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テクノロジーが私たちを体から遠ざける

過去一世紀の間に、テクノロジーは私たちを自分の体から遠ざけてきた。私たちは、自分が嗅いでいるものや味わっているものに注意を払う能力を失ってきた。その代わり、スマートフォンやコンピューターに心を奪われている。通りの先で起こっていることよりもサイバースペースで起こっていることのほうにもっと関心を払う。スイスにいるいとこと話すのは、かつてないほど簡単になったが、朝の食卓で配偶者と話すのは難しくなった。彼は私ではなくスマートフォンを絶えず見ているからだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』 河出書房新社

これは『サピエンス全史』を著した歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『21 Lessons』における一節である。スマホをはじめとしたテクノロジーは、近年ますます私たちの生活の中に組み込まれるようになった。一方で体や感覚を使うことは少なくなってしまっているように思う。

それの何が問題なの? と思うだろうか。ハラリ氏はこれによって以下のようなことが引き起こされると書いている。

自分の体や感覚や身体的環境と疎遠になった人々は、疎外感を抱いたり混乱を覚えたりしている可能性が高い。有識者はそのような疎外感を、宗教的な絆や国民の絆の衰退のせいにすることが多いが、自分の体とのかかわりを失うことのほうが、おそらく重大だろう。(中略)自分の体から切り離されていては、幸せには生きられないだろう。

ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』 河出書房新社

体とのかかわりを失うことが、疎外感を生んだり、幸せに生きられないことにつながるのだとしたら、それは由々しき問題だろう。しかし、本当にそうなのだろうか? 

偶然にも少し前に読んだ、角幡唯介さんの『そこにある山 結婚と冒険について』(中央公論新社)に、この事柄に関することが詳しく書かれていたので紹介したい。

テクノロジーが私たちを体から遠ざける

2011年、角幡さんは友人である荻田泰永さんとともに、はじめての北極を旅した。目的は、かつてこの地で大遭難劇を繰り広げた英国・フランクリン隊の足跡を追体験することだった。この旅で角幡さんはGPSを使用していたのだが、途中から「何やら歯がゆいもの」「GPSにたいする違和感」を感じたという。

この本の第1章では、この違和感が掘り下げられ、そこから現代のテクノロジーがもつ功罪が語られる。角幡さん曰く、こういうことだ。

今の私は、なぜGPSを使用すると対象からの遊離感をおぼえるのか、その原因をはっきり理解できる。それは関与する機会をうばわれるためである。テクノロジーを使うと対象との身体的な関わりがうしなわれ、世界から切断され、ある種の喪失感が生み出されるのである。

角幡唯介『そこにある山 結婚と冒険について』中央公論新社

これはハラリ氏が述べていることによく似ている。この現象を説明するために角幡さんはカーナビを例にあげる。車を走らせる時にカーナビを頼りにする人は多いと思うが、カーナビがあると道が覚えられないというのはよく聞く話だ。カーナビに指示されるがままに走ればいいので、極端な話、今現在、自分がどこにいるか把握する必要がないのである。

ただ、ナビの指示するがままに、車を走らせていればよい。つまり、これはある意味、周囲=世界との直接的な関わりが切り離された状態だといえる。一方でカーナビが無いときには、現在地を掴むために主体的に情報を取りにいかなければならなくなる。目に映るランドマークから地図上のどこに自分がいるのか、把握しなくてはならない。このようにテクノロジーは人の認知・身体機能を助けるが、その一方で人が対象に関与する機会を奪いとっていく一面がある。

話を北極行に戻すと、GPSによって対象(この場合、北極)と積極的に関わる必要性がなくなったがために、北極との関係性が損なわれ、それが喪失感につながったということのようだ。

実はこれと似た現象は私たちの日常でも起きているような気がする。大事な人が隣にいながら、その人に注意を払わずにスマホに夢中になっているとき。心を動かす出来事に遭遇したときに、写真を撮ることに夢中になってしまったり。あるいは細やかに注意を払えば身近なところにも、おもしろい現象や出来事はいろいろあるのに、それに注意を向けるのをサボってしまったり。

Tiktok、Youtube、Twitterなど人の注目を奪い合うアテンションエコノミーに対して警鐘する記事をしばしば見るが、これらのアプリに注目を向ける一方で大事なことを見失ってしまっているのではないか。

多くの人はカーナビを使ったところで疎外感なんて感じないよ、と思うかも知れないが、ここで言いたいのはカーナビはひとつの例で、あらゆるテクノロジーには、このように対象に関与する機会を減らしていく性質があるということだ。その度合いが進むとどうなるのか。

要するにテクノロジーは〈結果〉をもたらすものなので社会生産性は高めるのだが、〈過程〉ははぶくため個人の知覚、能力、世界は貧相にするという、そういう構造的な欠陥をもっている。
(中略)
人間の体はひとつの巨大な知覚受容体であり、身体で対象と接触することで対象にたいしての理解は深まり、それが関与や関係に発展する。だが、テクノロジーは人のこの知覚受容体としての機能を奪いとってゆく。近年、情報通信技術を筆頭とする先端技術の急速な発達にともない、人間の能力は一年ごとに劣化し、それこそ指数関数的に私たちを取りまく世界は底が抜けたように空虚になっているわけだが、その大きな原因のひとつに、何かと触れあう機会が急速にうしなわれていることが、まちがいなくあるだろう。

角幡唯介『そこにある山 結婚と冒険について』中央公論新社

この文章は本書の中でもとくに個人的に印象に残った部分だ。何かの目的を達成しようと思うときに、やり方は大きく2つある。便利な道具を購入して、その道具の力を借りて、成し遂げる方法。もう一つは自分の力で、自らの能力を磨いて、目的を達成する方法。

たとえば、おいしいご飯を食べたいと思うときに、出来上がった料理を購入して食べようというのは前者で、自分で料理して作り出そうというのは後者である。手っ取り早いのは前者でコスパを考えれば前者のほうが効率的なのかもしれない。しかし、後者の自分で料理するという行為には「おいしいものを食べる」以外に得られるものがあることは、料理をする人なら実感するところではないだろうか。

まず、作るという行為自体にスポーツのようなおもしろさがあり、野菜を切る行為、肉を焼く行為などが、視覚や嗅覚、聴覚などの身体感覚を刺激する。さらに料理技術が上達していくことにも喜びがある。子どもを見ていても感じるが、人は自らの能力を高めて、自分でできることが増えていくことに喜びを感じる生き物なのではないだろうか。

ハラリ氏が述べているように、テクノロジーによって私たちが体=知覚受容体から遠ざかっている実態を角幡さんは実体験をもとにまざまざと示してくれている。便利さというポジティブな面に目が行きがちだが、同時にテクノロジーのこのような側面にも目を向ける必要性を感じる。

「体とのかかわりを失う」というとやや抽象的な感じもするが、このように体=知覚受容体と捉えるとわかりやすい。テクノロジーは人の認知や身体機能を助けるものだから、それによって感覚機能や身体機能を使わなくなる、というのは当然と言えば当然のことかもしれない。それが言葉を変えれば「楽をする」ということでもある。

精神科医の神谷美恵子さんは著書『生きがいについて』の中で次のように書いている。

いうまでもなく生きがい感はただよろこびだけからできているものではない。子供でもたえずよろこんでいるわけではない。さまざまの感情の起伏や体験の変化を含んでこその生の充実感はある。(中略)ルソーは『エミール』の初めのほうでいっている。「もっとも多く生きたひととは、もっとも長生きをしたひとではなく、生をもっとも多く感じたひとである」と。
(中略)
ほんとうに生きている、という感じをもつためには、生の流れはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。したがって生きるにに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際、時間は未来にむかって開かれていなくてはならない。

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

対象に関与した関わりの中にこそ、さまざまな感情の起伏や体験の変化が生まれるのではないだろうか。さらにその過程においては(とくに自然相手の中では)、当然ながら思い通りにいかない事態も発生し、それを自らの力で克服しなくてはならなくなる。ただ、これさえも生存充実感にとっては、重要な要素なのかもしれない。

さまざまなテクノロジーは確かに暮らしを便利に楽にはしてきたが、しかしその一方でこういった負の側面があることも認識して、生活者としての主体性を確保しながらテクノロジーと付き合っていきたい。テクノロジーに人間が合わせるのではなく、自分の生活スタイルを自分で決めながら、必要に応じてテクノロジーを利用する。

そう考えれば、「最近のテクノロジーについていけなくて・・・」などと気にする必要もないのかもしれない。

▼今回はこちらの本を元に書きました。ここに記したように、示唆に富む内容が盛りだくさんの本なので、気になった方はぜひ手に取ってみてください。

※2022年6月7日、元の文章がやや引用過多に感じていたので、引用を極力減らし、更新しました。

Photo by MartinFuchs on Pixabay

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