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「遊び」と「表現」③ 目的はない。結果は求めない。

遊びと表現の類似性を3回にわたって書いてみました。ここで言いたかったことは「似ている」という事実ではなく、その類似性が何を意味するか?ということで、おそらく遊びや表現というものは、生きる上で欠かせない行為なのだろうと思います。

①と②はこちら。

教育の機会における遊びの役割

2022年の10月から小学生を対象としたデザインのオンラインスクール 9kidslab で「デザイン思考」という講座を担当しています。僕のクラスでは一般的な意味での「デザイン思考」を伝えるのではなく、「学び方を学ぶ」ということを子どもたちと一緒に体験的に学べるように努めています。

以前取り組んだ課題に「zoomを使って離れた場所にいる人と遊ぶ方法(ゲームや遊び)をデザインしよう」というものがありました。この課題の最初にやったことは2つ。一つは「既存の遊びをzoomを使ってやってみる」ということともう一つは「zoomの特性を理解」するというもの。どちらも「知る」ということ目的とした試みです。

既存の遊びをzoomを使ってやってみる

最初のアプローチは、思いつく限りの既存の遊びをzoom上で試します。かくれんぼ、だるまさんが転んだ、お絵描きしりとり等、できそうだと思ったものはどんどんやってみます。すると早速いろいろなことに気づきます。

例えば、だるまさんが転んだをやると…

  • それぞれに異なる場所にいるから、鬼から等しい距離で離れることができない

  • 使用しているネットやデバイスによってタイムラグが生じる(鬼から見るとみんな動いていたり)

  • 鬼にタッチの方法が難しい

かくれんぼの場合には

  • 画面に映らない場所に隠れては、鬼は探しようがない

  • 公園などでやるのと異なり隠れる場所が数ない

これは一例ですが「やってみて気づくこと」は実にたくさんありました。「知る」ためにやったものですが、ここに「新しい遊び」を生み出すヒントも隠れています。知ることは創造することになるわけです。例えば、かくれんぼの場合には「隠れるー探す」というのが基本的な遊び方ですが、隠れる場所が画面内だと少ない。ならば自分ではなくぬいぐるみなどの小さなものを隠そうという発想に至ります。さらには画面内をよく見れば必ず一部は映っているというルールも加えました。頭隠して知り隠さずルールです。画面の外に隠れると鬼は探しようがないというテレかくれんぼを逆手に取ったわけですが、すでにちょっと新しい遊びになり始めています。

だるまさんが転んだならば、zoomで遊んでいるために不可能な「鬼にタッチ」をどうするか?と考えて見ると新しい遊びにつながっていきそうです。チャットを送る。zoomから退出する(ボタンにタッチ)。音を利用する。などアイデアが出る中、子どもたちはだるまさんが転んだの「鬼がこちらをみたら止まる」というルールに着目をします。ならばと、鬼が後ろを向いてこちらを見ていない間にポーズを変えるという遊びに発展していきます。結果、自分のポーズと部屋のものを使った間違い探しのような遊びになっていきました。

zoomの特性を理解

次に試したのは「zoomの特性を理解する」ということです。とはいえ、既存の遊びをzoomで行ったおかげでたくさんの特性をすでに子どもたちは理解しています。ただ、それらは一見するとネガティブな要素が多く、現実に対面して遊ぶならばできることが、zoomでは制限となっているように写ります。しかし制限はゲームで言えばルールです。制限次第で遊びは実にユニークで楽しいものになるわけですから、今度はzoomの最大の制限でもある「画面のフレームが存在している」ということを逆手に取ることはできないか考えてみます。そこで生まれたのがこんなマジックのようなもの。

おもしろいでしょ?

遊ぶという最大の学び

さて、ここでちょっと想像してみましょう。ここまで述べたような全ての発見を先生が一方的に話して伝える学習だったらどうですか?
「zoomにはフレームがあるからその中で遊びましょう」
「遠隔地にいる人にタッチはできないですよ」
「画面の中ではスペースが限られます」
「環境によってタイムラグや通信速度に違いがあります」
という感じ。どうです?退屈じゃない?僕だったら30秒で忘れてしまいそうです。しかし、体験的に学んだものは記憶にしっかり定着されます。このテキストを書いている今だって当時の子どもたちの様子はありありと思い出せます。

つまり遊ぶということはそれ自体が学びに直結しているのだということです。また、ファシリテーターでもある僕の魂胆はあれど、「zoomを理解するために遊ぼう」みたいなことは言いませんでした。子どもたちはある種のルールの中でただ遊んだだけです。実はこのことが最も大切なことだと思っています。

効果効能を求めない

確かに遊びには学習的な効果が期待できます。ただしそれは目一杯楽しく遊んだ場合のものであって、先に効果があるものではありません。遊びに目的はないのだと思います。ここが表現との類似性です。表現も案外「結果」を求めて行うものではないのかもしれないと思う時があります。

もちろん、表現の世界には「世界平和のために曲を作りました」とか「未来のために歌います」というようなことがあります。「生活のために絵を描く」ということもあるかも。〇〇のために、というのはまさに結果を求めた行為ですから、僕の言っていることにはちょっと矛盾もありそうです。

ただ、アウトサイダーアートと呼ばれる領域があります。広義には障がいのある方や民族芸術のようなものを指すものですが、障がいのある方の作品群という印象が強いだろうと思います。アウトサイダーアートはその作家たちに、自分が表現したものを「売る」気がないというのが最も大きな特徴だと思っています。もっと言えば他者に見せる気すらありません。彼らは自分が作家であるという自覚はまるでなく、ただただ表現を続けているのです。

ヘンリー・ダーガー(Henry Darger)という作家がいます。身寄りもなく一人で暮らしていたアパートの部屋を、その死後に大家が片付けに入るのですが、そこでダーガーの膨大な作品を発見します。普通ならばゴミとして捨ててしまうようなものですが、大家はそこに芸術的価値を見出し、部屋と作品を保管、美術関係者に見せ続けたそうです。現在ではダーガーはアウトサイダーアートを代表するとまで言われるほどの作家であり、作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめとするいくつかのミュージアムに収蔵されています。

ダーガーは一例ですが、アウトサイダーアートの作家たちに共通することはいずれも本人には、作品を他者に見せるという意思はない。にもかかわらず表現を止めることはなく、むしろ生きることと等しいように表現を続けているということです。

ダーガーの作品を表紙に用いた本

目的はいらない

遊ぶことにそれ以上の目的はありません「頭を良くする遊び」みたいな商品コピーをたまに見かけますが、個人的には共感できません。遊んだ結果頭が良くなる(脳が活性化するとか柔軟になるとか)ということはあり得ても、〇〇のための遊びは存在しないはずです。意味がない。

表現も本来はそうなんじゃないかと思います。それは別に無意識的に表現を行うべきだということではありません。表現することに動機はあって良いのですが、表現するということ自体が目的になって良いのだろうと思います。そしてそれは生きることとほとんど同じ意味合いを持っているのかもしれません。

子どもたちをみていると遊ぶことも、絵を描くことや歌うこともとにかく楽しそうです。ただしそれは自発的にやっている場合であり、やらされているとそうではないかもしれません。そしてその楽しさが「成長」につながるのだと思うと、大人もまだまだ成長の余地があると思いませんか?

楽しんでますか?

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