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やっぱり朝メシを食べてはいけない

 私の考え方の基本的な原理や方針となっている本がいくつかあり、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』やショーペンハウアー『意志と表象としての世界』、ナシム・ニコラス・タレブ『まぐれ』『ブラックスワン』、フリードリヒ・ハイエク『隷属への道』などである。時代や領域が様々異なれど、彼らが説いていることの本質を突き詰めていくと「近代的な理性に基づいて構築された空理空論によって、本来の人間の自然な能力や感覚を曇らされるな」ということに尽きる。

 ショーペンハウアーはヘーゲル流の万能理性を批判した。この万能の理性がマルクスを経由して、すべての経済の変数を把握し、統御する計画経済と共産主義社会の樹立を目指すべきだという思想につながる。ハイエクによる計画経済批判も、その骨子は人間理性は経済を動かす変数を事前に知り決定する能力はない、従って完璧な経済計画を立案することはできないということから出発し、中央による統御は原理的に不可能なので、個々の経済主体が市場の状況に応じて判断していかなければならないということだ。タレブの確率論の考え方も、起こりうる状況をすべて事前に記述することは可能かどうか?という問いから出発して、起こりうる状況の想定には限界があるという制約から、プラスの不確実性にエクスポージャーを高めるというオプション性に基づくポートフォリオ構築に至るわけである。

 そして國分の『暇と退屈の倫理学』は「現代社会における人間社会の不具合は、もともと狩猟採集をベースにした遊動生活を送っていた人類が無理に定住生活を強いられていることから生じている」という仮説を主張している。原生人類が誕生して400万年になるが、そのうち人間が定住生活を送るようになったのはわずか1万年に過ぎない。長さで喩えれば4メートルのうち1センチしか、人類は定住して暮らすという生活様式を送っていない。その不慣れな定住を強いられていることに伴う無理が、様々な現代社会の問題として現れてきている、という主張である。

 たとえば学校におけるいじめを考えてみる。遊動生活を送っているときには、そもそも外で活発に活動しストレスが発散され、気にいらない相手がいればそいつから離れて別の場所で狩りをしたり寝泊まりしたりするようになるだけで、わざわざ気にくわない相手のいる場所に毎日行く必要はない。争いやケンカがあるとしてもそれは一過性のことで、基本的には時間が経てばお互いに忘れていくだろう。

 これが学校で、人間関係も固定され、身体を動かしてストレスを発散する機会もなく、どこか別の環境に逃げ出せるという可能性もないように思わされる場所に毎日収監されているとどうなるか。行き場を失ったストレスのはけ口として、集団の中で弱い個体に敵意が集約されて、それがいわゆるいじめという現象として発現してきているわけである。会社でも同様であろう。

 ほかにもゴミやトイレの例が同著の中では紹介されている。ゴミをきちんと処分できない個体が多いのは、遊動生活ではゴミは捨てたら放って置いて別の場所に移動していけばいいだけで、いまいる場所でゴミをどうこうするという習慣がそもそも人類にはないことを意味する。トイレについても同様だ。幼児に決まった場所で排泄するトイレの訓練が必要だということ自体が、「決まった場所で排泄をする」という行為を進化の過程で人類はまだ身につけていないことを表している。

 この大きな仮説は私自身の実感にも非常によく適合している。私は毎日学校に行くということが苦痛で仕方なかったし、職場もそうだ。ある一定の期間まじめにどこかに通ったかと思うと、突発的に新幹線や飛行機に乗って遠くに旅行に行く、ということを人生で何度も繰り返してきた(それで出雲大社や宗像大社、阿蘇山などに行けた)。

 支配と統治の原理と歴史も、こういうふらふらとどこかに行ってしまう民衆をいかにして一つの場所に固定するか、という問題とその対応の過程として考えると驚くほど明瞭に見えてくる。もっとも典型的なのは昭和的な「結婚して子供を持ち、家を買って一人前」という通念であろう。結婚と子供はともかく、30年にわたるローンで以て一つの家に住ませるというのは、強制的な定住政策以外の何物でもなかろう。

 もちろんだからといって、いまの世の中で遊動生活を送れというのも非現実的な話だ。一応定住というか、定宿や住民票がないといろいろと不便が多い。それはそれとして、自分の家も定住の地というよりは野営地とか、宿営地みたいなものとして考えて、遊動生活の記憶を呼び覚ますような活動を日々のベースにすることを旨とするのがいいだろう。いますでにある様々な仕組みも、改めて見ると狩猟採集民の本能に訴えかけるものがけっこうある。

 たとえばスーパーマーケットは、買い物の場における狩猟採集を模している。うろうろと歩き回って、目当てのものを見つけてカゴに入れる、という行為は採集と全く同じである。ほかにもポケモンGOなどはまさに狩猟そのもので、支配者が仕掛けたものだとはいえ、人間の本能に訴えかけるものがあったからこそ世界中で大ヒットしたのだろう。

 他にも無数に事例を挙げることはできるが、とにかく人間の本来のあり方、つまり狩猟採集生活の原則に沿った生き方のほうが、ストレスに強く、精神的な安定を保ちながらしなやかに生きていくことができる。いま私は毎朝夜明けと共に起きて散歩に出ているが、これなども夜明けと共に狩りに出かける行動を模しているわけである。それでこれまで感じていたストレスや精神的な不安が驚くほどなくなった。

 逆に夜中に勉強したり、モノを考えたり読書したりしていたときはどんなにいい考え方や成果があったとしても、油断するとすぐに精神的な不安に襲われていた。

 以前から私は朝飯は工場労働のためのもので、朝から血糖値が上がると昼前に眠くなるから食べてはいけないということを言ってきた。これも狩猟採集という観点から言えば、朝夜明けと共に起きて狩りに出発すれば、狩りに成功するまで食べ物にはありつけないのがふつうで、食べ物にありついたらあとは余計なことをせず寝るのがいい。だから朝にメシを食ってしまうと、身体は一日の仕事が終わったと思って寝るモードに入ってしまうのだ。これも最近の散歩の中で自分自身で人体実験したのでよくわかる。散歩していると昼過ぎまで腹が減らないのである。逆に、朝起きてすぐに何か食べると眠くなるし腹も減る。やっぱり朝メシを食べてはいけないのだ。

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