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【読書レビュー】遠藤周作『女の一生 一部・キクの場合』

私が小学一年生の頃、父が家庭用コンピューターを買ってきた。毎週日曜の7:30からはじまる戦隊もののおもちゃに夢中だった私は即座にネット上のオンラインゲームに夢中になり、長時間遊んではよく叱られたものだった。一方で小学生ながら、2ちゃんねるもよく見た。

中学生の頃はYoutubeやニコ動に夢中になった。特にパワプロゲーマーだった私は、彼女攻略法などを動画で学び、より強い選手をつくるのに必死になった。また、小学生の頃よりも自分の携帯(当時はガラケー)を持つ友人も増え始め、yahooのアカウントを作って友人たちとメールのやり取りを始めたのも中学生の頃である。それから、この時期はpepsや前略プロフィールといったHPを持つのが流行っており、「リアル」と呼ばれる掲示板(今で言うTwitter)にその瞬間の出来事を呟くことがとても流行っていた。

高校生からは自分の携帯を持ちはじめ、いつでも誰とでもメールや通話ができるようになった。大学生になったらスマホを持ち歩く生活を始めるとともに、LINEやTwitterなどのSNSを使い始め、一気に交友関係を拡大することができたのだった。

このような時系列を書くと、私がだいたい何歳なのか見当がつく人もいるだろう。私は物心ついたころからインターネットが生活の一部として組み込まれている、いわゆる「ネットネイティブ」と呼ばれる世代である。メールやSNSでいつでも人とつながれるのが当たり前、わからないことがあればネットで調べもの、地球の反対側の出来事はYoutubeで動画検索、これらは私にとって当たり前に行ってきたことだ。

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『女の一生 一部・キクの場合』の舞台は幕末から明治にかけての長崎。江戸時代、よく知られるようにキリスト教は邪教として信仰が禁止されており、幕府による厳しい禁教体制が敷かれていた。だが、厳しい監視体制は逆にキリスト教信徒たちの信仰心を強めたのだろう。島原・天草一揆が代表的だが、教徒たちは自分たちの信仰を守るために奮闘してきた歴史がある。

この本の主人公は、浦上の農家の娘キクである。活発なキクは、子どもの頃に木登りをして降りられなくなったところを助けてくれた清吉に、大人になった後も好意を抱いている。しかし清吉は敬虔なキリスト教徒であり、「浦上四番崩れhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C」により、下関へ流罪となった。

これによりキクは清吉は離れ離れになってしまったのだが、どうしても清吉に会いたいと願う彼女に伊藤という男が接近する。伊藤は下関と長崎を往来している役人であり、清吉に会うためには金が必要であるとキクに告げる。清吉を心から愛しているキクは、昼夜を問わず働き、時には伊藤や長崎を訪れた中国人に犯されながらも金を捻出することに専念した。しかし、キクが清吉に会うために作った金を、あろうことか伊藤は役人同士の飲み代として使い果たしてしまう。伊藤はキクと清吉に対する罪悪感に苛まれると同時に、それを辞めることができない自分に対しても負い目を感じていた。伊藤はキクが好きだったのだが、清吉を一途に思うキクはどうしても自分を振り向いてくれない。寂しかったのだろう。

どれだけ働いても清吉に会えないキクが、仕事を止めることはなかった。やがて結核を患い、「絶対にキリシタンにはならない」と決めていたキクは、大浦天主堂の聖母マリア像の前で最期を迎えた。

一方の清吉は様々な拷問を経験したものの、棄教することがなかった。というのも、幸い流罪となっていた最中に幕府が崩壊し、「浦上四番崩れ」は諸外国から大きな批判を浴びたことからキリシタン弾圧は終了したのだ。

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キクの命がけで清吉を思う気持ちを、自分は酒や自分の地位を守るために費やしてしまったのだという罪悪感は、清吉が解放された後も伊藤を支配した。その後、伊藤はキリスト教の洗礼を受けることになるのだが、遠藤周作氏の作品を貫く、弱きを認め、赦す父性としての神を欲した結果なのだろう。物語の最後は、伊藤が清吉にキクの事を詫びるところで終わるのだが、氏がこの小説で一番描きたかったのはキクと清吉の関係性ではなく、悪役として登場する伊藤の中にある、人間らしく、同時に許されるべき弱さだったのではないかと思った。

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キクと清吉が置かれた状況を、現代社会に置き換えて考えてみよう。当然江戸~明治時代にはパソコンや携帯電話があるわけもなく、遠くの人間と連絡を取る手段は手紙しかなかった。しかもキクと清吉が置かれた状況で文通なんてのんきなことができる訳がなく、互いの状況を知る由もない。もっと言うと、キク側からしてみれば、「どうやら清吉は死ぬほど辛い目に遭っているようだ」という何とも漠然とした情報しか与えられていない。「浦上四番崩れ」は数年にわたる島流しであったのだが、その間ずっと、思いは伝えられないけれど互いを信じ続ける精神力は、情報ツールが揃い過ぎた現代人が想像することは不可能であろう。

日付の変わり目に書き始めたら、もうこんな時間だ。『女の一生』は『二部・サチ子の場合』と合わせて連作となっているのだが、こちらの終盤に胸に染みる一節があるので、それを紹介してnoteを終えたい。『一部・キクの場合』と文脈は違うのだが、この連作を貫くテーマとして非常に印象的だ。

ー子どもたちがボーイフレンドやガールフレンドと長電話をしているのを聞いていると、もはや本当の意味での「恋」はもう日本人にはなくなった様な気がする。恋らしいものは誰にでもできるが、本当の恋は誰にもできない。今の時代、恋はたやすくなり、たやすくできる行為になってしまった。-

おわり

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