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寄付すること:パフォーマンス、メトロ、マイノリティ


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 アメリカでは行動することが評価されるのではないか、と思う。
 私は宿泊先からマンハッタンの中心街に行く時やマンハッタンの中を巡る時、ほぼ毎日地下鉄に乗っていたのだが、1日のどこかで必ず誰かがコインの入った袋を鳴らしながら電車内を歩いていくのだ。しかし、ただ単にコインが入った袋を持って歩いているのではない。車両から車両へと移っていくとき、彼は乗客に袋を見せながら、そして乗客にお金を募った。また、ある男性は駅構内で、Help me, help me… を同じリズムで繰り返し言いながら、お金を求めていた。彼らに共通していたことは、彼らは見る限り、非白人の男性で、ある程度年老いていた。五、六十代ぐらいだろうか。そして、彼らはみな—Help meを連呼する男性は例外だが—寄付を募る前に必ず自分の状況を私たちに説明した。なぜ寄付を募る状況にあるのか。少しでもあなたの時間を割いてでも聞いてほしい。だから、彼らはただ車両間を歩いていただけではない。ある目的を持って、それを表明して、歩いていたのだ。
 寄付といえば、最近ではクラウドファンディングというシステムがある。クラウドファンディングでは、ある人があるプロジェクトを立て、それに関心を持った人がそのプロジェクトに資金を提供するというものである。これはある種の寄付行為である(注1)。しかし、クラウドファンディングと電車内で金を恵んでくれ、と寄付を求めることはどちらも寄付行為だが、行為者(寄付を求める人)の「動き」が異なる。寄付行為の最大の目的はより多くの寄付額を集めることにある。この目的を達成するためには大きく分けて二つの方法がある。一つは少数のお金持ちから一気に寄付を集めることだ。二つ目は大勢の人から少しずつ寄付を集める方法だ。一つ目の方法は成功する可能性が低いが、成功すれば目的を達成するまでの時間が短くなる。一方、二つ目の方法は成功する可能性は一つ目と比べて高いが、目的を達成するまでの時間がかかる。言い方は悪いが、一攫千金を狙うか、「千攫千金」を狙うか。寄付を募る多くの人たちは二つ目の方法を選んで使う。この方法は、とにかく、寄付してくれる人を集めないといけない。しかし、人は寄付が募られていることなど知らないので、その人たちにそれを知らせる必要がある。可視性は何かを一度に、多くの人に知らせるために重要な要素だ。街にポスターを貼って宣伝する。賑わうスクランブル交差点の電光掲示板。実際に夕方の商店街で多くの人が訪れる、そして通り過ぎる場所で「見せる」。
 しかし、何を「見せる」のか。
 クラウドファンディングもソーシャルメディアを通じて拡散されることで可視性を獲得する。だから、クラウドファンディングも可視性を獲得することができる。しかし、彼らは「動いていない」。単なる可視性ではなく、「動き」の可視性である。街頭に立って募金箱を持っていることと、パソコンの前に座ってコーヒーを飲みながらクラウドファンディングのプロジェクトを立ち上げることは、「動き」の度合いが違う。
 知らせたとしても、寄付するかどうかは寄付する人の意志によるので、寄付を募る人は寄付する可能性のある人の意志に影響を及ぼす必要がある。募金の必要性に説得力を持たせるには、人々の感情に訴えかけるしかない。論理が破綻したいま、感情の共有=共感が人々との対話の中で重要となっているわけで、募金をする人にも共感を求めることが求められている。なにも、お金が必要ない人が「どうしてもお金が必要なんです」と主張しても、だれもお金をあげないだろう。なぜなら、この言葉には感情が伴っていないからだ。感情が言葉に伴うのは、言っている言葉が本当の状況を反映しているときだ。つまり、「どうしてもお金が必要なんです」という言葉が、本当にお金が必要な人の口から発せられてるときにはじめて、その人の感情は言葉にくっつく。だが、その人の本当の状況など知るよしもない。だから、外見からその状況を察知、推測するしかない。ジェンダー、人種、民族、言語といった外見である程度社会的に構築されたマイノリティ性を判断する。
 寄付する人には、募金している人のことを「かわいそうだ」と思われなければならない、ということがある。社会学者の岸政彦は、臨床心理士の信田さよ子との対談のなかで、エスノグラフィで当事者のことをたくましくもかわいそうとも書いてはいけないという。

岸:… 私たちは得てしてマイノリティをたくましく書きがちなんです。でも、私は左翼のリベラルなおっさんが、「沖縄はこんなに踏みにじられている」みたいに言うことがすごく嫌なんです。やっぱり生きてるわけじゃないですか。基地の周りで、轟音に耐えながら、それでも楽しく暮らしているんです。部落でも、障害者でもそうでしょう。だけど、そこを書こうとして、うっかりというか、ついたくましく書いてしまうのです。

岸:上間さん〔引用者注:上間陽子。琉球大学教育学部研究科教授〕の本〔引用者注:上間の著書『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』、のこと〕の帯を書かせていただいたのですが、そこに「『かわいそう』でも、『たくましい』でもない」と書いたのは、そこを書かなければいけないなと思ったからです。ただこれを私が言うと、当事者から怒られたりします。「もっとたくましく書いてほしい」「被害なんて何にもなかったかのように書いてほしい」、と。それこそ加害者を嘲笑しろというのと似ていますかね。
信田:加害者を嘲笑しろというのは、被害において圧倒的に下のポジションに置かれてしまったのを、加害者をくだらないとすることで、ポジション的に逆転すると言うことを言っているのですが、被害がなかったというわけではないですよね。
(岸政彦+信田さよ子、「マジョリティとはだれか」、『現代思想 2019年1月号』、青土社、p.228)

 しかし、募金を求める人たちはその「かわいそうさ」を前面に出して、人々の倫理を撹乱させる必要があるのだ。国際的な慈善組織は、写真を使ってその人たちがどれだけ悲惨な目にあっているのか、「かわいそう」なのかを表現している。だから、当事者たちは「たくましく」思ってほしいときもあれば、逆に「かわいそう」と思ってほしいときもあるのだ。そして、その使い分けを意図的に行うことが当事者たちの倫理を超えてしまうことだ。

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Frances Benjamin Johnston, Class in American History (1899-1900), MoMA

 心臓移植のために外国で手術を受ける必要のある子供の両親が手術費用などの寄付を募るというニュースを時たま目にする。日本では小児に対する心臓移植手術のケースが稀で、受け入れる病院が極めて少ないため、移植手術が必要な小児は外国で手術を受けざるを得ない。ニュース映像には夕方、両親が募金箱と子供の写真とを持って募金活動をしている様子が映っている。街頭で、可視的な形で、募金活動をしている。家に帰る学生にも、飲みに行くサラリーマンにも、買い物から帰る主婦にも、見えてしまう。見えてしまって、そこに何かしら感じてしまったら、財布を取り出して、ありったけの小銭を募金箱に入れるしかない。自分のお金がどこにいくのかはわからないが、とりあえず今日の晩御飯のコロッケは我慢しよう、一杯の生ビールは我慢しよう、と。でも、クラウドファンディングは見えてしまわない。そのホームページに行かないと見れない。そこにたどり着くことができれば、なんでこの人たちはクラウドファンディングしているのかが詳細に書かれてある。そして、それに共感することができれば、クレジッドカードの番号を入力することはできるが、それ以外ではその意欲も湧かないし、意欲をそもそも持てない。
 心臓移植手術の募金活動に対する批判が多い、ということがある。ZOZOの前澤社長が「3歳のおうちゃんを救いたい。」とツイートし、前澤自身がリツイート数に応じて募金額を増やすと宣言すると、前澤に対する批判の声が多くあがり、その批判の多くは前澤の行為が平等ではないから、するべきではない、ということについてだったという(注2)。前澤が言っている「3歳のおうちゃん」とは、心臓移植手術が必要な患者のことを指しており、彼の両親はその手術等のための費用を募っていた。前澤の、おうちゃんに対する寄付が不平等であるという指摘は全く妥当であるが、それは批判には当たらない。寄付が平等であるべきだ、ということになれば、私たちは世界中にいる全ての寄付を募っている人たちに平等に寄付をする必要がある。しかし、それは寄付という行為を困難なものとしてしまう。東浩紀は寄付という憐れみが本質的に不平等であることを指摘し、その不平等さを「誤配の哲学=観光客の哲学」と位置付ける。

たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている。これはまさに…あの誤配の作用そのものなのではなかろうか。… 憐れみこそが社会をつくり、そして社会は不平等をつくる。…ぼくたちは、誤配がなければ、そもそも社会すらつくることができない。
(東浩紀、『ゲンロン0』、株式会社ゲンロン、2017、ページ数不明)

 不平等だから寄付するべきではない、という批判は、前澤への批判というふうに捉えたほうがよいし、また多くの日本人が寄付しない、寄付に慣れていないことにある、と考える。参考までに、2014年度の世界寄付指数においてアメリカは1位だが、日本は90位だった(注3)。しかし、多くの大型クラウドファンデイングが目標金額を達成していることからもわかるようにクラウドファンディングは人気を集めている。日本で街頭での募金活動よりもクラウドファンディングが人気なのは、多くの人が募金活動そのものよりもその内容を重要視しているからなのではないか。自分の寄付した金銭がどこに行き、誰によって使われ、どのような影響を及ぼすのか。クラウドファンディングのウェブサイトには動機や寄付額の用途が詳細に記載されているが、募金活動は感情に動かされるか動かされないか、である。はっきり言って、もしニューヨークの地下鉄の電車内で袋にお金を入れたら、そのお金が実際どういう用途で使われるのかは全くわからない。彼の生活費の一部となるかもしれないし、ギャンブルに注ぎ込まれるかもしれないし、ドラッグに使われるかもしれない。しかし、そんなことを考え始めたら千葉雅也のいう<意味がある無意味>のように用途の可能性の雨が降り注ぎ、排水溝が雨水で溢れてしまう。だから、あの袋にお金を入れるには、自分のお金が何らかの形で彼の生活に貢献すると信じなくてはならないのだ。
 彼らの動きの可視性がそれを信じさせるのではないか。彼らはパソコンのマウスをカチカチいじっているわけではない。彼らは自らの足で地下鉄に乗り込み、袋を持って歩いているのだ。非白人という可視的なマイノリティ性はもちろんのこと、その人の話し方、姿勢で「かわいそうさ」を感じてしまう。でも、その人だって自分のことを他の人にかわいそうだと思ってほしくなんかない。だから、募金とは募金をする人とされる人、両者の倫理の外を少し飛び出したところでの対話である。募金する人はある種戦略的に自分の「かわいそうさ」を、例えば可視的なマイノリティ性という形で表現し、募金される人は募金する人のことを「かわいそう」と思わなければならない。両者ともそんなことは避けたいが、倫理からの少しだけの突出が募金を成立させる条件なのである。
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 行動で評価するアメリカを、「表面的だ」、「中身が伴っていない」、と批判することは簡単だ。しかし、覚えておかなければならないのは、行動には責任が伴う、ということだ。一方、形而上学は責任が伴わない(なんせ想像にとどまっているからだ)。全く知らない他人が目の前で入れたお金をどのように使うか、という責任。電車内で寝ている、読書する、音楽を聴いている、人たちを邪魔していないか、という心配。
 そして、動くには時間がかかる。パジャマから着替えて、靴を履いて外に出る。最寄り駅まで歩いて、あ、お金を入れる袋を家に置いてきてしまった。戻る。袋を手にし、鍵をかけたことを確認して、いよいよ歩く。駅に着いたら改札のゲートを、よいしょ、と跳び越え、地下鉄を待つ。ついに電車が来て、本番がスタートする。他方、クラウドファンディングは「動かない」ので、時間もかからない。パソコンを開き、お気に入りにあるサイトをクリック。ログインIDとパスワードは保存してあるので、ログインせず、クラウドファンデイングサイトが開く。右上の「プロジェクト作成」をクリックし、適当なタイトルと説明と写真を挿入したら、作成完了。時間がかかることは、かかった時間に対応するだけの効果を見込むので、実施するのにより慎重になる。しかし、時間がかからないことは、考えずにやってしまうことが多い。ツイッターの炎上なんかはこの原理で起きる。ツイッターという形而上学的、非時間的空間において責任という概念は働きづらい。
 行動、行動するのに必要な時間と資源、行動に伴う責任。これら全てが詰まっているのがニューヨークのメトロである。そして、寄付が行われるのは、行動したという事実、社会的に構築されたマイノリティ性の一時的な受容、そしてそれらの可視性が、メトロのいる人たちの倫理を超越したときに発生する。キルケゴールは『おそれとおののき』でこう言っている。アブラハムは倫理的なものの先の (beyond) 超越的なもので神との絶対的な関係を結ぶ。そのとき、アブラハムは喋らない。いや、喋れない。なぜなら、言語は倫理的なもの=普遍的なもの(これはラカンの象徴界に対応する)でのみ発せられるのであって、超越的なものでは言語が不可能である。だから、寄付する人は募金する人の前では喋れないし、逆も然りだ。お金を入れるか、入れないか。倫理を超越した両者はなにと絶対的な関係を結ぶのであろうか。それは、寄付が「倫理」的によいこと、寄付を求めていいという「倫理」的な権利、括弧付きの倫理なのではないか。結局、倫理に戻ってしまうのがニューヨークなのである。

Rembrandt van Rijn, "Sacrifice of Isaac" (1606), The State Hermitage Museum


注1. 正確には、例えばCAMPFIREというクラウドファンディングシステムでは、プロジェクトを立てた人は資金提供者に対し、何らかの形で感謝を伝えるためのお返しをする。というよりも、資金提供者は「商品=お返し」を買うという形で資金を提供する。通常、商品の原価は商品の売値よりも低いので、その差である利益が寄付額となる。
注2. http://blogos.com/article/351195/ (アクセス日:2019/4/21)を参照。とくに「特定の誰かを助けてはいけないと思います、他にも心臓移植を必要としてる子はたくさんいるし、命に関わる病気は心臓病だけではないからです」というような批判。
注3. 世界寄付指数はイギリスの慈善団体Charities Aid Foundationによって公表されるもので、寄付・人助け・ボランティアの三つの観点から計算される。ただし、クラウドファンディングによる「寄付」がこの寄付の観点に当てはまるかは不明だ。

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