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文学を学ぶこと

 



 コロナ騒ぎで休校が続いていたが、6月に入ってやっと本格的に授業がスタートした。今年オレが教えるクラスの中には高校3年の理系クラスも含まれていて、その中には来春の共通テストを受験しない生徒もいる。3教科に絞って私立理系を受けるというパターンで、受験科目に国語が不要という生徒である。そのような生徒がオレの授業で古典や漢文を学ぶ意味とは何だろうか。





 オレは「文学」や「古典」というのは人生を豊かにするために必要なのだと思っている。先日、オレは家で収穫したさくらんぼを食べたのだがとてもすっぱくて顔をしかめて食べていた。それで妻の前で「さくらんぼ、めちゃすっぱい。子どもより親が大事」とつぶやいた。その時、妻は烈火のごとく怒ったのである。






「あんたは息子がかわいくないのか?」





 そのときのオレのことばが、太宰治の小説「桜桃」の一場面であることを理解できないことが普通になってしまったのだろうか。どうして妻には文学の知識がないのだろうかと悲しくなったのである。






 太宰治の小説には人々に愛されたフレーズがたくさんある。

「富士には月見草がよく似合う」
「初夏、満天の星である」
「恥の多い生涯を送って来ました。」




この3つのフレーズの出典がなんという小説か。普通の教養のある大人なら答えられるだろう。もしも知らないのなら己の不明を恥じるべきだ。



 百人一首の和歌を覚えてるから、それぞれの歌の意味が分かるのである。同窓会の時に女の子がこっそり渡してくれた紙片に「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」と書いてあれば、あとでみんなと離れて二人きりになりたいという意味なのである。そんなこともわからないような無教養な男は女の子と付き合う資格はないのである。



 受験に必要な科目の勉強は「手段としての学習」である。しかし、受験に不要な科目の勉強は、純然たる学びである。学ぶこと自体に価値があるのである。学問そのものが目的なのだ。この「目的としての学問」の方がはるかに価値があるのだ。




 文学を知らない人生ほど空しいものはない。文学こそが人生を豊かにするものなのだ。文学を知らない人は、無教養なサルと同じレベルである。本を全く読まないような馬鹿な夫婦の間には無教養な子どもしか生まれない。






オレはあえて受験に古典を必要としない理系クラスの生徒たちにも、文学の価値をしっかりと伝えたいと誓ったのである。

モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。