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お金は説明責任から逃れられる最強ツール

昨日の続き。

前回は、自由とは理由や目的を問われないことという側面があるよねという話をしました。

そして、人というものは自由を求める生き物であります。それはすなわち「理由や目的を問われないこと」を求めるということを意味します。

人々が「理由や目的を問われないこと」を求めて行動すると、社会に何が起きるか(起きてるか)ということを今回は見てみましょう。


まず、身も蓋もないことを言うと、人々がお金を欲するようになります。お金はこの社会で理由の説明責任から逃れられる最強のツールの一つだからです。

よほどの危険物や大規模なものを除き、お金で何かを買う時にはその理由を問われることはありません。お店で包丁を買うときに「使用目的:料理」と申請書類を書かないといけないなんてことはありません。目的があろうとなかろうとお金を払ってくれるならそんなことはどうでもいい。たとえ客がヤバい奴で包丁での殺人を企てていようと、そんなことは尋ねない(調べない)ので、あっさりと「はい、包丁です、毎度あり」となります。


お金を払うかどうかで扱いが変わる好例が保育園でしょう。

自治体が管理監督している認可保育園に子どもを預けようとすると、預ける目的を散々聞かれます。就労証明も出して、どれぐらい時間働いてるかまで赤裸々に説明しなければなりません。めちゃくちゃ理由を問われまくるので、「理由や目的を問われないこと」という意味での自由と対極的な状況です。

ところが、一方の認可外保育園ではそんな就労証明やらなんやらのややこしい説明は不要です。親が働いてなくても預けることができますし、そもそもそこを説明する義務もありません。ただ、往々にして保育料が高いです。高度な教育を施すことを売りにして、その分めちゃんこ保育料が高い園があったりもします。

認可外保育園は多様なので全てを一緒くたにして一概には言えませんが、要するに自腹でがっつりお金を払うんだったら自由に預けていいよというわけですね。逆に認可外保育園に預けつつ保育料無償化の支援を受けようとすると結局は説明をわんさか求められるのも「お金と説明責任の関係」を見る上で象徴的な状況と言えます。


あるいは、前回例に挙げた有給休暇も「給料をもらいながら休む」というお金を払うのと真逆の状況だからこそ、法的に正当性がなくても理由を聞かれがちになるとも言えます。これがもし仮に「お金を払って休む」のだったらきっと理由は不問となるでしょう。お金をもらいながら理由も言わないという状況は私たちの社会文化的には非常に珍しいのです。


つまり、お金を払うなら理由は説明不要で、お金を払わないなら(ましてやお金をもらうなら)理由を説明せよとなる。こういう構図が社会的にかなり広く見られるわけです。


さて、そうなると、自由を求める人々はどうするか。お金を欲しがりますよね、当然。お金を持てば持つほど、自身の行動の理由を問われる場面は減るわけですから。

FIREしかり、世の中の多くの言説で、「お金」が自由の象徴として扱われてるのは、こういう側面があるのでしょう。自由主義社会において「お金」を皆がこぞって欲するのはごく自然なことであるわけです。


ここで面白いのが、今や数多くの人々が「理由や目的を問われたくない」という理由でお金を求めているために、「お金が欲しい」という目的自体が人間の行動原理として非常に強大なものとして認知されてることです。

理由や目的を問われずに何かをやりたいと私たちが考えている時、それはその行為自体が目的であるというピュアな想いであったはずです。ただやりたいからやっている。そして、そうしたピュアな活動を実現するためにお金を欲しているだけであり、あくまでお金はツール(手段)であったはずでした。

なのですが、自由主義社会の中で、あまりに「お金を欲すること」が私たちの社会にとってメジャーになり過ぎてしまったがために、「お金が欲しい」という目的以外のピュアな行動の存在を信じられなくなってきてるように思われるのです。「目的」という概念の範疇から外れているピュアな行動が皮肉なことに「お金目的」として置換されやすくなっている。

たとえば、何か社会にとって良いことをしようと自発的に非営利的活動を開始したとします。単純にいいことだと思うしやりたいからやっているだけ。ところが、こうした活動が大きくなり軌道に乗り始めると、絶対に出現するのが「どうせお金目的だろ」という批判です。「売名目的だ」とされる場合もありますが、今や売名(社会的認知を拡大すること)もお金につながる重要資本として認識されていますから、やっぱり「お金目的だ」と言ってることに等しいと言えます。

「ただやりたいからやっている」ということは信じてもらえず、すぐに「お金目的に違いない」と変換されるわけです。もっと言えば「社会のためにやってる」というれっきとした目的があっても、そちらも「どうせお金目的だろう」の声にかき消されます。

それだけ「お金目的」という行動原理が人が決して逃れられない強大なものであると社会的に認知されているわけです。

実際のとこ、一見善さそうなことを言って結局はお金目的である詐欺的な活動も少なからずあったり、真に善意に基づいた活動であってもそれこそ外部からいちいち説明責任を問われる面倒を避けるためにある程度お金を集めようとすることが普通にあるのもあって、「お金目的だ」という批判を退けることは非常に難しいところがあります。

つまり「お金目的だ」という批判はどういう活動に対しても使える万能のジョーカーみたいなものです。だから、一見して行動理由がわからない活動や、「ただやりたいからやってる」という活動に対して、とりあえずむかついたら便利に安直に「お金目的だ」を投げつけることになるわけです。

理由や目的を問われたくないがために人々がこぞってお金を求めた結果、世の中で「お金目的だろ」という「目的に対する批判」が幅を利かすようになったという、なかなか皮肉な事態がここにあります。

本当は誰も彼もがお金目的というわけではないはずなのですが、やりたいことを自由にやろうとするのにお金が最強のツールすぎたが故に、ついにはお金が「本来の目的」の地位も奪い取ってしまったと。

こう見ると、なんとも面白いですよね。



以上、ここまでが今回話したかったトピックの一つ「お金」編です。

でも、人々が「理由や目的を問われないこと」を求めて行動すると社会に何が起きるか(起きてるか)について、実はもう一つ興味深いと江草が思ってる現象があるんです。

ただ、あいにく今日もここらで執筆時間の限界が来たので、続きはまた後日で。



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実は「お金目的だ」にすぐ回収する社会的雰囲気への批判記事は前々からいくつか書いてまして、また今回も書いちゃったというところがあります。

もっとこのトピックを読みたいという方がいらっしゃれば、よろしければこれらの記事もご参照ください。


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