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「生まれる」

 【まえおき】 

 多分わたしは「受験国語オタク」なんだと思う。国語の教科書に載ってる文章を読むのが好き。問題を解くのも好き。教員だった頃、授業の準備に毎日追われてひーひー言ってたけど、「いったいどうしたら、生徒に『わかった!!』を提供できるだろう?」と考える時間を、実は結構楽しんでいたんじゃないか、と今になって思う(何かに追われてる感がずっとあったので、大変だったのは大変だったけど)。

 というわけで、13年国語科教員としてやってきたわたしが、「あの教材の、ここが好きだったんだよねえええええ!!!」とか、思い出みたいなものを、ただひたすら、好き勝手、つれづれに、書き連ねることにした。

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「I was born」吉野弘

 「I was born」のことを考えるとき、わたしはどうしても、自分が担任した子たちのことを思い出す。結果的に2度しかなかった担任経験のどちらもとても大切なのだけれど、今回は「彼」のことが書きたいので、はじめて受け持った学年のことを中心にぽちぽち打っていこうと思う。

 はじめて勤務した高校には、いろいろな背景を持つ生徒がいた。高校を卒業するということは当たり前ではないということを知った。毎年いろいろな理由で学校を去る生徒が一定数いて、わたしにはそれがつらかった。

 彼は勉強が嫌いだった。明るくて、人懐っこい子であるようにわたしには見えた。成績が悪いので(授業中寝てしかいないから)、何回もお母さんと面談をした。たしか最後の面談は本人に内緒でお父さんがあらわれて、びっくりしたあとで、ちょっと不機嫌そうにしていたのを思い出す。勉強は嫌いだけど、家出をしたときも学校には毎日来ていた。

 1年生の3月、進級できない事実を告げた。面談も終わり、最後の手続きで学校にきたとき、彼は「ありがとうございました」とボソッと告げて、雨の中を走っていった。

 誰かがいなくなっても学校生活は続いていく。修学旅行で見回りをすると、ギャーギャー騒ぎながら部屋で男子が電話をしている。その相手が彼で、元気そうで安心したのを覚えている。みんなが3年になったある日、ホームルームがはじまっても電話をしている生徒がいたので、「そろそろケータイしまってよ」というと、電話の相手は彼だった。「あいちゃんかわる?」と言われて少し話をすると、「文化祭に遊びに行くから」と。

 「お、わかった。楽しみにしてる」と返したのが、最期の会話になるとは思わなかった。

 ある日、通勤中に彼の番号で着信があった。家出の経験があったり、宿題をやったかどうかの確認をしたりしていたので、携帯電話の番号の登録はしていたけれど、もちろん個人的に電話でやりとりするなんてことはなかったので、「どうしたんだろう」と思いつつも、なんとなく嫌な予感がした。

 学校についてからかけ直すと、お父さんが出た。

 彼が、海で亡くなったということだった。

 学校を辞めてから、働きながら通信制の高校に通っていた彼は、勉強はやっぱり嫌いだったけど、仕事は責任をもって毎日頑張っていたそうで。

 職場の皆さんに、「勉強もやっとけよ!」とあたたかく声をかけてもらいながら、雨の日も、具合が悪くても、休まないで現場に行くんだ!と頑張っていたそうで。本当に大事に、大事にされていたそうで。

 海で溺れて死んでしまった。

 学校の先輩方に、「行って、顔を見ておいで」と背中を押してもらい、彼に会いに行った。夏だから、遺体が腐敗しないようにキンキンに冷やされている、本当だったらあと1か月もしないうちに、文化祭に遊びに来ただろう彼の姿を見た。

「親に反発してたんで、家にはまともな写真がなくてね。だから先生にもらった、この1年生の時の写真を遺影にしたんですよ。ほら、すごくいい顔してるでしょ。先生ありがとうね」

 堪えられなくてわたしは泣いた。

 遺影にしたくて撮った写真ではなかった。ただ、あのとき、文化祭の準備をしている生徒たちが愛しくてたまらなかったから撮ったのに。元気でね、ただ、そう伝えたくて、書類と一緒にポンと入れた写真なのに。

 遺影になることなんて誰も望んではいなかったのに。

 彼は18歳になる年に死んでしまった。


 その年、2011年には、3.11もあって、

わたしの父も亡くなって、

クラスのとある生徒はバイク事故で生死をさまよい、

彼は海で亡くなった。

家庭環境が変わって学校に来られなくなった子も、

ギリギリまで頑張ったけど、転学せざるを得なくなった子もいた。


 明日があたりまえに存在するとは限らない。

 そして、

 誰かがいなくなっても、のこされた者たちの生活は続いていく。


 彼らの、高校生活最後の1年に、わたしもどっぷり浸かって過ごした。

 はじめて担任をした学年では、「I was born」を最後の授業にしようと決めていた。いつ決めたかは覚えていない。3年の現代文の年間授業計画を立てた段階でそうしようとしていたのかもしれないし、もしかしたら、はじめて彼らに会ったときからずっと、そうしたいと思っていたのかもしれない。多くの高校では3年になると受験のため、学校の授業なんてあってないようなものになるのだが、この高校は「3年になったからにはみんなで卒業するぞ」が第一目標みたいなところがあったので、きちんと「最後の授業」ができるのは、はじめて担任をする自分としては結構うれしいことだった。

 具体的にどういう授業をしたのかはもう覚えていないのだが、

「生まれる」

というタイトルで自由に文章を書いてもらって、それを文集にした。

 誤字も脱字も、そのまんま。

 教員4年目のわたしはまだまだ未熟だった。きっと授業はそんなにうまくなかっただろう。


 でもあの文集はあのときの、あの日のわたしにしかつくれない。

 あの文集は、あのときの彼らとしか、つくれなかった。


 こんなにも過酷な人生があるのか、と思うような人生を歩んできた子たちがたくさんいた。わたしはその高校にいた4年間、それを見つめ、時に一緒に泣いて、寄り添った。

 嘘みたいな毎日の中で、

「生まれさせられようが、なんだろうが、なにがあろうが、

 生まれたからには生きていくしかないんだよ」

という姿勢をわたしは彼らに教えてもらったように思う。


 この文集のいちばん最初に文章を載せた生徒も、

 あともう少しで二十歳になるというとき、事故で亡くなった。


 親から愛されないということが、それでもその分友人に恵まれて笑いながら生きているということが、親から十分に愛されて、それでも満たされないということが、大きなものを抱える家族の中で、自分は孤独を感じながら生きていくということが、他人には決してわかってもらえないような大きなくるしみを抱えながら生きていくということが。

 そんな中でいつも笑いながら、10代を生き抜いてきたみんなにとって、そのことのすべてが今、「ギフト」になっていたらいい、と思って生きている。

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