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「遊び」と「表現」② 表現することは自分と世界の関係性をデザインすること

この世界のことをもっと知りたいんだ

少し前に「表現と遊びは似ていて、どちらもINPUTとOUTPUTの循環が大切だ」といった趣旨のことを書きました。こちら。

僕は全国あちこちで"大人のお絵描き教室"というものを主宰していますが、それは技術修練の場ではありません。技術の向上のためには継続が必要だし、全国あちこちで継続を促すのは難しいという実情もあるけれど、それを目指していないというのが本音。もちろん技術の向上が新しい表現の可能性を見出してくれることもあるので、それを否定するものではありません。

では、いったい"大人のお絵描き教室"は何を目指しているのかといえば、振りかぶっていうのであれば、「この世界における私という存在」を見出す(見つめ直す)ための機会としてやっているのだと思います。そのために「表現する」という行為をしているというか、表現を通じて自分を知り、世界を知る。そんなことをやっているんだろうというのが根底にあります。

自分のことは自分ではわからない

もっとも身近でありながら、もっとも不可解な存在が「私」という存在かもしれません。自分とはいったい何を好み、何をして何を成し、どこに向かうのか…。問うほどにわからなくなっていったりして。

表現することはOUTPUTすること。自分が見た世界を自分の行為でOUTPUTすることです。だからそこには否が応でも「自分」というものが表れてしまう。それを最初に目撃するのが表現者たる自分だと考えています。お絵描き教室の様子を見ていると、自分はこんな風に世界を見ていたのか、と気づく参加者は少なくありません。

世界を知ることは自分を知ること

お絵描き教室では絵を描くときに、自分がいったい何に惹かれているのか、可能な限り細分化してほしいと伝えています。例えば、目の前の花瓶に生けてあるお花が綺麗だと感じて、それを絵にしたいと思ったときには、いったいお花の何が綺麗だと感じているのかを細分化するわけです。人によって様々なはずです。
・色が綺麗
・フォルムが美しい
・儚さに惹かれる
・ふわっとした空気感
・花びらの透明感
・季節感
・光の印象あるいはこの瞬間
・なんかわかんない
などなど。「色が綺麗」をとってもそれをさらに細分化する。その結果もまたさらに細分化する。ある程度繰り返すと自分が見ているものがなんなのかが明確に表われてきます。それを絵にするわけです。スマホで簡単に綺麗な写真が撮れる時代に絵を描く意味ってこういうことなのかなと思うわけです。

そしてそれを見ている存在こそが、自分でもわからなかった自分という存在なのだろうと思います。お絵描き教室のいいところの一つは集団でこれをやっているということ。自分と他者は同じものを見ていても、まるで違うものを見ているのだということをこの細分化は気づかせてくれるわけですが、この違いはそのまま「自分」という存在でもあるわけです。

こうしなくてはならない、は何もない

表現することと再現することは異なります。ならば「リアルに描かねばならない」ということは何もありません。お花の色が綺麗だと感じるならば、フォルムや立体感というものを上手に再現してあげる必要はないということ。自分がやりたいようにやれば良いのです。

ただ、なんでもアリも少し違うかなとも思っています。「表現は自由だ!」とか「100人みんなアーティストだ!」みたいなセリフって結構よく聞くんですけど、ちょっと稚拙かなとも思ったりします。へそ曲がりな僕のクセでもあるんだけど。
なんでもアリがちょっと違うのは僕たちの表現は、それを見る人がいるという前提で行われているからです。仮にヒミツの誰にも見られない日記を毎日書いている人がいるとしても、それすらも誰かに見られる可能性を前提にしていると思っています。だからきっと読めたものになっている。見る人がいない前提のものであれば何物にもならないんです。ある種のフレームの中で行われるからこそ、自由は成立するのであって、それは尊重したいというのはまた別のお話。

世界と私と知る機会としての表現

つまり表現するということは自分を中心とし、自分からOUTPUTすることでありながらも、世界を知るということでもあり、自分を認めるということでもあるだろうというのが僕の考えです。

そしてそれは幼児期の遊びも同様のことがいえます。子どもたちはそんな意識で遊んでいうるわけではありませんが、遊びを通じて世界を知り、自分を知っている。子どもの成長が早いと言われるのは、空っぽのポリタンクに水がどんどん入っていくように吸収するからでしょう。この世界には明日が来るということ、冬の先には春が来るということ、雨はいずれ止むということ、自分の身体には境界があるということ、自分と他者は違うということ、自分と他者は同じがあるということ…。それら全てを遊びは教えてくれます。

だから高度経済成長の時代であれば「遊んでないで勉強しなさい」だったけれど、現代ならば「もっと遊べ!」が必要でしょうね。ただし遊びは義務的に行うものではないから誰かに言われるのはナンセンスなんですけどね(笑)。

おそらくですが、僕が行なっているお絵描き教室で「できなくって苦しい」と感じる人はあんまりいないだろうと思います。たまにいるけど。。
でもどちらかといえば楽しそうな人がほとんどで、あっという間に時間が過ぎていく印象です。まぁ、先生のサジェストがいいからね。

それはきっと子どもたちが遊んでいる感覚と近いのでしょうね。知らなかった、あるいは忘れていた世界や私のことを知って、どんどん吸収していくわけです。逆にいえば表現するという機会を失うことは、世界や私との関係性が崩れるということでもありそうです。その状態を病気と呼ぶのかもしれません。精神的な病です。

表現とは特別なことではない

現代社会はたくさんの分断と引き換えに徹底的な利便性を手に入れました。私たちは何も表現しなくても生きていけるようになったけど、それはなんだかいてもいなくても同じような退屈さを感じることがあります。表現することは一部の芸術家による限られた行為ではありません。誰にでもできること、誰にとっても必要な行為だろうと思います。表現することは自分と世界の関係をデザインすることであり、私とはいったい何かを知ることでもあります。たまには目的もなく絵を描くのもいいものですよ。思わぬ発見がたくさんあるから。目に映る世界が変わるかもしれない。


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