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心身の健康を維持することが、生きる目的

 朝6時半に起きて、着替えて函館駅まで往復で5kmほど散歩するということをもう10日継続している。3日前に函館でも初雪が降って、一昨日は雪道、昨日は道が凍っていたがそれでも徒歩で駅まで行ってきた。

 以前はこういうことを企んでも、前日によく眠れなかったり4時とかに早く目が覚めすぎてしまったりしてペースが狂うと、日々の目標を達成できなかった嫌悪感に負けてすぐ続かなくなってしまっていた。しかし今回はとにかく朝6時半にアラームが鳴ったら、腕立て伏せをして着替えて駅まで歩き始めるということを愚直に続けている。4時に目が覚めたらそのまま起きて読書などして、6時半になった段階で外出する。寝ていても6時半に目覚めて、散歩に出かける。

 しかも朝の散歩中にはiPhoneも電源を切って一度も見ない。散歩を始めた当初は家に置いてさえいたのだが、朝でもそれなりにトラックなどの交通があり、事故などの際に困るので一応携帯を持って歩くようにはなったものの、ツイッターもSlackもiPhoneからは削除した。写真も撮るが、iPhoneではなくカメラで撮ることにした。

朝の大森海岸

 これを初めてまだ10日なのだが、もうずっと長い間継続しているような感覚がある。1日1日が非常に長いからだ。頭も以前よりずっと明晰になって、ネットで展開されるいろんな議論が全部バカバカしいことがよりはっきりとわかってしまった。さらに精神的に落ち込んだり暗い気分になることがほとんどなくなった。日中はカシューナッツを食べてトリプトファンを摂取しているので、朝日を浴びることでセロトニンになる。これを自分の身体で人体実験した。この効果は絶大で、ストレスが減るので酒もコメも不要だし、運転中にバカな車がいたとしても彼が早く天国に行けますようにと冷静に祈りを捧げることさえできるようになった。

 精神的リハビリというか禅的生活の実践を通じて、私が30年来囚われてきた「目的のために衣食住を犠牲にする」という価値観の愚かさがよくわかるようになった。高校時代、大学受験のプロセスを通じて私は「試験で点さえ取れば、日常生活は犠牲にしてもよい」という思想の虜になっていた。受験生時代は食事にも配慮せず、衣服や身だしなみを整えることもなく、十分な睡眠を取ることもなく、ただ試験で点を取るためだけの勉強に明け暮れていた。その結果大学は受かったものの、内面化された「より崇高な目的のためには、日常生活を犠牲にすることもやむを得ない」という価値観はその後も残り続け、相変わらず生活リズムを崩して食事や睡眠をおざなりにしながら、夜中まで本を読んだり勉強したり、映画を観たり、酒を飲み歩いたり、画面に張り付いて株やデリバティブを取引したり、何日もパソコンでプログラムを書いたりというようなことをしていた。

 若い時分にそういう没頭する経験は大切ではあるが、自分の衣食住の土台を固める、つまり睡眠を十分取る、栄養のある食事をする、外で身体を動かす、身だしなみを整えるなどといったことなしでは、安定的に何かを続けていくことができない。瞬間的に力は出るかもしれないが、人生や生活はそれよりも長いスパンで続いていき、その期間も心身を維持して生き続けていなければならない。現実の人生は、よくあるビジネス書や投資の成功譚のようにある時点でハッピーエンドを迎えて、それから末永く幸せに暮らしましたとさというわけにはいかない。一生暮らせるだけの金を稼いだはいいが、税金と退屈と、突如降って湧いたように現れる親戚たちに襲われ、持ち慣れない金に振り回されて身上を崩し、晩節を汚す結果に終わるという話も珍しくない。

 もちろんだからといってカネを追い求めなくてよいわけでもない。衣食住の土台を固めよい食事を得るためにはカネが必要だからだ。だがそのカネも、結局は自分の心身の健康を維持するために使うということになるわけで、カネを稼ぐために心身の不調をもたらすようなハメにならないようにしなければならない。自分の資産を減らさないために「寝そべり族」となって、世界経済への呪詛をはき続ける以前の私のような行き方もあるが、それはやはり心身の健康によくない。これから不況が本格化して、倒産、失業、人員整理も増えていくだろう。事業者も厳しい状況になるし、雇用されていても退職金とともに会社を追い出されて行き場を失う人も増えてくる。そうなっても身上を崩さないよう、余裕のあるうちに自分なりの心身の健康の維持の方法、できればあまりカネのかからない技法を開発しておく必要があるだろう。自分なりのリズムとペースを維持できれば、死なずにいることくらいはできるだろうから。

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