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『あした死ぬ幸福の王子』読んだよ

飲茶『あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』を読みました。

ユニークな哲学入門書を数多くだされている飲茶氏の最新刊です。本作のテーマはサブタイトル通りハイデガーですね。

哲学者ハイデガーの代表作である『存在と時間』。書籍としてあまりに長く厚く存在感溢れる躯体で、そして非常に難解な内容から「これ読むのにいったいどんだけ時間かかるんだよ……」と、読み手を圧倒させることで有名です。もはや読まないうちから「存在と時間」に思いを馳せさせるとはさすが哲学書の大名著。

まあ、そんな敷居の高さから当然ながら江草は『存在の時間』を読んでいないのですが(ひどい)、このたびなんと飲茶氏がハイデガー哲学の入門的立ち位置となる書籍を出されたと。

それが本作の『あした死ぬ幸福の王子』です。

江草は『正義の教室』や『14歳からの哲学入門』も好きで、かねてからの飲茶氏のファンでもあります。「こりゃ、読むしかありゃしませんな」となったわけです。


そして、読了。

いやあ、さすが飲茶氏、すごい。あいかわらず天才ですわ。めちゃくちゃ面白かったです。

ハイデガー哲学のエッセンスを紹介する本書の概要をここnoteでド素人の江草がさらに解説するというのは、ホメオパシーもびっくりするぐらいの希釈度合いになってあまりに危険かつ野暮なので避けておきますけれど、まあほんととても良かったです(小並感)。

タイトルでお気づきの方はお気づきの通り、本書はオスカー・ワイルドによる『幸福な王子』の寓話がモチーフとなっている小説仕立てなのですが、この元ネタにもリスペクトが感じられる見事な構成でしたね。

哲学の入門書で小説スタイルを採ること自体は珍しくはなくなってはきたと思うのですが、単純に会話主体の文章の方が書き手と読者にとっての敷居が低いから採用されてるということで、その「お話」としての面白さは置いてけぼりになりがちなところはあります。正直、ストーリー展開が簡単に予想がつくものだったりね。哲学の入門という目的が主眼なので、仕方がないところはあります。

しかし、本書『あした死ぬ幸福の王子』は小説としてのストーリー部分も、紹介してる哲学の内容とエレガントにシナジーしていて、素晴らしかったですね。『正義の教室』を読んだ時にも思いましたが、飲茶氏の小説は予想を超えてくる。どうなっていくのか先が見えないけれど、それでもつい引き込まれる展開にドキドキさせられます。

この辺の先行きの分からなさに読者を自然と対峙させるのもまたハイデガー哲学にも通じるところがあるようにも感じられ、この効果を狙ってされてるのであれば、飲茶氏のさすがすぎる腕前と言えましょう。

「死と向き合わせること」で有名なハイデガーの哲学ですから、ともすると陰鬱になりかねない内容です。しかし、その恐ろしさを決して無視せず受け止めつつも前向きなエネルギーとして昇華させていってらっしゃってます。

飲茶氏のニーチェ哲学の入門書の時にも思いましたが、毎度、前向きに生きさせる方向に読者をガイドする気持ちが伝わってきて、氏の人柄の優しさが行間から感じられるようでした。

もちろん本書を読んだことをもって「ハイデガー哲学がこれで分かった」などとは決して言えないのですが(飲茶氏も読者がそう宣言することを期待してはいないでしょう)、その偉大な哲学の片鱗を垣間見せてもらえつつ、我々平凡な読者にとっても人生を考えるヒントをもたらしてくれる、そして何より面白い本書は非常に完成度が高い一冊でありました。


とはいえ、ただ褒めちぎるだけではなんなので、ひとつだけディスカッションの題材として「これはどうなるのかなあ」と考えた点を紹介しておきます。

というのは、書籍内で「死は全ての人間に共通する要素である」という話があったのですが、今後ここもひょっとすると切り崩される可能性もありえるのかなと思わないでもないなと。

イーロン・マスクなどのテクノ・リバタリアンたちがやってるみたいなんですが、彼らは「不死」を狙う研究や事業に多額の投資を行ってるそうなんですね。

死を必然なものとして受容する「デスイズム(死自然主義)」を批判し、長寿化やサイボーグ化などのテクノロジーの進歩で死を克服しようと企んでるわけです。(トランスヒューマニストと呼ばれるらしいです)

不老不死を目指すこと自体は、始皇帝でも平清盛でも有史以来人類はずっとやってきたことではあるのでしょうけれど、現代にあってはますます加速してるような気がするんですよね。

たとえば、これらの書籍もそういう不老不死的な人類の未来を現実的なものとして想起するよう促しています。

まあ実際にはなんだかんだ難しいとは思うのですが、もしかして万が一有効な不死テクノロジーが出てきてしまったとしたら、「死が必然であること」を前提としているハイデガー哲学は瓦解してしまうおそれはあります。

なんなら、身体的・肉体的な不死ではなく、人格的な不死を目指す方向もあります。いわゆる人格をデジタルアップロードする作戦ですね。

死んだ奥さんの写真や声を生成AIで再現するみたいな試みもすでに話題になってましたが、それの究極版で、人格をもった存在として人間をデジタル上に格納してしまうと。

肉体としては死んで朽ち果てようとも、デジタル世界の中で人格としては永遠に生き続ける。この場合の「死」とは何になるのか。(似た議論はそれこそ飲茶氏の往年のドラえもんの「どこでもドア」の思考実験で出てたかもですが)

もちろん、宇宙が有限であるならば結局はいつかは死ぬのかもしれませんけれど、死をどんどん遠ざけることで死を意識しない方向性に進むし、そうなったら死そのものの概念もさすがに現状からは変質してしまうようにも思われるのです。

このように、現代では、ますます人々はハイデガーの想定以上に「死を遠ざけてる」気がするんですね。それはただ死から目を背けて一時しのぎの享楽的快楽に逃避してるという意味ではなく、むしろストイックに真っ向勝負で死を超克しようとしてる姿です。これはある意味前向きであるがゆえに、逃避以上に止めにくいところがあります。

江草も一応生業として医師をやってるので、死を超克しようという試みをやっぱり否定はできないんですね。すごく気持ちは分かるし、なんならむしろ応援したい気さえします。ただ、その一方で死が人間から遠ざかっていくことの逆説的な薄ら恐ろしさもなんとなく感じるわけです。(死を打ち倒そうとする一方で死と向き合うこともする。なんとも医師は因果な仕事です。)

とまあ、このように「人間は誰もが必ず死ぬ」という共通の前提そのものから覆そうという勢力や意欲が高まってる現代において、「死」を中心に据えているハイデガー哲学の立ち位置ももしかすると揺らいでしまうのではないか。

実際、本書の舞台が「死」が人々の身近にあった中世(近世?)的な世界であって、あくまで現代社会ではなかったことは、「死」を前提とする哲学が現代では成り立ちにくくなってしまってることを暗に反映しているのかもしれません。

読んでいて、そうしたことをふと考えてしまいました。

もちろん、書籍内容的には全然申し分なかったと思っているので、これは本書に対する批判でもなんでもありません。ただ、単純に今後の議論の展開として、こういう方面の議論もなしえるのかなと思って提示した次第です。

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