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ミニマリズムは共産主義なのか?

 引っ越しも一段落して、ようやく初めて新居の台所を使ってキノコと豚肉・ネギの汁物を作った。豚肉とシメジ・エノキ・マイタケ、切ったネギを白だしで煮て、塩を振って七味をかけるだけの簡単な汁物だが、いちばん簡単に作れて飽きもこない。引っ越すということで刺身や野菜を買わずに宅配ピザや外食ばかりしていたので久しぶりの料理である。

 前々から不要な本やら服やらの処分は進めていたつもりだったが、それでもまだまだ結構な量のモノが残っていて、函館に来てから結局一度も使っていないようなモノや開いてもいないような本が割とある。

 本も、妙なインテリぶった自意識が未だに残っていて、「こういう本を読んでいると思われたい」みたいな理由で本棚に残してあった本も引っ越しを機に処分することにした。ショーペンハウアー全集や陳舜臣の中国史の本、フリードリヒ・ハイエクの原書、それからもう絶版になっている陰謀論系の本やロシア関連の文献など、私の思想の根本を形作っているものだけ残して、あとは手放すことにした。不思議なもので古いモノや本を処分していけばいくほど、また新たな考えや発想が出てくるもので、仏教徒じゃないがモノへの執着こそ現世の迷いそのものであって、モノを抱え込まずに身軽に生きていくほうが自由自在に動けるのだということを実感している。図書館の利用カードも作ったので、図書館を自分の書棚代わりに使うことにして、自宅には本を極力抱えないようにしていくつもりだ。

 家は賃貸、クルマはサブスク、本は図書館で・・・といったミニマリズム的な考え方は共産主義の一種だという主張がある。世界経済フォーラムのYou will own nothing, and you will be happy.ではないが、これからグレートリセットをやって、すべての人類が何も所有せず、一切を持たないディストピアに向かって動いているのだという話がある。

 もちろんそれは踏まえた上で、一度旧来の所有という概念を考えてみるに、こと衰退していく日本経済にあっては、所有の名の下に管理コストを負担させられているだけだという現実がある。人口が増え、経済が活況を呈し、資産価値がどんどん上がり、有効需要が増えている状況下であれば、アセットを保有したキャピタルゲインやインカムゲインが管理コストを上回り、いわゆる自己所有している状態が経済的に理に適うことになる。しかし不動産も負動産とか腐動産とか呼ばれるような衰退国家日本においては、自己保有することの収支が引き合わないので、サブスクだとか賃貸みたいな形にせざるを得ないわけだ。イデオロギーの問題を抜きにして、単純な損益計算でそうせざるを得ないという形になっている。まあそういう状況は支配者が作っているんだ、という話もあるが。少なくとも高度経済成長期のまんまの脳ミソで、クルマだの家だの投資物件だのを買わなきゃならないと言っているようではただのカモにされることには違いない。

 日本にはそもそも現世そのものが仮の宿りであって、すべては儚い夢幻にすぎないという考えがあった。平家物語は言うに及ばず、少し古典を紐解けばみな栄華は虚しく、繁栄もやがて終わり、一つの体制が終わればまた役者を変えて同じ台本のもと愚かな喜劇が繰り返されるだけに過ぎないということが書かれている。私の妙な偏見で、現世にあって現世を外から眺めているような、人の世の愚かさを肴に呵々大笑するのが知識人とばかり思って生きてきたから、高等教育を受けたはずの人たちがやれ外車だ高層住宅だドル建て資産だと栄耀栄華の限りを尽くそうとするのを目の当たりにして、個別株を原資産としたコールオプションさえない日本市場においてこの繁栄は虚無でしかないと悟るのにそれほど時間はかからなかった。同じひとたちがきっと我先にと注射も打ったことだろう。

 蓋し所有という概念は、西洋近代に特有の主体・客体関係を前提として成立するものであって、英米的な支配・被支配関係の概念がモノに対して適用されるときに現れるものである。主体客体関係に基づく所有概念があまりにも拡張された結果、自分の性別さえも自分で変えられるというような観念に至る。これは東洋の伝統的な考え方ではない。近代的な考え方が極限まで行き着いた先の、滑稽な有様を我々はいま見させられている。8月22日以降の世界の動向が楽しみだ。

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