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雑多な政治(ポリティクス)、洗練された美学(エステティクス)

もう2週間前になるが、友人に誘われ、ハンガリーはブダペストとデブレツェン、オーストリアはウィーンを旅してきた。そこで感じたことは無数にあるが、はじめてのヨーロッパは困惑の連続だった。ハンガリーはEU圏内なのに独自の通貨が存在し、ビールは格段に安かった。レストランでは水をstillかsparkllingか聞かれ、いつもは飲まない炭酸水を頼んだりした。ブダペストは移民が多いせいか、雑多でコスモポリタンな街並みだった一方、ウィーンは歴史的な建築物にモダンな建物をその隙間に詰め込んだかのような様子を呈していた。移民が流入するように、炭酸水が食道に殺到するように、わたしのなかにもなにか新しいものが流れ込んできた。もともとハンガリーとオーストリアは同じ国だった、と学んだのは、大学一年で受けた「フロイトのウィーン」という授業のときだった。第一次大戦が終わるまでオーストリア=ハンガリー帝国としてハプスブルク家によって統治されていた面影はいまも根強く残っていることは街並みを臨むだけでわかった。

グスタフ・クリムトとエゴン・シーレという世紀の変わり目を代表するウィーンの画家がそれまでの保守的な芸術界に対する反抗として「ウィーン分離派」をすすめたことは、彼らの画風に強く現れている。かの有名なクリムトの『接吻』はただ男女がキスをしているから高く評価されているのではなく、クリムトの三大モチーフである(とわたしが勝手に思っている)「金」、「性」、「自然」をすべて取り入れているからなのだと踏んでいる。とくに「金」のきらびやかな使い方と「性」の過度な強調はウィーンの保守的な芸術界を怒らせるには十分だった。それはシーレのねじ曲がった自画像も同様だった。だが、いまではクリムトやシーレはウィーン中の美術館に飾られ、彼らの絵画から脱出することは容易ではない。

保守といえば、ハンガリーではオルバーンによる極右政権が猛威を奮っており、ヨーロッパにおける右派ポピュリズムの台頭の一端を担っている。ヨーロッパで右派ポピュリズムというと、どうしてもわたしはナチスのことを思い出してしまう。ブダペストでは観光名所となっているシナゴーグを訪れ(中には入ることができなかったが)、ウィーンではユダヤ博物館で台湾系アメリカ人アーティストによる展示をみたように、どちらの都市もホロコーストをいまだに背負っている。「いまだに」というと聞こえが悪いかもしれないが、いまだに、なのだ。ホロコーストなしに少なくともこの二つの都市の歴史を語ることはできない。ちなみにシーレが1906年に入学したウィーン美術アカデミーは若きヒトラーがかつて入学を試みた美術学校でもある。

ヒトラーをも彷彿とさせなくはないオルバーンは移民・難民に対して強硬な政策を採っている。どれくらい強硬かといえば、2017年に議会が「難民申請者を書類審査が終わるまで拘束し、国内にいる難民や移民を使い古しの貨物用コンテナに移送させる法案を可決した」くらいだ(https://www.huffingtonpost.jp/2017/03/14/hungary\_n\_15352414.html)。移民や難民の流入を防ごうと「使い古しの貨物用コンテナ」に入れるという政策は、「ハンガリー人」という"純粋な"民族を守るという意味では「洗練されている」のかもしれないが、クリムトのようなきらびやかさは全くない。それはユダヤ人であるウォルター・ベンヤミンがファシズムの論理的な帰結として「政治の美学化」を挙げたこととは真反対のようだ。しかし、もはや美学化されず、単に愚鈍化してしまった政治にはなにもない。ベンヤミンの言葉はヒトラーに向けられた。美術家を目指していたヒトラーの政治が「美的」であると遠回しに評価したのは、ベンヤミン自身も彼の独裁に「オーラ」を感じ取ってしまったのかもしれない。ヒトラーがもっていたようなオーラに欠けるオルバーンの政治は移民や難民の雑多さのみに向けられた「洗練された美学」しかもっていないし、それだけで人々は満足してしまったのだ。

「洗練された政治」はブダペストが抱える雑多さをどうすることもできない。なぜなら、雑多さは暗い夜になってはじめてその姿を現すからだ。われわれ観光客は「ハンガリー料理」をおいしい、おいしいと口にするが、結局深夜2時にほしくなるのは移民がやっている屋台のピザやケバブなのだ。夜の雑多さというとわたしは東京を思い出す。朝の8時半にスーツで出社するサラリーマンが行き着く先は新宿・歌舞伎町の雑多さであり、そこには良い意味でも悪い意味でも政治が干渉できない。雑多さを口にすることは罪深いが、誰もが必要としているものでもある。すべての欲望の余剰が集まる雑多さをわたしはごくりと飲み込むことができるのだろうか。

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