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それでもウィル・スミスは正しかった...

どうも悪い猫です。

適当にTwitterをしていたら、いつのまにかモテの仕組みを語るプチアルファとして注目されるようになりました。昔はナンパをして腕を磨いていましたが、最近はすっかり丸くなりパートナーと一途なゆるふわな恋愛をしており、仲良く未来設計を共に楽しんでおります。

今回、ハリウッドですごく不穏な出来事がありました。俗称「ウィル・スミスのイキリビンタ事件」です。

クリス・ロックが司会となって恒例のアカデミー俳優女優の弄りをしていました。アドリブでクリスがウィルの妻の髪型を揶揄して「GIジェーン2を楽しみにしているよ」と弄る発言をしました。

ウィル・スミスは最初は笑っていましたが、妻の顔色が悪いことを察して壇上に上がり、何も言わずに全力でクリスに平手打ちをしました。実は、妻は病気を抱えており、悩みに悩んでスキンヘッドにしたので、その気持ちに配慮した行為でした。

その後、カツカツと離れ、困惑したクリスが「これはGIジェーンのネタ(そんな酷い弄りか?)だぞ?」と話を進めるのを遮って「俺の妻の名前を呼ぶんじゃねえ!」と2回罵倒した。

この流れです。

日本では「ウィルはよくやった!」と賞賛の嵐ですが、アメリカでは「ウィルは本当にイキりサイコパス」のブーイングの嵐が巻き起こりました。ざっとYoutubeコメントを見てもこれです。

「愛妻家アピールが芝居っぽい」「ジョーク元がドウェイン・ジョンソンなら殴らない(デカイ方のロック)」「ただの後輩イジメ」「スピーチの嘘泣きがキツイ」「反撃しなかったクリスかっこいい」「妻との関係は不倫オープンなのにジョークにはオープンじゃないだと?」

それぞれの違いについて当面は分析しませんが、自分はウィル・スミスはこの件で社会的に正しいことを一ミリもやっていないとは考えています。それは「暴力はいけない」というお花畑の話ではなく、暴力を使う必要のない段階で使ったからです。

力の行使は「必要最小限度」に留めるのが文明


暴力は社会を維持する根底の装置ですが、文明社会は暴力を必要最小限に抑えているからこそ文明社会なのです。

殴る前には警告をする交渉する談判する、それが本来の文明人の行いであります。それでも言うことを聞かなかった場合の手段として「殴る」があり、それでも止まらない場合は「半殺しにする」もあり、それでも自分に危害を加えるのならやむなく「殺す」というの暴力まで、実は社会はさまざまなシチュエーションで認めています。(警察、戦争、正当防衛)

私はその正当性については否定しません。しかし、今回の場合はどの場合にも当てはまりません。

司会者のクリスは妻の病気のことを知らなかったかもしれないし、アカデミーではお互いに容姿を弄り合う無礼講が恒例行事だった、悪意があったとは到底思えないし、ウィルはその意図を確認することもできた、壇上に上がって耳打ちして「妻は辛いからやめろ」と交渉することもできた、それで「言うことを聞かなければ殴る」と脅すこともできた、それなのに有無を言わさずに最終手段をいきなり出して殴りかかったウィル・スミスの行為は非常に未熟でした。

暴力というのはあくまで最終手段であって常備手段ではないからです。

これが国家機械や警察は暴力を使えるのに(最終手段)、ヤクザは暴力を使ってはいけない理由(常備手段)です。また「気持ちは分かるがやりすぎ」という意見も多いですが、その場面でやるかやらないかで人間が決まります。「気持ちは分かる」では社会的に正当化できません。

しかし、私はある意味ウィル・スミスは今回の騒動で社会的な名誉を失っても、人生にとって合理的なことをした可能性を主張します。政治的に正しい話ではないので有料コンテンツです。返金自由です。

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