう丁寧にやりましょう

以上、長くなりましたが、大津先生の「隠れ優生思想」論を批判させていただきました。

まとめますと、大津先生の「隠れ優生思想」論は、

  • 「隠れ優生思想」のレッテルが適切ではない

  • コロナ禍という未曾有の危機において避けられない「命の選別」の適切な議論の妨げになる

  • 「隠れ言論弾圧思想」的に思想と討論の自由の文化を脅かす危険がある

と、大きな問題があると考えます。

また、こうした人身攻撃的なレッテル貼りは、双方の感情的対立を煽り、理性的な議論の妨げになります。
いわゆる「みんな政治で馬鹿になる」ですが、大事な議論だからこそこのような不毛な対立に陥らないように注意が必要であることを改めて確認するべきでしょう。


冒頭でも述べた通り、そもそも大津先生の主張の骨子は悪くないのです。
だから根拠を丁寧に提示し「反対者が懸念しているようなことはカクカクシカジカの理由で問題ないのである。だから高齢者医療を抑制する必要はないのだ」と皆に納得できる理路を組むことに専念するべきだったのではないでしょうか。

にもかかわらず肝心の論証部分の解説はそこそこに、なぜか「隠れ優生思想」などというレッテル貼りを持ち出したことが大津先生の大きな落ち度と思います。
たとえ乱暴な意見を主張する者を批判する目的であったとしても、自身も同等の乱暴な手法を用いてミイラ取りがミイラになっては本末転倒です。


して、本稿では大津先生が提示されてるコアの主張が妥当かどうかは保留にしていました。

  • コロナ禍で積極的な治療対象となった高齢者は必ずしも広義の終末期の高齢者ではなく、したがって言われてるほど無益な医療行為とは言えない

  • 感染対策を積極的に行った方が社会経済的にもかえって被害が少なく、むしろ若者にも有益である

このあたりの主張ですね。(江草による読解ですが)


記事の中に参考文献なども付記されており、批判的吟味することは可能なのでしょうけれど、今回は江草はここの議論には触れないことにします。

単純に「隠れ優生思想」論批判だけでもうヘトヘトなので。。。

それに、実力不足の江草なんかより、はむっち先生など、世の中にはもっと適切に評価できる論者がいると思いますから。

誰かしらによりきっと丁寧な議論が交わされると信じています。



参考文献

本稿で引用した文献の一覧を付記しておきます。


医療倫理超入門

マイケル・ダン トニー・ホープ
児玉聡 赤林朗 訳
岩波書店


優生学と人間社会

米本昌平+松原洋子+橳島次郎+市野川容孝
講談社現代新書


誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学

グレッグ・ホグナー、イワオ・ヒロセ
監訳 児玉聡
岩波書店


自由論

J.S.ミル
関口正司訳
岩波文庫


江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。