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人間の仕事はなくなるのか?

 AIやロボットの発展によって、人間の仕事はなくなるという議論が盛んである。実際、これまで人間がやっていた伝票の入力とか、計算とか、配膳とか、そういった作業は機械によって代替されるようになってきている。

 しかし、人間の仕事は依然としてなくなっていない。こういう事態は、すでに産業革命の直後に「ジェヴォンズのパラドクス」として経済学的には知られている。
 
 ジェヴォンズのパラドクスとは、技術の進歩により資源利用の効率性が向上したにもかかわらず、資源の消費量は減らずにむしろ増加してしまうというパラドックスのことをいい、現代風にいえば「業務を効率化しても仕事が増えるだけで給料が上がらない」というジレンマである。AIやロボットのおかげで人間の仕事はなくなるなくなると言われながら、相変わらず長時間労働が常態化している状況はなんとも不可解である。

 こういう不可解さの根底にあるものは、私見では「雇用」と「仕事」の混同にある。結論からいえば、「雇用」はなくなっていくが、「仕事」はなくなっていかない、というのが私の見立てである。

 長時間労働になってしまう原因を考えてみるに、自分がやるべき範囲の仕事が終わっても、別の部署だったり相手方だったり、他の関係者のタスクが進まないことには仕事全体が終わらないということが大きい。仕事とはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが、本来なら手待ちの時間は好きなことをやっていたい。テレワークや在宅勤務が好まれるのは、こうした手待ちの時間に好きなことができるということが大きい。会社にいると、いま直近で取り組んでいるタスクがないからといってYouTubeを見たりうたたねしたりすることははばかられるし、私用のためにちょっとコンビニへ、といったことも、もし私用であることがバレるとまずいのでやりづらい。

 こういうことは、「雇用」というものがそもそも工場労働のための制度であるということに端を発している。イギリスで産業革命ののち、工場に人を集めて働かせるということがはじまった。当初は、工場に来てもまじめに働かなかったり、昼休みになると近くのパブに行って泥酔し、午後には使い物にならなくなる、というようなことが起こった。また仕事が嫌になると来なくなってしまったり、ということがあったが、工場というのはできるだけ多く稼働させるほうが儲かる。1日10時間稼働させれば、5時間稼働させた場合の倍儲かる。そういう形態の経済が産業革命と共に始まった。

 そこで、近代的な「雇用」というものが生まれた。きちんと労働者の身分と待遇を保証するかわりに、その時間は完全に雇用主の指揮命令に服すというかたちの契約が結ばれるようになったのである。昼にパブで飲んだくれないように、社員食堂を設置するという慣行もはじまった。すべては労働者を職場に留めおき、機械の稼働効率を高めるために為されていることなのである。これを労働経済学では「労働力のリテンション(保持)」という。

 そういうわけで、労使紛争における裁判所の判断は、労働者が仕事をしないとか能力が足りないとかいうことにはきわめて甘い一方、時間通りにこなかったり時間まで職場にいないというようなことに関しては非常に厳しい。これは雇用という制度が、そもそも工場を時間通りに稼働させるために最適化されて発展してきたシステムであることによる。

 一方で、現代の仕事はほとんど電子化・コンピュータ化されており、昔の工場労働に比べると手持ち無沙汰になる時間が多くなっている。しかし、雇用というのはその時間雇用主の指揮命令に服するという契約だから、手持ち無沙汰の時間もそういう準備状態になければならない。

 海外に行ってみるとよくわかるが、コンビニの店員とか、レジの店員といった人たちは、客がおらず接客する必要のない時間にはスマホを見ていたり、自分の資格試験の勉強をしていたりする。日本的にはだらしないとかけしからんと思われるような感じだが、現代の技術環境や情報環境からすればあちらのほうが自然で、テレワークや在宅勤務を要請する気持ちというのはああいうふうに働きたいというのが本当のところだろう。

 私自身のいまの仕事も、コンテンツを納品する納期にさえ間に合えばよく、業務上の連絡はすべてスマホで完結するので、仕事は本当に気が向いたときにちょくちょく進めるという形でできる。アイデアが出なかったりどうしようもないときは寝てたりドライブしたりして、結果的に納期に納品が間に合えばそれでよい。むかし勤め人をやっていたこともあるが、どうしても勤務時間中に作業をする気にならなかったり、べつに後回しにしてもいいようなこともその日のうちにやらなければならないということが苦痛で仕方なかった。

 こういう「雇用」の枠組みに当てはめなければいけないためにうまくいっていない「仕事」というのも数多いのだろうと思われる。AIやロボット化が進んでも、ちょっとした調整とかチェックとか、人間がやらなければならないことは無限にある。一方で、工場労働をモデルにした旧来の雇用という枠組みではうまく回らない仕事も増えてきている。

 人間がやるべき仕事はこれからも無限にあるが、それをどういう枠組みのなかで行っていくのかということは大きく変化していかざるを得ないだろう。雇用もやはり近代が生んだ制度の一つであり、世の中は全体として古代・中世に回帰するという傾向と合わせて考えると、自営業者とその集合体がギルド的に仕事を請け負ってプロジェクト単位で物事が進むという形式になり、通信や流通などのインフラを提供する事業は国家や帝国が運営する国営事業になっていくのだろう。

 

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