大人になりきれなかった私へ
大人が嫌いだった。
子どもより頭が良くて何でも知ってる癖に、ビールが入ったグラスで乾杯した瞬間全てを忘れたように笑う姿が嫌いだった。
それはまるで、体育祭の後にそれまで喧嘩していた男子がキラキラした笑顔でハイタッチする光景を見ているようで、私には到底理解できないと思った。
あんな嘘つきな大人にはなりなくなかった。
・・・
大学2年の初夏。4月生まれの私はとっくに20歳になったけど、同学年にはまだまだ19歳もいて、私達は「大人」と「子ども」の狭間、社会的に不安定な立ち位置にいた。
大人になりたくなかったあの頃の私は、思えばいつもなんとなく不機嫌だった。
「ストップ!もう一回、Dの2拍前から。テンポ変わるからしっかり指揮見て」
所属していた吹奏楽サークルは、毎年7月に大きなオーディションに応募していて、今年もその時期が1週間後に迫っていた。
ステージ上には熱気と湿気が入り混じり、茹だるような暑さは私のイライラを助長させる。
指回しのなっていないサックス、独りよがりな爆音のトロンボーン、テンポが走るグロッケン。みんなの心はばらばらで、先週様子を見にきてくれたOBの先輩にも「今年のオーディション合格は難しいだろう」なんて言われた。
中でも私が一番嫌いだったのが、私自身の音だった。
同じパートで音を合わせても、私だけ音色が浮いて聞こえる。楽器は長年使っている、よく馴染んだ自分のもの。リードも試しに何枚か変えてみた。だけど音色は一向にみんなと合わなくて、そうなればもう問題が自分自身にあるのは明白だった。
「...ごめん、ちょっと外でチューニングしてくる」
隣の子にそう言い、ホールの外に出る。外はステージ以上に暑く、じんわりと額に汗が滲んだ。
チューナーを立てて、大きく息を吸い、ソの音でロングトーン。
「だめだ...!」
チューナーのメモリは高くなったり、低くなったり。ぐらぐらと不安定に揺れるその様が今の自分の立ち位置と重なって、チューナーを投げつけたくなった。
「もう!!なんで...!」
もういっそ、このまま逃げてしまおうか。サックスなんて音が大きいし、私1人いないところで寧ろ音のバランスが取れるんじゃないか。
そんなことを考えていたら、同じパートの同期、カズが私を呼びにきた。
「全体合奏、始めるって」
私より数倍も綺麗な音色を出す彼がなんとなく憎らしくて、その大きな背中に八つ当たりした。
「あ〜もう!!」
「うおっ!びっくりした〜。どうした?」
優しく問いかけてくれた彼にチューナーを突きつけて、初夏の風をお腹いっぱいに吸い込む。そしてもう一度、ロングトーン。
相変わらず、チューナーのメモリは私の音のふらつきを示していた。
私のイライラの原因がわかったらしいカズは、笑って言う。
「もうさ、ここまできたら心で合わせるしかないよ。俺らと呼吸合わせて、まるで1人になったようにシンクロすんの。そしたら"ハマる"瞬間がくる」
何それ、ハマるって何。要領を得ない説明にまた苛立ちそうになったが、抑えてホールに向かった。
・・・
オーディション用の演奏は、全部で4回。全てをビデオで撮影し、最後に最もよかった回のビデオをエントリーする。
その4回目に、"ハマる"瞬間はきた。
静まり返ったステージ上、指揮棒が空を裂く3拍目。全員が息を詰めて指揮者を見つめる。
4拍目。全員が同じタイミングで息を吸う。
そして吹き出し。全員が1人の大きな人間となり、そこに生命を吹き込まれたかのように、メロディを紡ぎ出す。
瞬間、"ハマった"と思った。
隣に座るカズのブレスのタイミング、指揮者の動き、パーカッションが刻むリズム。全てに意識を行き渡らせ、私はみんなの中にハマっていた。あんなにも浮いていた自分の音が、今はみんなの音色にぴったり重なっていた。
・・・
演奏を終え、汗だくで部室に戻ってきた私達を迎えてくれたのは、OBの先輩方と差し入れのドリンクだった。
「未成年はジュースね、大人はチューハイかビール!」
とりあえず空くまで部室の外で待とうと、ドリンクを取らずに外に出た。入り口で焚かれている蚊取り線香の匂いをもっと嗅ぎたくて、壁に背をつけてしゃがみこむ。
オーディション前までの、ぐらぐらした気持ちはいつのまにか晴れていた。
「ほい、ビール」
ふいに声をかけられ、顔を上げると缶ビールを2本持ったカズがいた。
「どう?ハマったべ」
ばれていたのが気恥ずかしくて、仏頂面でプルタブを開ける。
「じゃあお前の音色の復活記念に!かんぱーい」
何それ、って笑った。仏頂面してたことなんて忘れて、2人で喉にビールを染み渡らせた。
「っはあ〜、最高!!」
「乾杯した途端元気になったな」
それはあれだけ嫌っていた大人の姿そのものだった。あんなに苦しかった気持ちが嘘だったみたいに、私は今笑っていた。
ああ、たぶん大人達が乾杯して笑うのは、素直になれない自分をさらけ出すためなんじゃないかな。
喧嘩してうまくごめんねが言えない代わりに。気恥ずかしくてお疲れが言えない代わりに。もやもやした気持ちから救い出してくれてありがとうを、カズに素直に言えない代わりに。
口には出せてないけど、ビールの泡をつけた私を指差して笑っている彼には、きっと伝わったと思うんだ。
あの頃、大人になりきれなかった私に。
大人になった私から、乾杯。
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