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人と防災未来センターで学んだ話。


忘れられない思い出がある。


中学の卒業に際し、友人達と神戸へ旅行に行った。神戸には、かつての恩師が働いていた。弱冠15歳、初めての関西に私達ははしゃぎ、先生に案内されるがまま中華街やポートタワーといった観光地を楽しんだ。

夜になると、先生は「最後に連れて行きたいところがある」と言った。三宮からバスに揺られて数分。着いたのは「人と防災未来センター」というところだった。

当時、私達の住む宮城県は「9割以上の確率で30年以内に大地震がくる」と言われていたが、私達には全く想像もつかず、どこかフィクションの世界での出来事のようにそのニュースを聞き流していた。先生は「いつ大地震がくるかわからないから、しっかり見て防災について学ぶんだよ」と私達に言った。


中で見たもの、味わった衝撃を、私は忘れることはないだろう。


大音量で響く地鳴りの音、崩壊した線路に半分飛び出したまま動けなくなった電車の映像。震災後の町並みを再現したコーナーでは、家は倒れさまざまな物が地面に散乱していた。あまりの恐怖にコートの端を掴んだ私の手を、友人が握ってくれた。

凄惨な光景に何度も目を背けたくなった。けれど実際に起こったことから目を背けてはいけないと思い、必死の思いで映像を見て話を聞いた。特に、家で屋根の下敷きになり、姉を亡くしてしまった人の話は、姉をもつ自分としては他人事とは思えず、胸が痛んだ。

館内を一通りめぐり、最後に震災で亡くなった人の持ち物が展示されているコーナーへ来た。そこで私はついに耐えきれず、ぼろぼろ泣いた。館内のスタッフさんも驚くほどの大号泣だった。「本当にあったことだから、目を逸らしちゃいけないと思って、でもつらくて、」そう言って泣く私を、先生と友人たちが抱きしめてくれた。


それから1年後、2011年の3月11日。私達の住む宮城県は、東日本大震災に見舞われた。


そこで私が体験したことは、今回の記事で伝えたいことではないから割愛する。だけど、神戸でのあの経験が私の被災生活で役に立ったことは間違いない。

家の玄関に、防災グッズを詰めた鞄を用意して置くこと。水が使えない時に食器を洗わないで済むように、ラップを敷いてその上にご飯を載せること。一緒にいない時に被災しても家族で集まれるよう、あらかじめ避難場所をみんなで確認しておくこと。

あの時、目を逸らさなかったからこそ、そこで得た知識が被災生活で私たち家族を救ってくれた。そしてそれこそが、「人と防災未来センター」が建てられた意義なのだろう。


東日本大震災が起きた時、たぶんその場にいなかった多くの人はテレビでその中継を見ていて、これでとかという程あの惨状を見せつけられたのだと思う。当時の映像をもう見たくないという人は多いだろうし、私もあれを見るのは苦手だ。だから正直、映像からは目を逸らしてしまってもいいと思う。東日本だけでなく、熊本や、新潟などでも大きな地震は起きていて、想像がつかないということはもうないと思うから。

その代わり、震災を体験した人からのアドバイスには逸らさず目を向けてほしい。「辛かったこと」「苦しかったこと」ではなく、「これが必要だった」「これが役に立った」という、防災と被災時についてのアドバイス。

(言うまでもないことだが、それは当然、当時の辛かった話を伝えることが不要という意味ではない。私たちは常に自然に畏怖を抱いて共存すべきであり、そのために事実を正しく把握しておくことは重要だ。だけどそれが、共感性の高い人や、なにか違う記憶のトラウマの引き金となってしまう人の苦しみに繋がってしまうなら、そうした追体験を避けることも「悪」ではないと私は思う。)

だから私は、震災の話はあまりしないけれど、防災についてのアドバイスは少しずつ周囲に伝えていきたいと思う。あの時、中3だった私が高1の私を救ったように、私たちの被災の体験が、もしかしたらこの先起きるかもしれない震災時に誰かを救うアドバイスになるかもしれないから。


あの時、みんなが半信半疑だった東日本大震災を危惧してあの場所に連れて行ってくれた恩師に。そして、神戸の人と防災未来センター、建設や経営に携わっている全ての方々に。

思いはしっかりと受け取りました。ありがとうございます。


#日記 #コラム #ノンフィクション
#東日本大震災 #関東淡路大震災

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