見出し画像

n-bunaの詩、lyricに包括的に見られる寓意「深海棲」とその特性「夜行性」音楽についての独り善がりな小論

 n-bunaの歌詞は、恐らく、特に夜のぬばたまの何物をも引き付けぬ闇は象徴的に深海に寓意されている。この書き出しだけでもボーカロイド期の代表曲『ウミユリ海底譚』のミュージック・ビデオを想起する読者は少なくないだろうから、是非mvを見返すなり聞き返しながら読んで頂ければ幸いである。(一々、どの曲のどの歌詞が、と引用する気もないからだ)

 そもそも、ここ数日に個人的にノートに独白として書き留めた内容を書き写す、というような形態で書くために、読みにくい箇所や論理の飛躍が見受けられるだろうが、どうかご容赦願いたい。一日を終えて安心して眠りにつくための、日記程度のつもりで書いているのだから。

想定される近年の凡例)「夜行性」音楽 ずっと真夜中でいいのに/yoasobi というよりも寧ろ、ボーカロイド発の音楽家、歌手群/splatoon octo Expansion



 海棲哺乳類の中で代表的なものは、イルカ、シャチ、クジラの三種と見てよいだろう。なかでも、n-bunaの思想の根底に位置付けられているのは「クジラ」のように見える。

 52ヘルツの鯨。

Wikipediaに答えを求めると、

52ヘルツの鯨(52ヘルツのくじら、英語: 52-hertz whale)は、正体不明の種のの個体である。その個体は非常に珍しい52ヘルツ周波数で鳴く。この鯨ともっとも似た回遊パターンをもつシロナガスクジラ[1]やナガスクジラ[2]と比べて、52ヘルツは遥かに高い周波数である。この鯨はおそらくこの周波数で鳴く世界で唯一の個体であり、その鳴き声は1980年代からさまざまな場所で定期的に検出されてきた。「世界でもっとも孤独な鯨」とされる。

 と、このように説明されている通り、要するに、自殺事件。孤立無縁。ていうか五里霧中?四面楚歌?なんでもいい。海棲生物には、地上の、われわれの「音声」の代わりに「周波数(基本的にはやはり、振動である)」「echo(谺)」を用いて意思疎通をする、という話はよく聞くものであるが、分けても件の私の持ち出した、「52Hzの鯨」は特異な周波数を発信し続ける、しかし受信した人類でさえ応答ができないでいる、言わば、送信機能に問題のないトランシーバーを握り続けて悲鳴を上げ続けているーーーー、かのようにわれわれ人類には見えて、近年そんな凄惨な言われようをしているらしい。

 ボーカロイドをある程度黎明期まで遡って聴いている方なら皆同意するところだが、『ボカロP』は皆早熟の、不世出の、そして、早逝の天才が数知れない。死んでしまったのか、生きているのか、名義を変えて音楽を続けているのか、わからない人も、なんだって、兎角、悲劇的性質をその身に帯びている。インターネットに作品を発表してしまったばっかりに、早熟の天才が、季節外れの、狂い咲きの様相を呈していた。
 そういう意味でも、ハチ(米津玄師)の『砂の惑星』は、あらゆる意味で過去の、現在の、未来のあらゆるボーカロイドPに対する献辞であり記念碑であり墓所なのだろう。

 自分の音楽や、オタク的思想の通じるーーー、投げたボールが、壁に当たって物理法則そのまま予期した通りに転がってくるのではなくーーーーー、投げた言葉が、作品が意図通りの反応として、言葉として、また別の作品として帰ってくるよろこびとは、いかほどのものだろう?

 無意識に言葉の、詞の、詩の裡にしのばせた、袖の内で叫んだSOSが誰かに受信されて、持て囃すんじゃなくて、駆け寄ってくれる誰かが、自分とよく似た苦しみをその内部に抱えた誰かがいるという、悲劇的で、そして馬鹿みたいに創作みたいにできすぎている状況に、歓喜しない創作者なんていないはずがない!

 しかしながら、そんな仲間は、やっとこさ見つけた52Hzの鯨たちは、周波数の合う同胞でさえ、いなくなってしまう、そんな孤独はやはり、彼も、或いはそんな状況に置かれている可能性のある読者諸君も、この広い海に、千々に分かれた52Hzの鯨の一匹であるのかもしれない、というのは、それほど無理のある想定だろうか。

 ボーカロイドPなんて特にそうだ。「共振」じゃ足りない、「狂信」はいらない、「狭心」だってわけっていても、もし、誰も自分の背中を押してくれる人がいなくなってしまったら、という恐怖。動画サイトなんかにあげて、視聴回数のカウンターは増えて、味気ないコメントたちは流れていくのに時間だけは過ぎ去っていくのに、誰も歌の裏に隠した悲鳴を聞き取ってくれないんじゃあ、死んでいった仲間達もいたかも知れない同胞も浮かばれない。救われない!救えるはずがない。



 そんな絶望感。孤独感が、きっと、52Hzの鯨で、冒頭部に私が「n-bunaの歌詞は、恐らく、特に夜のぬばたまの何物をも引き付けぬ闇はは象徴的に深海に寓意されている」と述べ、海棲哺乳類の中でも鯨を槍玉に挙げた理由である。だから、負け犬にアンコールはあってはならないし、地獄には讃美歌なんて流れちゃいない。



 鯨は、生物学的な分類上では「鯨偶蹄目」と呼ばれるように、彼らの祖先は蹄を得た哺乳類でありながらも、奇しくも一度脱出した海へと戻っていった変わり者なのである。偶蹄類と人類とは系統樹的にはあまりに遠く、縁戚とさえ呼称できないが、視座を地球、宇宙規模に拡大してマクロな見方をすれば、それは全く問題にならないし、同一視したって誤差の範疇に収まるものだろう。

 身体の水分量は、人間の成人においては体重の60%もの割合を水分が占め、また、鯨をはじめとした動物も、70%ほどであり、体内の水分のたった10%が失われるだけでも危篤状態に陥るという。浸透圧などの問題から、海棲哺乳類とわれわれ地上に生きる生物の間でもさしたる誤差はなかろう。宇宙規模で見るなら、我々が自称するように「地球人」ではなく、「水(H2O)の星の人」と自称するべきかも知れない。

 それほど、生物学的に、身体構造的に、われわれは宿命的に水に依存しているのだとすれば、この大気中で息が詰まり、泣き出しそうになり、なんであれ呼吸が苦しく、喉が渇くことーーー、ある種のストレス症状は、空中で溺れていると表現するのも差し支えない、ように思われる。n-bunaの修辞法はそういった点が多く見られるように、私には思われる。

だから、海底譚は“ウミユリ”でなくてはならないし、ネモ《誰でもない》船長が舵を取る”潜水艦ノーチラス“なのではないのか。



 古代より、人間がものを考え、感情が生起し、生存の要となる核は心臓だと、Heartだと考えられてきた。

 現代の神学たる科学においては、その答えは専ら脳に求められているようである。しかし、機械的に、脳をメインコンピュータ(もしくはメモリ)として、頭蓋以下を還元可能な部品とみなすにしても、血液を、化学物質を、酸素を、糖を、押し出すポンプの、情動のと連環し、義務教育課程で魚類-両生類-哺乳類と、太古よりの進化を如実に辿らされる、辿ることの容易な、脈打つ、生き絶えるその日まで弛まぬ心筋こそが、やはり最も「心」らしく思えるし、敢えて言うなら「偲」なんて字を当ててやってもいい。

 ところで、マグロは泳いでいないと、走っていないと死んでしまう、というトリビアを小耳に挟んだことがおありだろうか。私の記憶では、それは要するに、自力でエラを動かして、海水を体内に取り込んで呼吸をすることができないために、相対的に、自身の体を動かしてーーー、惑星の如く、鰓に海水を取り込まなくては、酸素を取り込めず、二酸化炭素を排出できずーーーー、窒息死してしまう、というだけの理屈であるらしい。



さて、それでは、考えてみよう。
魚類にとっての心は、鰓(えら)《肺・心拍》
哺乳類にとっての心は心臓(ハート)《心臓》
海棲哺乳類にとっての心は肺(lung)《鰓/肺/心臓》

 この並行関係は等式で結ぶのはそれほど困難に見える寓意、類比だろうか。


 晴れやかな青空が浅瀬の環礁だと云うのなら、夕方から夜にかけて空がその明度を落としていって濃紺から漆黒へと様変わりする、深夜はまさしくそこなしの、深海とそっくり重なるのではないか。息苦しい、行き場のない、深夜の町々の肖像を見たことがあるなら、わかるだろう?

 だから、恐らく、『夜行性』音楽はむしろ『潜水艦』の文学との並置によって観測するべきだと、私は信じていた。これからどうなっていくかはわからない。




後記:「海底二万里」 ジュール・ヴェルヌ (訳:新潮社文庫版) の前半部分に目を通し、触発されて衝動的に筆を取った次第であるので、乱筆勘弁願いたい。
 また、寧ろ、「アイラ」や「メリュー」、蜜柑星Pなどの音楽シーンに関しては対照的に天気、気圧、宇宙、無重力、の窒息と重ねられることも述べるべきだろう。機会があれば、ナユタン星人的、ボーカロイド宇宙論、天体論、物理学的音楽解釈について述べたいと思う。是非皆さんも考慮していただけると幸いだ。

補遺:要するに、《夜行性》音楽シーンはそもそも人間の音階で、周波数で、声帯で歌うことを想定されていない“歌う為の人造存在”ーーー“初音ミク”VOCALOIDやその系譜に連なる合成音声《人間音声異常のスペックを有する》の歌であるはずなのに、若年層以外の大衆が人間が歌っていないという酷い思い違いから相手にさえせず、色眼鏡をかけられてしまう、差別されてしまうから、ハチやwowakaやn-bunaでさえ、人間が、ボカロPが姿晒して、歌って、表舞台に引き出されていて痛ましい、という要約もできる。


 自分は、VOICEROID(歌唱ではなく、会話音声出力に特化したソフト群を仮に全体呼称する)に無理を通してでも歌を歌わせる、話すための音声を、声帯を必要以上にこねくり回して歌わせる歪などうしようもなく人間的な、創作者達が大好きだ。

ニコニコでは、VOICEROIDやTRPG動画をガン推ししているので、是非、youtubeからニコニコに回帰してみてほしい。どうして現在の夜行性音楽を、電気鯨Pを抜きにして語れるだろうか?

《夜行性》音楽シーンはyoasobiやヨルシカに端を発するのではなく、オルタナティブロックや、黎明期ボーカロイドから続く、クソッタレな現実を打破して大人になるまで生き残る為の、子供のための、おとなのための、インターネットのロックン・ロールだって話なんだよ!