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「六年目の浦島太郎」は成仏へ至る道を描いた仏教漫画

とんでもない陰謀論です。適当に言ってます。
あと表題の作品のネタバレを多分に含みます。ご了承下さい。

先日、天を夢見ての感想を投稿した。
ただこの作品、四季賞の準入選なのだ。ええ?これで??

じゃあグランプリ取ったのはどんな漫画なんだろうと思って調べたら出てきたのがこの漫画、「六年目の浦島太郎」だ。

非常に面白かった。面白かったが、こう、正直「結局何が言いたかったんだ…」という思いが涌き上がって来て、
いや、物語に意味を求めるのは僕の悪癖なのはわかってるんだけど、やっぱこう、
6回目でコールドスリープを止められたあたりに重大な意味が隠されているに違いない…と思って仕事も手につかなかった。
そして、思いついたのだ…

これ、仏教の死んでから成仏までの期間である、「中陰期間」を示しているんじゃないか?

仏教では、人が死んでからの四十九日間を「中陰」と呼ぶ。この間は故人の魂はこの世とあの世の間をさまよっており、7日毎に裁判を受け、7回目の裁判で判決を告げられる。この最後の審判がいわゆる「四十九日」である。

この間、七日毎に裁判を受け、次の生を決定する。

そして主人公である理咲は6回目でコールドスリープを止められる。余命いくばくもない彼女の次の7回目の永い眠りは死を意味する。
これはこの中陰期間を模したものなのではないか。
ちなみに中陰期間は7日毎に裁判を受けるが、5回目で生まれ変われる先がどのような存在かが決まり、6回目でその中で具体的にどのように生まれ変わるのかがわかる。
6回目に目覚めた主人公がその後コールドスリープせずそのまま死ぬであろうということは、次の生まれ変わりが人間であることの示唆なのではないか。

ちなみに元々は15年間コールドスリープを繰り返す予定であった。
これはこの中陰の7回の裁判と、100日目の百箇日、
一周忌から一般的な「弔い上げ」(どんな人も無罪放免となり極楽浄土へ行けるという教えがある期間であり、これを最後の法要とすることが多い)である三十三回忌までの8回の法要を加えればちょうど「16回」である。
15回のコールドスリープと、最後の死を合わせれば16回だ。
これは、偶然だろうか…?(いや偶然だろ)

一般的な弔い上げは三十三回忌まで。五十回忌までやるとこもある。

なるほど、この物語の裏のテーマは「成仏」なのである。

葬儀や法事といった冠婚葬祭の「葬」に属する行事は、誰のためにあるのだろう。
もちろん、宗教的な模範的回答は「死者のため」である。(ただし浄土真宗等一部を除く)
しかし、社会学的側面で言えば「生者のため」にこそ葬儀は存在するのだ。
突然にせよ、予期されたにせよ、身近な人の死というのは生者の心に大きな穴を開ける。
その穴を少しでも埋め、死者を死者として割り切るために必要なのが葬儀や法要なのだ。
生者は明日を生きなければならないのだから。
そして「死者のため」という方便は、死者が悪霊として蘇らないように成仏させるという意味を込めている。厳密に言えば、物事を故人と結び付けて悪霊扱いしないようにという意味で、結局は生者のためではあるのだが…
要するに、「主人公が1年に1度起きて家族、友人、恋人と会う」というこの状況はまんまこの法要なのだ。
たまに故人の死後のキリのいい時期に集まって、故人を偲ぶ。
実際、作中の女友達とかは主人公のおかげで主人公の死後も交流が続いたりしてそう。
「理咲死んじゃったね。でも、またこの時期に集まろうよ。毎年。」
みたいな。いやそうじゃないとこの作品救われなさすぎるので、きっとそうだ。

そして主人公の理咲にとっても、仏となる「成仏」に向かう道なのだ。

自分が居なくても、世界は続いていく。
自分が居なくても、恋人は生きていく。
自分が居なくても、家族は(妹だけだけど)自分の死を受け入れて日々を紡いでいく。
それを実感し、自身が死んだことを受け入れることで、人は「中陰」から抜け出し、成仏するのだ。

という訳で、綺麗に終わったところで、野暮だとはわかってるものの、この作品の突っ込みどころを話したい。

この思考実験じみた作品のために出てきたコールドスリープだけど、本来こんな使い方しなくね???
作中でも「余命宣告者に対する定期的な使用」みたいな説明あったけど、用途サイコパス過ぎんか?
普通はコールドスリープして医学の進歩を待つっていう、あくまでも医療行為の延長として使うもんじゃないの???

以上。約1800字、読んで頂きありがとうございました。





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