知のビッグバンが知のビッグリップに至る時
せっせと過去ブログのアーカイブを進めていたところ、懐かしい記事が出てきました。
学術機関がよく掲げている「人類の知の拡大のため」というミッション。これって、ただ学者たちが最先端の研究をしているだけでは成立しないよねという指摘をした記事です。
学会等々で専門家クラスター内だけで知識を共有してるだけではなく、市井の人々にもつながる知的ネットワークを確立して初めて「人類の知の拡大」と言えるでしょう、という主旨でした。
「新しい知見を発見すること」すなわち「知のフロンティアを拡大すること」ばかりが重視されて、人類の内部での知識の共有がおろそかになっていないかという警鐘の気持ちがこもっています。
最近でこそ、オープンサイエンスや、有志によるSNSでの発信の動きも進んではいますが、やはり前者の「フロンティア拡張」の象徴たる学術研究業績の方が、教育や発信の実績よりも評価されやすいことには変わりがないですし、そもそも学者の特性上、基本的には知の拡張を図る(研究を担う)ことを好んで目指しているところがあります。
「知の拡大」というぐらいですから、最前線で拡大を担う研究が重要なのは確かですが、そうは言ってもこれでは外征して戦線拡大するばかりで兵站の確保や内政をおろそかにする侵略的軍事国家みたいなものです。果たしてこの姿勢で大丈夫なのかと思わざるを得ません。
とくに、設備投資や人件費等々に莫大なお金が必要となるビッグサイエンス時代において、研究費をバカバカ取っておきながら一般の人々にその功績を共有しないというのはますます納得感が得られにくくなっているように思われます。
まあ、この辺の学者たちの「学術研究は重要なんだからつべこべ言わず俺たちに金をよこせ」と言わんばかりの選民エリート意識はそろそろ改めないといけないんじゃないのという話は以前も折に触れてしています。
で、これらの話を踏まえて、今日さらに話を広げていきたいなと思っているのは「そもそも人類の知の拡大はどこまで辿り着けるのか」という「人類知の限界」についてです。
つまり、先述の理想的な最新知見の共有が人類社会内部で実際に行われたとしても、それでもどこかで人類知の拡大は限界が来るのではないか、というちょっと悲観的な予測を語ってみようというわけです。
まあでも、無限に人類知の領域が拡大しうるという考えも、それはそれで夢物語風ですから、皆さんもさほど意外に感じないかもしれません。
実際「人類の知の限界」ではなく「人類の物理的到達限界」についてはすでに指摘がなされています。
※江草お気に入りのYouTubeチャンネル"Kurzgesagt – In a Nutshell"さんによる解説動画↓
どんなに楽観的に解釈したとしても、人類は宇宙のなんと94%を占める星々に既に到達できないと確定しているんだとか。それはなぜかと言うと、その94%の星々が宇宙の膨張によって光速よりも速いスピードで私たちの銀河から遠ざかっているので、絶対に追いつけないからです。
つまり、理論上の人類の移動速度限界を超えて宇宙が膨らみ星々が離れ離れになっていっている。それゆえにどうしても人類が到達できない限界ライン(Limits of Humanity)が宇宙には存在しているというわけです。
で、同様の限界が「知の拡大」でも存在するんじゃないかと思うんですね。
ご存知の通り、近代の科学革命という知のビッグバンを契機に、私たちの人類知は急速に拡大を続けてきています。
アタナシウス・キルヒャー(17世紀)やジョン・スチュワート・ミル(19世紀)あたりは、当時「全てを知る者」扱いされてたという噂もありますが、それ以降は学術のより一層の発展に伴い、もはや一人の人間が全ての知識を頭に入れることなどできるはずがないレベルに人類知の拡大が進んでしまっています。だから「みんなで知を共有し合う」という作戦でしか人類が人類知の全貌を把握することは不可能となっています。
しかし、この「共有し合う」という作戦でさえ限界が見えつつある、そんな懸念があるんですね。
というのも、学術の専門分化が進みに進んでしまって、ちょっと隣の分野のことですらさっぱり分からないというのが珍しくなくなってしまっているからです。
たとえば、一応江草は放射線医学(画像診断)が専門ということになりますが、その中でも中枢神経領域、呼吸器領域、関節領域、核医学領域などなどと、さまざまなサブ領域が存在しています。が、呼吸器の間質性肺炎の診断のガチ勢のディスカッションはちょっとマニアックすぎてついていけないのが恥ずかしながら実情ですし、放射線治療学だって日進月歩すぎてもうおいそれと意見できないですし、普段から触れているCTやMRI機器を支える物理学や情報処理理論も正直ちゃんと理解できてる自信はゼロです(核スピン, ラドン変換, k space……ああ、頭が)。
いや、それぞれ勉強はしてるんですよ。でも、範囲も広いし、それぞれの分野が深いし、何かを勉強してるうちは他の何かを勉強することはできないわけですから、追いつかないわけです。結局、手薄になってほったらかしになってる箇所はどうしても忘れていってしまいます。日常診療で最低限必要な部分だけは落とさないようにするので精一杯です。
江草のお恥ずかしい例で説明はしたのですけれど、医学に限らずどの分野でも専門分化が進み知が拡大していることを考えると、一部の秀才天才たちを除けば多くの人がこのように自分の専門領域の進歩に追いつくための勉強だけでギリギリなのではないでしょうか。
専門領域内でさえこの有様ですが、専門外の他領域の学びに手を出そうとするともっと難しくなります。それに、専門外の学びは基本的に専門分野内では評価されませんから、往々にしてみんな自分の専門内に籠る内向き深掘り型の学びになりやすい。
となると、何が起きるかと言うと、専門分野同士の離開です。それぞれの人々が自身の専門内に籠るのですから、専門分野間を繋ぐ交信ルートや共通基盤が途絶え、「隣は何をする人ぞ」的に異なる学問分野のことにさっぱり無知になる時が来てしまいうるのです。
「知のビッグバン」で始まった「人類知の拡大」が人間の学習速度の限界や、互いの知見の共有の有限性に規定されて、ついに各分野がバラバラになる「知のビッグリップ」に至り、人類知というある種の「宇宙」は終焉を迎えるというわけです。
光速という限界があるために、どうしても膨張し続ける宇宙の中で人類が到達できない領域や銀河が出来てしまうのと同じですね。
一つのネットワーク体として全てがつながっている状態という意味での人類知は、人類知の拡大という斥力が人類知の学習や共有という結合力に勝るならば、どこかの時点でネットワークがバラバラに引き裂かれてしまうのは必然ではあるのです。
こう言うと「つながってなくても誰かが知ってるわけだから人類知は拡大している」という考え方も出てくるかもしれませんが、それは、例えるなら、距離が離れすぎて孤立した銀河団がお互いに見えなくなった暗闇の宇宙で果たして「(全く見えない銀河団たちを含めて)一つの我々の宇宙だ」と認識できるかどうかという議論になりましょう。
定義の問題なのでそうしようと思えばそうできるのですけれど、そうした互いに専門知がそれぞれ孤立してバラバラに存在している状態は、おそらくは学術機関や人々がイメージしている「人類知」とは異なるものではないでしょうか。
となると私たちのイメージ通りの「人類知」という形式を保つためには、どこかの時点で学習や共有の限界が来て、人類知の拡大を打ち止めにしないといけなくなる。そういう可能性があるわけです。
なんだか寂しい話ですが、これはあくまで将来の理論上の限界の話です。遠い未来に宇宙がビッグリップするだとか熱的死するだとか、あるいは地球が太陽に50億年後に飲み込まれるとか言っても、それを心配して生きてる人は少ないでしょう。だから、とりあえずそんな未来の話は置いといて目の前の現実の日々を生きようというスタンスでいいんでないかと思われるかもしれません。
ところが、この「人類知の拡大」の場合の理論上の限界というのは人類の動向を最大限に楽観的に見た場合の話ですから、現実はむしろより厳しいはずなんですね。私たちにはどうしようもできないままに勝手に進行する宇宙の終焉系の話とはちょっと毛色が違うところがあります。すなわち楽観的なままに放っておくと、専門分化に伴う「人類知のビッグリップ」は今すぐにも起きてしまうかもしれません。
もっとも、江草ごときが気付いてる問題に他の方々が気付かぬはずもなく、学術界も手をこまねいて見ているわけではありません。学問の隙間を埋める学際融合的な教育を施してなんとかならんかと試みてはいるわけです。
ところがあまりうまくいっているとは言い難い。というより、うまくいってないから今なお課題として存在しているわけですね。
たとえば先日も東大が文理融合型の教育課程を作ることについての報道を見かけました。
日経新聞による社説も出てます。
しかし、あまり期待されてないのか、かような辛辣なコメントまですぐさま飛んでくる始末です。
正直、このコメント自体はXでありがちな雑すぎる藁人形論法の言いがかりなわけですが(文理融合教育は必ずしも「なんでも来い」とか「ジェネラリスト養成」を意図しているわけではないでしょうし、日経新聞がそういう解釈をしてるとも読み取り難い)、それでも確かに実際に学際的な試みが困難であるのは事実で、パッとした成果が出ないままどっちつかずの中途半端に終わるのみという問題があるんですね。
だって、個々人が複数分野を並列で学んで追いつける程度の学術の進歩速度であったらハナから苦労しないでしょう?
もちろん、広く浅く学ぶことで学際をつなぐ人材になるというのは理論上あり得ないわけではないし、江草自身、めっちゃ好みの考え方でもあります。
以前にこんな記事も書いてますし。
ただ、各領域の浅い部分同士をつなぐだけで本当に十分な強度のネットワークたり得るかは保証できないですし、たとえ現状なんとかなったとしても「人類の知」が拡大すればするほどその要求水準が高まる一方の可能性があるわけです。
ちょうど『万物の理論としての圏論』という書籍の「はじめに」の一節が、まさに現状私たち人類が抱えてるこの悩みを綺麗に表しているので、ちょっと長いですが失礼して引用します。
いやなんかもう、どうせこれ引用するならぶっちゃけ江草のここまでの説明要らなかったんじゃないかというぐらい綺麗にまとめてくださってるのですが、つまりはこういうことですね。
なんとか学問の隙間を埋めようとする試みも、まさしく未知の隙間を埋めるのを大変好む性質がある学問たちの間に隙間がなぜ生まれてるかを考えれば徒労に過ぎないという厳しい指摘です。それは、光速ですら追い付けない宇宙の拡大に光速以下のスピードで追いかけようとしてるようなものだから。
じゃあどうしたらいいのか。
いやまあ、江草ごときが解決策を分かってたら人類は苦労してないっす。。。
でも、ヒントみたいなものはなんとか探ってみましょうか。
たとえば、先ほど引用した『万物の理論としての圏論』では引用箇所の後にこの「人類喫緊の課題」を解決する糸口になるのが「圏論 category theory」であるという話につながることになります(なお圏論は全然怪しいトンデモ理論ではなくガッツリ本格的な数学理論です)。
まあ、ぶっちゃけこの少し先から絶賛積読中なので江草もこの理屈の全貌は全く分かってないのですが、要するに
ということのようです。
めちゃくちゃ雑にまとめると「抽象して圧縮して表現することで知の綜合を図る」ってわけですね。なるほど分からん。
でも、この、膨大すぎる世界観を抽象的なメタ認知で別次元の視点からまとめ上げようという仕草は、密教が曼荼羅に森羅万象を詰め込んだ抽象化にも似ているアイディアの印象があります。
つまり、この次元世界の理屈上で追い付けないから引き離されてるのにこの次元世界のまま追いつこうとするから無理なのです。ならば、メタな次元に移ろう。そういう発想ぽい感じです。言うなればワープですね。
こんな風に、もう今までの感覚から全く異なる次元から人類知を眺めるしかない。別の階層から理解把握をするしかない。あるいは圧縮ファイルを圧縮された状態のまま読み込むしかない。
多分、そんな感じのようです。(多分とかしか言えない)
江草ももはやよく分からないのですけれど、でもこうなるともう今までの私たち人類が慣れ親しんでる形式の「学び」や「知」ではなくなってくると思うので、それが本当にうまく認識受容されるかどうかが鍵になってきそうです。
……てなわけで、気づいたら話が広がり放題で、本稿こそビッグバンからのビッグリップしていてビックリしてるわけですが、ともかくも「人類知の拡大」の問題を江草が勝手に心配してることは伝わったのではないでしょうか。
ニュートンが宇宙の真理の深遠さをして「私は海岸で遊んでる子どものようなものだ」と表現した名言は有名ですが、もはや江草は宇宙どころか人類知の広大さに対してさえ海岸で遊んでる子どもかのような自身の矮小さを痛感します。
学ぶべきこと、読みたい本、考えたいこと、あまりにあまりに多いのに、人間の身体や人生のいかに有限なことか。
まあ、でも、逆に言うと「遊んでる」ってことは楽しいってことなんですよね。
宇宙や人類知という大海のデッカさからするとほとんど何の意味もないことかもしれないですが、江草はやっぱり海岸で楽しく遊び続けたい。
そういう気持ちで、あーやこーや読んだり考えたり書いたりしながら日々を生きてます。
江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。