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チェルシー騒動に見る価値と価格の乖離現象

今後何かと論考の題材に使えそうな事例が発生しました。

「チェルシー騒動」です。

何十年もロングセラーで販売され続けていたキャンディー「チェルシー」。ところが時代の趨勢に負けたためかどうも近年では販売がふるわなかったようで、ついにその長年の歴史に終止符を打つこと(終売)が決まったとのこと。

しかし、その報道がなされた途端、誰もが我先にと「チェルシー」を探し求め、一気に売り切れ状態に。なんとメルカリで10倍の価格での転売取引が発生するまでになったという顛末です。

人気がなく売れてなかったから終売を決めたのに、終売となった途端に大人気となって価格まで高騰するという皮肉な事態となったわけです。

この現象が興味深いのは、これが巷に溢れる「価値と価格の神話」の典型的な反例となっているからです。

往々にして、世の中では「スキルや能力を磨いて自分の仕事の価値を高めることで報酬を高めよう」という言説がなされることがあります。あるいは「自分の待遇の低さを嘆く前に、それだけの価値を社会に与えられてるか自問しろ」という形式もよく聞かれますね。

これらの言説に共通しているのは「価値と価格は一致している」という前提です。もしくは、そこまで強力な前提でなくとも「価値と価格は強い相関がある」とまでは想定されてるでしょう。だからこそ、自身のスキルや能力という「固有の本質的な価値」を磨くことが報酬を高めるし、低い価格のモノやヒトは「固有の本質的価値」を欠いている、と断じることができるわけです。つまり「市場価格はそのヒトやモノの価値に応じて付与されている」と広く信じられているのです。

ところが、今回の「チェルシー騒動」が示していることは、全くその前提に合致しないんですね。

チェルシーのお菓子としての固有の味や量、すなわち「本質的な価値」は全く変わってなかった。にもかかわらず「終売が決まった」と報道がされた途端に価格が高騰したわけです。これは、言ってみれば、とある人のスキルや能力は何も変わらず全く同じ仕事をしていたにもかかわらず、いきなり報酬が10倍になるような現象です。「価値と価格は一致している」という素朴な前提では説明がつきません。

では何によってチェルシーの価格が高騰したかと言えば、それは「希少性」に他なりません。その「固有の本質的価値」ではなく「希少性」によって価格が大きく動く。このことを今回のチェルシー騒動は示しているのです。

もちろん、ここで言いたいのは、本質的な価値が価格に対して全く無意味であるということではありません。基本的には一定の本質的な価値(使用価値や魅力)がなければ、希少だろうとなんだろうと誰も欲しがらないので値段はつきません。

しかし、ここで反証されてる(しようとしている)のは、あくまで「価値と価格は一致している」だとか「価値と価格は強く相関している」などという一般通念であることを思い出してください。たとえ価値が価格に対して一定の影響力を持っていようとも、それが大きな影響力でなければその通念の妥当性は揺らぎます。

なにせ、今回のチェルシー騒動、たかだか1%とか10%とかのレベルで価格が上がったというわけではなく、10倍にもなったのです。なんらそのお菓子固有の本質は変わってないにもかかわらず「それが希少かどうかだけ」でこれだけ価格が動く。これを見て「価値と価格は一致している」だとか「価値と価格は強く相関している」という前提が成り立ってるとするのは難しいでしょう。

あくまで本質的価値という核は必要ですが、希少性というコーティングが思いのほか大きく、その価格のほとんどを占めている。そうした構造が市場価格の背景にあることを、今回のチェルシー騒動は教えてくれています。

もっとも、今回のチェルシーがただの例外に過ぎないという可能性も考慮はせねばなりません。ところが、その目で見てみると、私たちを取り囲んでる市場経済において「希少性による価格上昇」の現象が決して珍しくないことが見えてくるでしょう。

「期間限定」「地域限定」「当店限定」「残りわずか」と言った売り文句で希少性をアピールし、内容の質相応以上の高い買い物をさせようとする商品は枚挙にいとまがありません。チェルシーについては、やむを得ない不本意な終売による希少性の発出でしたが、巷のお店ではむしろ意識的に希少性を高める努力がなされているわけです。「希少性」は堂々と「市場の論理」として採用されているのです。

というより、ほんというと、そもそも「希少性」が大きく市場価格に影響することは経済学の入門書にも出てくるぐらい常識的な事項だったりします。だからここで改めて説明するまでもなく「価値と価格は一致している」だとか「価値と価格は強く相関している」という一般通念が妥当ではないことは明らかなのです。

ただ、最初から限定品で売られてる商品とか、最初から希少であることが確定しているダイヤモンドなどのような例では「いややっぱりそれらが高価なのはその固有の本質的価値が高いからだ」と言い張りやすいんですね。なぜなら、「それが希少でなかった時」がないために、反証に必要な「希少性がない時の価格」という対照が得られないからです。「たとえ希少性がなくなったって本来の価値ゆえに高価格を維持するはずだ」と信じ続けることができちゃうのです。

ところが、ここでチェルシーが素晴らしい社会実験をもたらしてくれたのです。長年同様の質と価格で売り続けていたにもかかわらず、希少性が付与された瞬間に10倍の価格で取引されるようになった。こんなに分かりやすく「希少性がある時」「希少性がない時」の差が露わになる事例は少ないでしょう。

長年の歴史があるからこそ「これまでその真価に誰も気づいてなかったからだ」という言い訳を防ぐこともできています。しかも、それなりに知名度もある商品で突然の終売で広く衆目も集めたという点で、誰もが状況をイメージしやすく、今後参照に用いる事例としてはうってつけというわけです。(あんまり誰も知らない商品や事例を引いても実感が湧かないので意外と人心に刺さらないのですよね)


さて、せっかくここまで説明して来たので、巷にはびこる「スキルや能力を磨いて自分の仕事の価値を高めることで報酬を高めよう」や「自分の待遇の低さを嘆く前に、それだけの価値を社会に与えられてるか自問しろ」という言説の問題点も具体的に詰めておきましょうか。

先ほども述べたように、これらの言説は「価値と価格が一致している」という暗黙の前提を置いています。すなわち、ある人材の報酬を決めてるのはその人材のスキルや能力、仕事の成果の付加価値といった「その人固有の本質的価値」であるという感覚です。

もちろん、そうした「人材固有の本質的価値」が報酬の多寡に影響しないとは言いません。が、チェルシー騒動で分かるように、それが果たして最大の報酬決定要因かどうかには疑義が生じます。そんな「人材固有の本質的価値」より「希少性があるかどうか」なんなら「希少性が演出できているかどうか」の方がよほど報酬額に強く影響してるんでないかと、その暗黙の前提を疑うことができるのです。

ここでややこしいのが、人というのはチェルシーのような大量生産品と違って、日々変質するということです。実際に、学びや経験を通してスキルや能力が高まることもあるでしょうし、逆に不勉強であったり加齢によってスキルや能力が衰えることもあるでしょう。すなわち、昨日の自分と今日の自分はどうしてもどこか違っている。

だから、現在と過去、あるいは未来の待遇を比較する時、希少性以外のパラメーターも同時に変化しているがために「報酬が変動したのは希少性以外の要因のせいである」と言い張りやすくなってるのです。

たとえば「自分が報酬が上がったのは(全て)能力やスキルが向上したためである」あるいは「○○氏の報酬が低いのは(全て)能力やスキルの向上を怠ったためである」などというように、どんな報酬設定に対しても「能力やスキル要因」の説明に回収することができてしまうのですね。

好対照が得られがたいからこそ、こと人材待遇の議論において「価値は価格に一致している」という神話が決定的に反証できないままずっと蔓延ってしまうのですね。投与した薬が行き渡りにくい聖域(sanctuary)に逃げ込んで生き残る白血病細胞みたいなものです。

ただ、同様の市場経済のモデルを想定している以上、チェルシーに起きたことが、労働市場における人材に起きないと言い張るのは、やはり難しいでしょう。つまり、労働市場においても、人材の本質的な価値以上に希少性によって大きく価格が決まっている可能性を無視することはできないということです。

だから、とくに「自身が高待遇であると認識している人」が「この待遇は自分が努力して能力やスキルを磨いたからだ」「自分はこの待遇に値する価値を提供しているのだ」と自己正当化の文脈で「価値は価格に一致している論」を用いている場合には注意が必要です。本人の高待遇における「希少性コーティング」の要素を都合よく無視している可能性があるからです。残念ながら別にその人自身は大した仕事をしておらず、大した価値を社会に与えてるわけでもないのに高い待遇を得ている可能性は十分あるのです。


なお「希少価値」という呼称があるように、「希少性」についても「価値」の範疇に含めていいんじゃないかという意見ももしかすると出るかもしれません。

ただの言葉の定義の問題なので、もちろんそうすることは可能です。ただ、結局はその「希少性」が価格や待遇に大きな影響を持っているならば、皆が素朴に認識している意味での「固有の価値」、すなわちチェルシーで言えば「美味しさ」や「食べやすさ」、人材で言えば「スキル」や「能力」ではない部分(希少価値)が大きな要因であることを受け入れられるかという問題が生じます。

つまり、「希少性」を「価値」の範疇に含めれば「価値は価格に一致している」という前提を理屈の上では守ることはできますれど、「みんなが認識している価値の意味」と「希少性も含めた意味での価値の定義」が今度は乖離するという現実上の齟齬が発生するんじゃないでしょうか。

たとえば、「希少価値」を個人の固有の価値として認めてしまうと「希少価値アピール」を磨くことも一つの堂々たるスキル向上であり、能力向上になり得るわけですけれど、それを皆が受け入れられるかということです。チェルシーで言うと中身は何も変わってないのに「終売します」とだけ煽るような、あるいは時々見かける永遠に閉店しない「閉店セール」みたいなやり方を、「立派な価値向上仕草だ」として認めるのかということになります。(もちろんチェルシーは「終売するする詐欺」ではないでしょうが、架空の稚拙な思考実験として挙げてみました)

「なんかそれは本質的な価値とは言えないんじゃないかなー」と思うならば、やっぱり希少性を価値に含めるのは理論上可能であっても現実的には矛盾をもたらすと言えます。それにそもそも巷の「能力・スキル要因言説」もまず希少性による価格決定要因の強さについてはおよそ触れてないですから、彼らが別に「希少性も価値だ」説に賛同している証拠がない以上、その立場に再考が必要であることには変わりがないでしょう。


というわけで、思ったより長くなりましたが、チェルシー騒動のおかげで価値と価格がいかに派手に乖離するかが示されたよねというお話でした。

このチェルシー騒動が典型的反例となっている、「価値と価格が一致している」という神話は、実のところ、いろんな所で社会的矛盾の源になっていると考えています。

今後、このチェルシー騒動を便利に引きながら、またその辺の話も語っていけたらなと思っております。


江草の説明なんかより、より丁寧に、より精緻に、より強力に、この「価値と報酬問題」を論考している書籍『給料はあなたの価値なのか』もオススメです。

読書感想文も書いてます。


また、「希少性」に焦点を当てた本ではないですが、スキルや能力といった「実力」よりも「勘違いさせる力」という言わば「演出力」(コーティング)がいかに強力かを紹介しているこちらの書籍も参考になるかもしれません。


そして、「そもそも能力なんてものは存在しないんだよ」という指摘をされてる書籍もあります。

本稿では便宜上、「能力」という概念を用いて論述してきましたが、そもそも「能力」が個人に還元できない虚構に過ぎなければ、なおのこと「個人の能力に応じて報酬が与えられてるんだよ」という通念は成立しないことになるでしょう。

これも読書感想文書いてます。


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