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越境人材でありたい

昨日の少子化対策の問題もそうなんですが、各種の社会問題において多くの有識者の方々はその問題の範囲内でだけなんとか解決しようとする傾向があるような気がします。

少子化対策をする時に、一般常識的な「コスパ感覚」から抜けられず「大量のコストをかけてはならない」という暗黙の前提をおいて「こんなにお金がかかるなんて効果がないと言える。やるべきではない」と結論づけてしまう。もちろん「大量のコストがかかるので難しい」までなら論理的に妥当とは思うのですが、いきなり「効果がない」とか「やるべきではない」という論理の飛躍をしてしまう。そもそもこの問題の前提となっている「大量のコストをかけてはならない」という常識的コスパ感覚の方を疑ったり、見直そうということはなぜか語られません。

医療、保健、公衆衛生分野でもそうです。医療費が高くて困るという時に、健康増進の啓発活動や医療機関内の業務の効率化でなんとかしようとする。費用対効果分析をしてみたり、医療の質の認定をしてみたり、診療報酬制度に新たな加算を設置してみたり。業界内部で何とかしようとするばかりで、なぜか医療を取り巻く社会文化や政治経済思想の前提からの問い直しはない。

こないだ「韓国で受験戦争が激化している」という問題を語ってるラジオを耳にしました。この問題に若者の将来不安が背景にあるとしながら「不安の解消のため雇用の創出が求められます」と結んでいました。非常に一般的な発想ですが、とりあえず無難な「雇用創出」というクリシェに至る極めて保守的な発想とも言えます。教育格差や受験戦争の陰にそもそもそうした従来的な雇用文化が背景にあるのではないかと問い直されることがありません。教育格差の問題も「とりあえず教育格差をなんとかしろ」になりがちですし。


別にこうした内部的問題解決アプローチが間違ってるとか、意味がないとか、やるべきではないとか言うわけではないんですけれど、どれもこれもその問題だけで解決しようとしすぎなんじゃないかと違和感を覚えます。それぞれの局所の詳細を掘り下げるばかりで、それを取り巻く外部環境、そして全体像がどうなってるか俯瞰する視点が乏しい気がしてなりません。

これは外部環境のせいにしろとかそういう意味でもありません。「自分のせいじゃなくて悪いのはあいつらだ」という言説は巷にあふれていますが、江草からするとそういう言説も含めて、自分と自分外に分けてる点で同じく「局所的な発想」に感じるのです。

これらは、私たち全員の、そして社会全体の問題であると、江草はそう捉えています。

外部環境を所与の条件として自分たちの内部だけでなんとかしようというのも、外部環境が変わることばかり求めて自分たちは変わらないでいたいというのも、どちらも多分うまくいきません。

問題解決のためには、内外の垣根を越えてどちらも変わるという発想が求められてると思うんです。



こうした感覚を覚えるのは、江草が医者でしかも放射線科医という仕事をしてきたからかもしれません。

人体には消化器系とか呼吸器系とか臓器システムの大分類があって、それもさらに細かく肝臓とか膵臓とか大腸だとか臓器で分けられていきます。医療界ではおおよそそれに従って消化器内科だったり呼吸器内科だったりと専門分科しています。

ところが、こうした分類というのは人の都合で勝手に作ったものであって、病気にとっては「そんなこと知らんがな」なんですよね。

尿管にできた癌が腸に浸潤し閉塞をきたしたり、肺と腎臓に同時に病変を発生する疾患もあります。病気の方は人の都合など露知らず、勝手に我々の人工的分類を越境するんですね。

で、放射線科医というのは、もしかすると医療界以外の方には馴染みがない科だと思うのですけれど、全身の病気を対象にする臓器横断的な科なんですね。肺癌も診断するし、半月板損傷も診断するし、脳梗塞も診断します。要するに、人体全体を見る職種です。だから、全臓器の病気を勉強しないといけません。

そういう立場で仕事をしていると、先ほどのように病気が容易に越境するのを見るのが日常的に頻繁にあって、自然と人が作った分類の限界を痛感するんですよね。

もちろん、大抵の場合はその分類で済むし、やっぱり分類があった方が便利なんですけれど、「で、この患者さんは呼吸器内科と循環器内科どちらに入院させるべきですか?」と聞かれたりすると、どっちでもありえる病気を無理くり既存の分類で整理しないといけない慣習に辟易してしまいます。分類で思考やオペレーションが規定されてる様をありありと感じるのです。


そういう経験を日々してる立場で見ると、社会問題の多くも、もはやその領域だけの問題じゃないよねと感じます。特に、解決が難しくずっと揉めてる問題であればあるほどそうです。

少子化問題は少子化対策の有効性だけの問題ではないですし、医療費増加は医療の効率だけの問題ではないですし、教育格差は教育の門戸の平等性の問題だけでもありません。これらの問題は全部繋がってるでしょうと。

こうしたいわば越境しまくりの全身疾患に対して、局所だけの治療で対応しようというのは、癌が全身に転移しているのに一部だけ切り取ろうとするようなものです。もっと言えば、そもそも切りようもない血液疾患でさえあるのに病変を切り取ろうと延々と探っているようにさえ見えます。

病変が越境しているなら、治療も越境しないと効果があるはずもありません。しかし、みんなそれに気づいていないのか、気づいていても領空侵犯のマナー違反をすることを恐れて控えているのか、そんなことは無理だと学習性無力感に陥っているのか、問題解決の越境はあまり進んでるように見えません。

であるとするならば、一番のそもそもの問題は私たちが問題解決のために越境できないことにあるとも言えるのかもしれません。越境できないがために、それぞれがそれぞれの問題解決のためだけにバラバラに尽力する。それで各個撃破できてるならまだしも、むしろそれが互いに「うちの問題にこそリソースを!」と要求する結果、問題を深めてさえしていそうです。多分その「うちに回せ!」という感覚こそが今の社会を包む病の栄養血管なので。


だから、江草は医者なのについついあれやこれやのことに口を出してしまいます。全然医者っぽくない発信ばっかりしてるので「この江草さんどうやら医者のようです?」と疑問符をつけて引用されたこともありました。

でも、江草自身としてはそんな変なことをしてないと思っていて、医療現場の問題をどうにかしたいなと思って色々考えていたり学んでいたら、自然とこうなってしまったという感覚です。

だって、調べれば調べるほど問題が全部繋がってるようなので、しょうがなく自分も越境しなきゃいけなかったんです。そして、この俯瞰して見ること自体も、放射線科医としては先ほど紹介したその仕事柄もあって、別に不自然ではない、とても自然なメタ志向だと感じています。

もっとも、手広くやる分、どうしても広く浅くなって、考えや知識が至らないことはたくさんあるだろうなと思います。でも、これも放射線科医だったら当然自覚している注意点で、やっぱり局所の病気の知識や経験は専門の各科の先生には頭が上がりません。広く浅くやってる分、放射線科医には謙虚さが常に求められるのです。各専門家の方々への敬意は忘れないようにしないといけないのです。

しかしそれでもなお言う時は言うのも放射線科医の役割で、全体像から見てその判断はおかしいと思う時はおかしいと臨床科に対しても物怖じせずはっきり言います。その判断(診断)が誤っていると、侵襲ばかりが強いのに効果がない局所治療が施される可能性だってありますからね。

そのように言う時は言うからこそ、放射線科医は"Doctor's Doctor"とも呼ばれるのです。


なので、限界はありつつも、それでも多分、手広くやる越境的な役割を果たす人が居る事は、難治性の全身疾患を抱える社会にとってそう悪くない話だと思うので、コツコツと発信を続けている所存です。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。